猛禽令嬢は王太子の溺愛を知らない
アリアナ・カレンデュラは燃えるような赤い巻き毛が特徴的な18歳の少女だった。
透き通るような青い目は鋭く、目の前の人間を見るだけで相手に威圧感を与える。
切れ長、といえば聞こえはいいが、その目つきは少女というより猛禽類のそれに近い。
鷹や鷲のように獲物を狙っている、と言われれば信じるほどに目つきの悪い侯爵令嬢――それが、アリアナ・カレンデュラ。王太子フリードリヒ・ヴァン・アレンドロの婚約者にして、この世界における「悪役令嬢」だった。
■■■
アリアナが前世を思い出したのは、15歳の時。すなわち、アリアナが王都にある国立の魔法学園に入学した日だった。
空が高く、雲一つない冴え冴えとした快晴の日。ミアナという平民の少女と学園の教室で隣同士に座った時、稲妻のようにアリアナの中を走ったのは、前世で日本人として生きてきたOLの記憶。そして、若い身空で事故死した彼女が最後の日まで愛してプレイしていた乙女ゲーム「マジカル・愛ラブユー」のオープニング映像であった。
ここがゲームの世界であること、自分が悪役令嬢「アリアナ・カレンデュラ侯爵令嬢」に転生していると気づいたときには、残念なことにアリアナはすでにこの世界のヒロインーーミリナに「平民がこの学園に入るなんて、どんな方法を使ったのかしら」なんて嫌味ともとれる言葉を口にしてしまった後だった。
「え……」
ミリナの目が驚きに見開かれる。
それはそうだ。初対面の相手からこうもひどい言葉を投げつけられればそんな顔にもなる。
「いいえ、なんでもありませんわ。ただ、そう、ただ……ここは高等教育を受けた貴族ならば入ることもたやすい学園ですが、庶民のあなたが入るなんて、ねえ……」
金を積んで裏口入学をしたのじゃないか、と疑うように見て、アリアナは縦に巻かれた豪奢な赤毛をふわりと指先でもてあそんだ。ミリナは庶民ではあるが、国有数の商人の娘だった。
周りの生徒が気まずそうにミリナから目をそらす。侯爵家という後ろ盾と、王太子という婚約者のいるアリアナに逆らえば面倒なことになる、そう思っているのだろう。
アリアナが口元にはいた笑みが、アリアナ自身の意地悪そうなまなざしを強調して、彼女の悪意をありありと表していた。
そう――すくなくとも、他者の目にはそう見えたはずだ。
たとえ、アリアナ本人にそんな気が全くなくとも。
実際には、アリアナは優しく微笑んだつもりだったし、アリアナが言おうとしたことは「平民なのにこの学園に入学するなんて、よほど努力したのですね」という尊敬の言葉だった。
だが、アリアナの高位貴族という出自、目つきの悪い、いかにも悪役ですと言った顔、そして、なにより思ったことをうまく口に出せない、顔もひきつってしまう、という、あがり症の性質が、周囲にアリアナはこのミリナという少女が気に食わないのだと思わせた。
「あ、ええと……」
ミリナが困惑してアリアナを見つめる。
慌てたアリアナは、笑みを消してふるふると首を振った。違う、おびえさせたかったのではない、と言いたくて。
ただ、それをどう伝えるべきかはわからなかったので、無言だったが。
――おい、アリアナ様、本当にあの庶民が嫌なんだな。
――ああ、笑顔が消えたぞ。
――あきれてものも言えないのかしら、あの庶民の子、嫌味がわかっていない様子ですもの。
――さすがアリアナ様ね。
――伝統ある学園に庶民が来るのが許せないって?
