Act.1 怪人の要求
ウォンドンは、商工を中心に円形に発展していった都市である。
中央から東・西・南に向かって三本の大通りがT字型に貫き、その中心部では毎日のように様々な人や物が行き交い、雑多な声に満ちみちている。
しかし、どれだけ人口が多くとも、人が好んで寄りつかない場所というのは、どこだろうとあるものだ。この都市では、大通りから北側へと外れた一画に〈それ〉はあった。
密集したコンクリートの高層住宅群に、狭い路地に構えられた出店や立ち売り。それらが迷路のように入り組み、群がるそこは、ウォンドンの裏の顔ともいうべき酒とタバコ、女をこよなく愛する日陰者たちの生活圏である。
競い合うように背を高くする住宅群から伸びる長い影は、ただでさえ日光の乏しい建物同士の隙間に、まるで深い谷底を思わせるような常闇を注ぎこんでいる。
影を好む人間は、いつの時代でも居るものだ。
闇を恐れる者たちにとって、そこは忌むべき禁足地だが、脛に傷もつ者たちにとっては、人目を遮ることができる絶好の安息地といえる場所だった。
名ばかりとはいえ〈殺し屋〉という過去を持つフィドもまた、この場所の立派な住人の一人だった。
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そのアパートはウォンドンの禁足地の中でも裏通りに面しており、フィドはそこの中層階――九階にある部屋を拠点に生活していた。
狭い玄関を通った突きあたりの扉の先には、十畳のリビング、正面に一二〇センチ四方の出窓があり、脇にある木製の作業机には、こまごまとした工具類が置かれている。
入って左前のドアがトイレ兼シャワー室、その奥のドアが四・五畳の寝室である。リビングは自分でいうのもあれだが、酷く雑然としていた。
部屋の真ん中に置かれた脚長のテーブルには、機械修理に関する本が山をつくり、その隅には飲み終わったマグカップが放置されている。
見上げる天井には、年季の入ったタバコのヤニが染みをつくっていて、およそ清潔感とはほど遠い有りさまだった。
しかし、一人暮らしの男の部屋なんて、だいたいこんなものだろう。今さら体裁を気にするような神経も、フィドは持ちあわせていなかった。
もともと部屋に案内しろ、と言いだしたのは向こうなのだ。こちらに非はない。そんな男が暮らす部屋に、いつの間にかトラックの荷台に忍びこんでいた少女は、遠慮なく上がり込んできた。
一体どういうつもりでここまで案内させたのか……。
少女の背中をみながら、フィドは思案にふける。しかし、いくら考えたところで、悪い方に想像することしかできなかった。
それもそうだ。この少女にとって自分は、命を助けたにも関わらず、助けた者を置きざりにして一目散に逃げ出した薄情者なのだ。
そういう相手に対する感情の行きつく先は、だいたい相場が決まっている。報復か、復讐。もしくはその両方である。
「ほかに同居人はいないのですか?」
部屋の中を見て回りながら少女はいう。
相も変わらず、その表情から感情を読みとることができない――というか表情筋が氷ついたように動いていない。かなり不気味だった。
「いねえよ。それがどうした。おまえ俺に仕返しに来たんじゃないのか?」
フィドは思っていたことをそのまま言ってやった。
いい加減にじれったい。部屋にまで上がり込んで、訳もわからないままに質問だけされるのは、正直いって不愉快である。少女の目的が復讐だというのなら、さっさと白黒付けてもらいたかった。
「そんなことはしません」
意外なことに、少女は腹を立てているわけではないという。ならば、
「じゃあ金か? 命を助けてやった代わりに謝礼がほしいっていうんだろ? 言っておくがそんな金はないからな。たかるだけ無駄だ」
「お金が目的でもありません」
淡々と質問を否定する少女。
その態度が、余計にフィドをイライラさせた。
「じゃあなんなんだよ! いい加減おしえろ!」
ついに耐えられなくなり、激しく問い詰めた。目的が復讐でも金でもないというのなら、一体なんのために部屋に案内させたというのか。
「ここにしばらくのあいだ住まわせてもらいます」
信じがたいこと言われ、高ぶっていた思考が一瞬で停止する。
「は? おまえ……冗談だろ?」
聞き返した問いに返事はなく、少女は鋭い視線を向けるだけだった。冗談ではない、ということなのか……。だが、そんなことを認めるわけにはいかなかった。
「ダメだ、というか嫌だ」
フィドは当然それを拒否した。助けられたことは確かだが、会ったばかりの得体の知れない人間を、部屋に住ませるなんて受け入れられるわけがない。だが、
「あなたに拒否する資格はありません」
対する少女は、そんなことお構いなしだった。
「ホコリまみれなのでシャワーを借ります。場所はこっちですか?」
家主の返答になど聞く耳をもたず、少女はシャワー室に向かって歩き出す。
「おい、待て!」
いくらなんでも勝手が過ぎる。
フィドが道を塞いだ。
その瞬間――。
少女は持っていた包みの先端を、フィドの鼻先に突きつけた。動きは速すぎて見えなかった。が、彼は本能的に両手をあげて、ギリギリのところで静止する。
あまりの速さに呼吸が止まり、唾を飲む。
室内に矢のように緊張が走ると、
「あなたの命は、そんなに安いものだったのですか?」
その言葉に、フィドは一瞬目を見開いた。
固まる彼をよそに、少女は脇を通りすぎてシャワー室に入ってしまう。バタンッというドアが閉まる音で、張りつめていた緊張の糸が緩む。
「…………」
しばし呆然と立ち尽くしたあと、深いため息をこぼし、フィドはテーブルに体重をあずけた。
そして、疲れたように天井を仰ぎ見る。なんなんだあいつは……。それになにが命の価値だ。
「そんなもの……あるわけないだろ」
苦々しい思いを込めてフィドは呟く。
自分のことを孤児院に招き入れてくれた仲間たちは、逃げる間もなく一瞬で、飛んできたミサイルの直撃で粉々になった。
仮にだ。〈命〉というものに等しく価値があるのなら、死んだ彼女たちに価値はなかったのか?