――そうそう、アリアナ様、選民意識の高い方みたいだし。
(ちがう、ちがうのです……)
緊張しすぎて言葉がうまく出てこない。
いつもそうだ。アリアナは顔と性質のせいで誤解を生みやすいのに、友好的にふるまおうとして失敗する。
「あなた、勘違いをしているのではなくて?」
(そう、勘違い!勘違いです!誤解なんです!わたくしはあなたに悪意なんてありません!むしろ大好きなこの世界のヒロインと仲良くなりたいんです!)
「わたくし、あなたと、仲良くしたいと思っていますのよ?」
(ばか!わたくしのばか!威圧感を消しなさい!言葉を考えなさい!この……ばか!)
内心と、口から出す言葉が取っ組み合いのけんかをしている。
アリアナは猛禽のような目をぎっと限界まで開き、手を握りしめながらひとこと、ひとこと、区切るように言った。
ミリナは困ったように「ありがとうございます」と眉を下げて礼をする。
なんて優しいのだろう、聖女だろうか。
ミリナがヒロイン――アリアナが大好きだった愛らしく優しい少女でなければひどすぎる、と憤られていてもおかしくない態度をとった自覚がある。
アリアナは、ミリナへの感動半分、申し訳なさ半分で目に涙をにじませた。
それを周囲がどうとったかといえば。
――なあ、アリアナ様を言い負かしたぞあのミリナって子。
――すごいなあ、顔もかわいいし、性格も強くてやさしくて。
――それに比べてアリアナ様は……。
という、アリアナへのマイナスに振り切れた印象であった。
アリアナは自分へ心の内で「ばか!わたくしのばか!」と罵倒しながら、泣かないように目に力を込めた。
その目がますます鋭くなる。けれど、侯爵令嬢として人前で泣いてはいけない、という矜持がアリアナに涙をこぼすことを許さなかった。
それがますます誤解を増長させる、とは分かっていたが、アリアナにはどうしようもなかった。
その時だった。
「――アリアナ」
「フ、リードリヒさま」
輝くような金の髪に、エメラルドのような緑の目をした美しい少年が、アリアナを呼んで、アリアナを背後から優しく抱きしめた。
驚きに目を瞬くアリアナを優しい目で見つめ、フリードリヒと呼ばれた少年は笑う。
「新入生同士仲良くしなくては。同級生にそういう言い方をしてはいけないよ」
「は、い」
顔を隠すように抱きしめてくれたことに感謝しつつ、アリアナはほう、とを吐いた。
フリードリヒ・ヴァン・アレンドロ。アリアナの生まれたときからの婚約者にして、このゲームのメイン攻略対象。
文武両道、品行方正、容姿端麗。絵にかいたような王子様である彼は、その性格の通り、この国の王子――それも、王太子だった。
横目でちらと見たミリナも頬を染めている。それくらいに素敵な彼は、アリアナたちの同級生。
これはオープニングの直後の、フリードリヒの登場イベントだ。
アリアナに意地の悪い言葉を向けられたミリナが、フリードリヒにかばわれるシーン。
ミリナの反応からして、フリードリヒに悪い印象を抱いたわけはないだろう。
そもそも、フリードリヒは素晴らしいひとだ。アリアナとは違い、誰からも愛される、素敵な人。
――アリアナが、恋をするくらいに。
アリアナはまた泣きそうになる目をきゅっと閉じた。
ああ、と思う。きっとミリナはフリードリヒを選ぶ、と。そして、そうしたらアリアナは悪役令嬢としてミリナをいじめてしまうのだ。
だって、アリアナはフリードリヒを取られたくないから。
記憶が戻った瞬間は、ミリナをいじめないようにしよう、と思っていた。
でもそんなの無理だ。大好きなひとを奪われないように、きっとアリアナは必死になってしまう。
アリアナがフリードリヒをかばって、後頭部に傷ができた日のように。
その傷のせいで皮膚が引きつれ、顔――特に目元が、ゆがんでしまった時のように。
フリードリヒの制服をきゅ、とつかんで震えるアリアナは、気づかなかった。
フリードリヒが、アリアナを、いとおしくてたまらない、という目で――それも、ひどい執着心のこもった目で、見つめていたことを。
アリアナを逃がさぬとでもいうように、その手に力がこもったことを。
■■■
物心がついたころ、フリードリヒに引き合わされたアリアナは、フリードリヒにたった一日で恋をした。
その頃はそれが恋なのだとわからなかったけれど、今ならそれがはじめてアリアナが抱いた恋心なのだと断言できる。
幼いころ、詰め込まれる礼儀作法の授業がつらくてむすくれていたアリアナに「僕も実は苦手なんだ」と笑ってくださったあの瞬間、アリアナはフリードリヒを好きになった。
たったそれだけで何を、と思うかもしれない。でも、アリアナにとって、その言葉は、笑顔は、人生を変えるに値するものだった。
だから、その日、茶会の場に現れた刺客からフリードリヒをかばって飛び出すことになんの迷いもなかったし、その刺客にナイフの刃先で切り付けられた際に後頭部に負った傷のせいで面差しが変わってしまっても後悔なんてしなかったのだ。
(……けれど、この変わってしまった顔のせいで誤解を生みやすくなったことは、事実なのよね……)
後悔はしていない。
今同じことがあっても、アリアナは一瞬たりとも迷わずフリードリヒを守るべくこの身をさらせるだろう。
ただ、その結果器量を損ねたこの顔を、フリードリヒが好むだろうか、というのはまた別の話だ。
それは、今アリアナの目の前にいる、数人の女生徒たちも口々に話していることだった。
「アリアナ様、あなたはフリードリヒ王太子殿下にふさわしくない、それはご存じですね?」
「この三年間、ミリナさん――いいえ、もう次期公爵夫人ですね、ミリナ様をいじめていたこと、知らないとでもいうと思いますか?」
「いいえ」
アリアナは静かに言った。
記憶を取り戻してから三年。もうすぐ卒業、そろそろ断罪の日ね、というとき、アリアナは特に親しい間柄ではない女子生徒たちに昼食の場にしている中庭で囲まれた。
おかしい、ミリナをいじめていたことに対する断罪は、卒業式の日だ。
この三年間、アリアナはミリナをさんざんけん制してきたし、嫌味めいたことを言って落ち込ませたりもした。さすがに暴力をふるったり、持ち物を壊したり、というのは小心者のアリアナには難しかったので、言葉だけだが。
けれどアリアナの猛禽のような目つきがその言葉たちを装飾し、いかにもひどいいじめをしている、といった風に周囲に見せた。
ひとつ、誤算だったのは、ミリナが選んだのは騎士団長の子息である公爵令息のディオンであり、フリードリヒなどミリナの眼中になかったことだ。
何度も何度もけん制し、悪口を言ったりしたことは、まったくもって無意味極まりなく、いたずらに周囲からの好感度を下げ、フリードリヒとの仲をぎくしゃくさせただけだった。
(昨日も、フリードリヒ様に、おかしくなりそうだからそんな目で見つめないでって言われてしまったもの)
悪口という素行不良を繰り返すアリアナに怒っているのか、真っ赤な顔をしてアリアナから目をそらしたフリードリヒを想う。
アリアナは、もうすっかりフリードリヒから見限られてしまったに違いなく、また、数日後に行われる卒業式で、ミリナへのいじめを公表され、婚約破棄をされてしまうはずなのだ。
だってゲームではそうだった。