お互いにない部分を補い合って、慎ましく生活していた彼女たちに価値はなかったのか?
もしも価値があったのなら、
あんな死に方をせずに済んだはずだ……。
結局はそれが答えだ――。
命に高いだの安いだのという価値なんてない。それが、フィドがこれまでの人生で学び得たことだった。そうでなければ、自分だけが生き残れた理由が見つからなかったのだ。
それにしても、と気持ちを切り替える。
あの少女の目的を知って、余計にわからないことが多くなった。だが、誰かに追われているとか、そういう類いの事情はないらしい。急いだり脅えている様子がないからだ。
如いていうなら単純に、腰を落ちつける場所を探しているように感じられた。それもただの気のせいかもしれないが……。
はあ、とフィドは再び息をつく。
いい加減納得のいく答えのでない禅問答に疲れて、おもわず頭を掻きむしった。そこで、困ったように少女が入っていったシャワー室に目を向けたときである。
ある重大なことに気がついた。今、自分の部屋のシャワー室を若い女が使っている――という事実に。
「…………」
胸の奥からほの暗い欲望がゆっくりと顔を出す。
フィドは忍び足でシャワー室のドアまで近いて、耳を立てた。それらしい音は聞こえてこない。
もう少女はあの奇妙な服は脱いだのだろうか? とさっきとは違う意味で唾を飲み込む。
これは思っていたよりおいしい展開じゃないのか?
だいたい理由もろくに話さずに「ここに住まわせろ」なんて言うような女に、義理をたてる必要なんてないだろう。
それにこれは、あの女の正体を知るために、仕方のないではないのか……きっとそうだ。
などと、自分への建前と少女への言いわけを脳内で再生しながら、シャワー室に繋がるドアノブにゆっくりその手を伸ばしていく。
「仕方ないんだ。正体を確かめるためにおう!?」
刹那。
ノブを掴もうと身を乗り出したときである。
眼前のドアが吹っ飛んだ。
フィドの全身に大型トラックに体を密着させた状態から、急発進させられたようなGが襲いかかる。ドアは覗き魔を巻き込みながらうしろに吹っ飛ぶと、今度は逆に押しつぶす形で台所まえの壁に激突して、やっと動きを止めた。
数秒後に「聞こえていますよ」という少女の声が、伸しかかるドアの向こう側から哀れな覗き魔の耳に届けられた。
そのとき、ふと思った。
そういえば……あの塔の最上階で……少し場所が悪かったら。俺もあの扉ごと……こんな風に吹きとんでいたのかもしれないな。
薄れゆく意識のなか、そんなことを想像しながらフィドは意識を失った。
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三月二日。
目を覚ますと、時刻はすっかり朝になっていた。
肝心の少女はというと――。
あのよくわからない形をした服を脱ぎ、備蓄しておいたワイシャツとジーンズに身を包んで、これまた買っておいたライ麦のパン、瓶詰めの羊乳をもしゃもしゃと食いながら、堂々と椅子に座って本を読んでいた。
それを見てフィドは、自分が年頃の女が部屋にいながら、固い床とドアに挟まれて一夜を過ごしたことを悟り、行き場のない憤りを覚えたのだった。
三月七日。
その日からさらに五日が過ぎたが――。
あれから事あるごとに部屋から出ていくよう少女にいって聞かせたが、残念ながらその甲斐もなく、少女はいまだに部屋に居座りつづけていた。
その聞き分けの悪さに辟易して試しに名前を尋ねてみると、今度はあっさりと〈キル〉という名前であることを教えてくれた。
だが、素直に教えてくれたのはここまでで、それ以外のことを何度となく尋ねても、キルは決して、それ以上のことは教えてくれなかった。
なぜあんな場所いたのか?
その前はどこにいたのか?
これから何がしたいのか?