ミリナが誰を選ぼうとも、アリアナの行く道は破滅だ。
アリアナは、自分を囲んでにらむ女生徒たちに、あきらめたように笑って見せた。
「この期に及んで余裕の笑みですか」
「本当に、自分が悪いなんて思っていないんですね」
「そんなことないわ」
(わたくし、本当におばかさんなんだわ。わたくしが笑ったところで全部悪い意味にとられてしまうのに、それでも諦められないでいる)
アリアナは、力なく垂れた燃えるような赤毛をふるふると振って、じっと女生徒たちの目を見返した。
そうしたところで、誤解が解けるはずはないのだけれど。
「こ、の――!」
「私たちを、バカにしているんですか!」
女生徒のひとりが、アリアナを突き飛ばそうとして、その手を前に出した、その時だった。
一陣の風が吹き抜けた。
風――そうだ、風だ。
風のように走り、アリアナをかばうように抱きしめたのは、最近見ることのなかなかできなくなった、輝かしい金の髪をした青年だった。
ゆるりと顔をあげ、秀麗な顔をした青年が、その顔に剣呑な色を浮かべて女生徒たちを見据える。
「誰が、誰にふさわしくないって?」
「ふ、フリードリヒ王太子殿下!」
「君は今、アリアナに手をあげようとしたね?この学園では暴力は禁止されている。そうでなくとも相手に手をあげる行為は人としてありえない。申し開きがあるなら聞こうか」
青年――フリードリヒ。
彼は、まるでアリアナを守るようにして女生徒たちに言ってのける。
どうしてアリアナを守るのだろう。アリアナはフリードリヒにすでに見限られているはずだ。
……女生徒たちはなにも言えないようだった。だってそうだ。王太子に申し開きーー口答えができる人間なんて、この学園にはいない。
周囲にざわめきが大きく広がって、そこでアリアナは、ここが人目のある中庭だということを思い出した。
「ふ、フリードリヒ様」
「なんだい?アリアナ」
「そ、その方たちは、べつに」
「君に手をあげる人間をかばうの。ふーん……」
女生徒たちが戸惑うようにアリアナとフリードリヒを見ている。
アリアナは混乱して、あわあわと顔を赤くしてフリードリヒを見つめた。
――と、フリードリヒの顔がふいにそらされる。
アリアナが、ああ、まただわ、と傷心して目を伏せた。最近のフリードリヒはいつもこうやってアリアナから目を逸らす。そんなにアリアナを疎ましく思っているのなら、守る必要なんてないのに。
そう思った時だった。
「アリアナ、そんな目をしないでほしい。そんな可愛い顔をされてしまうと、僕はどうにかなってしまいそうになるんだ。ただでさえ君は最近大人びてきて、きれいになっているのに」
――ん?
周囲の心がひとつになった。
もちろん、アリアナもそのひとりだ。
風向きがおかしいわ?とアリアナは目をぱちくりさせる。
フリードリヒの顔を見上げると、フリードリヒは顔を赤くして、アリアナを見たり目をそらしたりを繰り返している。
その姿は、とても周囲が、そしてアリアナが思っていたような「素行の悪い婚約者を厭っている王太子」のものではなかった。
「あ、あの、フリードリヒ、さま?」
「……ああ、もう!どうしてアリアナはそんなに愛くるしいんだ……!この女生徒たちへの怒りより、君への愛でおかしくなってしまいそうになる……!」
「……え?」
フリードリヒがたまらない、というようにアリアナの額にキスをする。
それは、まさしく婚約者が愛しくてならない、という態度でしかなくて。
――この見世物に、周囲に人が集まってくる。
周囲の人間が不可思議なものを見るように目を見張る、その瞬間。
「――ぴ」
……ぴ?
「ぴゃあああぁああ!」
突如響き渡った小鳥のような悲鳴に、周囲のみなは音の発生源を探し、そしてその音の源に気づいて驚愕の視線を向けた。
その顔に、なんだ、今の声は、という困惑を宿して。
「ぴゃ、ぴゃぁああ……」
「ああ、小さいころからかわらないね、驚くと小鳥みたいに悲鳴をあげるところ」
「……な……!ばか!フリードリヒ様のばかっ!」
「うんうん、はずかしくてたまらないんだね。それに、罵倒したいのに罵倒の語彙がなくてばか、しかいえないんだよね、アリアナは」
「ば……ば、ばかっ!ばかばかっ!」
ぽかぽかとフリードリヒの胸をたたくアリアナの目は涙に潤んでいる。
その様は、鷹や鷲という猛禽というよりは、フクロウの赤ん坊のようだった。
おや……?と周りの面々が首を傾げ、しばしの沈黙がその場に落ちる。
そんな中、ふいに、誰かが言った。
「あ、アリアナさまって、かわいいのでは」
「しっ……!いやでもたしかに……」
「赤ちゃんフクロウ……」
「ばかしか語彙がないって、それ、もしかしてミリナ様への悪口もそれしか言えてないってこと?」
「いや、っていうか、そもそもこのかわいいのが悪意ある言葉を発するのがもう想像できないんだけど……」
周囲の、アリアナへの悪印象があっという間に塗り替えられていく。まるで仕組まれてでもいるかのように。
混乱して、あわあわと涙を浮かべ、最終的にはずかしくてフリードリヒにしがみつくアリアナは、その時に浮かべられたフリードリヒの薄い笑みに気づかない。
「ミリナ嬢をいじめたなんて、ミリナ嬢本人がそう言ったのかい?アリアナにいじめられたって」
「い、いいえ」
フリードリヒの言葉に、女子生徒が呆然と返す。彼女たちは、今見ている光景が信じられないようだった。
「ミリナ嬢は、アリアナに貴族になるためのアドバイスをもらった、と言っていたよ。そもそも、ミリナ嬢は卒業式の答辞にアリアナへの賛辞と感謝を原稿用紙100枚分つづっていたんだ。そんなミリナ嬢がアリアナを嫌いだと思う?嘘だと思うなら、ミリナ嬢に直接聞いてみればいい」
「……ア……御前、失礼します……!」
礼をとって女子生徒たちが走り出す。
おそらく、フリードリヒの言葉通り、ミリナに直接聞きに行くのだろう。
しかしそんなことはもはやアリアナには関係ない。
ぐるぐる回る頭で、震える口で、必死に「ばか」と繰り返すしかできないのだ。
「ふふ……アリアナはかわいい。本当にかわいいね……。本当は、人前にこんなにかわいいところを見せたくはなかったんだけれど」
「かわいくっ、ないですっ!」
「うーん、まったくもってかわいい」
かみしめるようにフリードリヒが言う。周囲の生徒たちがそれぞれに頷くのがわけがわからない。
アリアナは、しぼりだすような声で言った。
「だって、そんな、どうして……そう思っていたなら、言ってくださらないの」
「君が好きすぎて照れてしまったんだ。でも、このままではいけない、と思ってね」
フリードリヒの目がすう、と細められる。
アリアナは気づけば目から涙を流してしまっていて、しゃくりあげるような嗚咽を我慢することができなかった。
「わたくしが、すき?」
「うん」
「わたくし、あきらめようとおもっていましたのに」
「――あきらめる?」
「ええ、だって、わたくし、素行不良で。目つきも悪くて」
「素行が悪いなんてことないし、愛しい君にそんなことを言う人間がいたら引きずり出して八つ裂きにしてあげる」
フリードリヒがそのまなざしにひやりとしたものを混ぜて言った。
周囲の温度が数度下がった気がするが、泣いているアリアナは必死すぎて気づいていない。
ただひたすらに周囲の人間が王太子の愛の重さを垣間見て、ぞっと背筋を凍らせただけだ。
「ご冗談はいいですわ。……でも、そう、そうなんですのね」
アリアナは、その子フクロウのような目にいっぱいの涙をためて、フリードリヒを見上げた。
「わたくし、あなた様を好きでいてよろしいんですの?」