固く口を閉ざしたまま、まったく話し出す様子がない。
過去、現在、未来――そのどれもがキルという少女は不明瞭で、ほんとうに謎の多いやつである。
唯一の手掛かりは、あの塔は〈ジェノサイテックが建てたものである〉ということぐらいだったが、それもどこまで信じていいものなのか判然としない。
ともあれ、まだ同居を許したつもりはない――というのに勝手に食料を食べたり、衣服を持っていかれるのは、さすがに我慢できなかった。
そこでダメもとで、彼女に三つのルールを伝えてみることにした。
その一、部屋に居座るつもりなら自分の食いぶちは自分で稼ぐこと。
その二、着替えは服を勝手に着るのはいいが、洗濯ぐらいすること。
その三、仕事の邪魔をしないこと。
正直なところ、このルールに素直に従ってくれるとはフィドも思っていなかった。しかし、驚くことに彼女は以外にもすんなりと、このルールに同意してくれた。
予想外の回答に肩透かしを食らったフィドは、こんなことなら「俺のために働け」とか、もっときつい要求を入れてもよかったかもしれないと後悔した。が、そこはあえて自重することにした。
逆切れでもされて、家具を壊されるのが怖かったのだ。あの力で蹴りを入れられたら、相手が大の男でもひとたまりもない。想像しただけで身の毛もよだつ。せっかく拾った命を、小銭欲しさに捨てることもないだろう。
事後処理というか。後始末といおうか。彼女に吹き飛ばされたシャワー室のドアだが――あれは結局、自分で直す羽目になった。
あのあと「どうやってドアを吹き飛ばしたんだ?」と問い詰めたところ「穴が空かないように足で蹴りとばした」と返され、言葉を失った。
言われてみれば――。
〈二十階以上あるビルから駆け下りる〉なんて荒業をやってのける人間離れした脚力である。三センチほどの厚さしかない、木製のドアを蹴りぬくなんて朝飯まえだろう。
そう考えると、初日にシャワーを覗こうとしたことなど論外だった。アホにもほどがある。虎穴に入ってなんとやらだ。その行為は、荒廃塔に行ったことと大差ないほどの危険なことだったのだ。
それからというもの〈もうキルのことは女と思うまい〉とフィドは固く心に誓うのだった。
ともあれだ。差しあたって自分がこれからするべきことは、特に変わらなかった。
なんにしても、生きるためには金がいる。コンピュータが手に入らない以上、また修理屋の仕事を探さなければならないし、バイオメータも壊れているので、よその町に出稼ぎに行くこともできなかい。
むしろ謎の多い同居人ができたことで、厄介ごとは増えたぐらいだったが、文句を言っていても仕方がない。
フィドはとりあえず、当面の問題である生活費を稼ぐため、修理屋の仕事を探すことを決めた。
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住み慣れたアパートの一階まで降ると、通りに面したシャッターが開かれたアパートのガレージに足を向けた。
ガレージの内部は、機械のオイルと金属特有の鉄の錆びた匂いが混じり合った独特の臭気に満たされていた。
フィドは毎回ここに来ると、昔、自分が修理の技術を教えてもらっていた場所のことを思い出して、懐かしい気持ちになるのだった。
壁の棚や床には、自動車や重火器などを構築する金属片、又はなんの役割があるのか不明な部品がところ狭しと並べられ、そのどれにも数字や記号が書かれたタグが巻かれている。
アパートの一階部分は、修理屋と依頼者とのあいだを取りもつ〈仲介業者〉が所有するガレージになっているのだ。そして、その仲介業者こそがこのアパートのオーナーである。
「おい! いないのか?」
呼び声がガレージに響く。すると、数秒もしないうちに、奥の扉から一人の男が顔を覗かせた。
「なんだおまえか。やっと家賃を払う当てができたのか?」
男は胸ポケットからタバコを一本取り出すと、ライターで火をつけた。
左右になか分けされたジンジャーカラーのロングヘアに赤いバンダナ、口もとを覆うアウトドアなひげが特徴のこの男は、マルク・ロドリーゴという。
歳は三十代前半で、フィドより年上ではあるが、特に気にした素振りを見せたことはなく、フランクで話しやすい男である。
顔はなかなかの男前なのだが、とにかく女に甘い。
依頼にきた女性客の依頼料を気分でまけたり、仕事そっちのけで飲みに誘ったりするせいで、一部の客層(おもに若い女性客)からのクレームが多いらしいが、反省したところをフィドは見たことがなかった。
家賃の支払いが滞りやすい彼がなんとか生活できているのも、このマルクの存在が大きい。そこはしっかり感謝している。それを本人に伝えるかは別問題だが。
「そのために仕事がいるんだよ。割の良いのはないか?」
「また延滞かよ。ならちょうどいい。外にちょっと付き合え」
「おまえのナンパの手助けなんてごめんだぞ」
「仕事に関係する話だ。いいから来い」
マルクは慣れた動きで床の機材を避けて、正面の入り口から外に出た。フィドはそのあとを渋々ついていくことにした。