「――好きでいてもらわないと、僕が困るよ」
「……わ、わたくしっ、フリードリヒ様が、すきですっ……すきなんですの……」
「うん――うん――……」
フリードリヒの、アリアナを抱きしめる手に力がこもる。
「……僕も、君を愛しているよ」
フリードリヒが、言って、アリアナの頤を片手でそうっと持ち上げる。
触れるだけの口づけをして、アリアナがぼうっと目を瞬いたとき、周囲から拍手が響いた。
そこでアリアナは、自分たち以外にひとがこんなに集まっていたことに気づいてようやっと驚いた。
「――ぴ」
「ぴゃああああ!」
悲鳴があがる。小鳥のような悲鳴が。
それを愛し気に見つめながら、フリードリヒがもう一度、アリアナの唇をふさいだ。
あたたかな拍手がふたりを包み込む。
その幸福に酔いしれながら――自分の腕の中に、アリアナがいることに酔いしれながら、フリードリヒはうっそりとほほ笑んだ。
あの日――アリアナが自分をかばって倒れた日を覚えている。
刺客はすぐにつかまったが、アリアナの体には一生残る傷ができた。
最初は、かわいそうだな、と思っただけだった。
けれど、手当を受け、数日の間生死の境をさまよったアリアナが目を覚まし、見舞いに来たフリードリヒに「あなたが無事でよかった」とほほ笑んだとき、フリードリヒは、自分はこの娘のために生まれて来たのだ、と確信した。
生涯残る傷は、アリアナの容貌も変えてしまった。
それ以前に、死ぬところだったのだ。幼いアリアナが鉄臭い海に沈むところを覚えている。
それなのに、アリアナは自分よりフリードリヒを優先したのだ。
憐憫だろうか、いたわりだろうか――憧憬だろうか。
いいや、そのどれとも違う。
フリードリヒは、この瞬間恋に落ちたのだ。
恋などというには生ぬるい、汚泥のような醜くどろどろした愛に、おぼれた。
恋をして、君を愛して――君のすべてを欲しいと思った。変わってしまった顔だって愛くるしいと思っているし、ミリナに嫉妬するアリアナはかわいらしかった。
けれども、こんなにも愛しているのに彼女が自身から離れていこうとしているのを感じ取った瞬間、フリードリヒは自分が狂うかと思った。
愛を伝えているつもりだった。けれど、そんなものでは足りなかったのだ。
もっと、もっと――アリアナが、自分から離れていかないよう、愛さなくては、と思った。
そうして、フリードリヒはミリナがアリアナへ好意を抱くように仕向けた。と言っても、アリアナのあまのじゃくな性質を教えれば、それは難しいことではなかった。
ミリナが好いたのが自分の側近だったのも都合がよかった。
その想いをそれとなく操作し、側近であるディオンへミリナを勧め、二人がなんの障害もなく結ばれるように力添えをした。
それもこれも、アリアナがフリードリヒの想いを受け入れてくれるようにするため――フリードリヒから逃げ出さぬよう、外堀を埋めるためだった。
そうして、今。
予定通り、卒業式の一週間前である今日、アリアナはアリアナを誤解する人間に糾弾され、その心を弱らせた。
そこにつけこみ、アリアナの「好き」を引き出した。これほど幸せなことはない。
アリアナに手をあげようとした女子生徒の顔は覚えた。許すつもりはありはしなかった。たとえそれが、正義感からした行動だろうと。
けれど、今はただ、このしあわせに浸っていたい。
フリードリヒは、おのれの緑の目が、猛禽よりもなお鋭く、氷のように冷徹に細まっていたのを、内へ、内へと隠して、やわらかなまなざしで腕の中のアリアナを見つめた。
アリアナは、知らないでいい。フリードリヒの、この妄執めいた想いを。
けれど、そう、もしも知るなら、もう逃げられなくなってからがいい。
そうーーフリードリヒの想いにがんじがらめになって、逃げられないようになってから――フリードリヒの本性を知ってほしい。
焦げ付くような想いを――君を、どれほど深く、愛しているのかを。
君を、必ず幸せにすると誓うよ。
――……猛禽令嬢だけが、王太子の執愛を知らない。
今は、まだ。