Act.3 死のダイブ
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荒廃塔の上空。
視線の先では、フィドが出てきた窓ガラスの穴から下を覗きこむ野犬の姿が、見る見るうちに間に小さくなっていく。
「――、――っ!」
声にならない声。叫びにならない叫びは、空気を押しのける轟音にかき消されて、自分の耳にすら届かない。
地面が見えない。なぜこんなことになったのかもわからない。だが、いま自分は塔から仰向けの状態で落ちているようだった。
そのとき腹部に違和感を覚え、視線を下げる――。
目を疑った。
例のヘルメットの人物に、フィドは〈左肩に抱えられた状態〉でビルから落ちていたのだ。
否、ただ落ちているわけではない。その怪人は信じられないことに、人ひとりを抱えた状態のまま、ほぼ垂直といっていい荒廃塔の壁面を駆け下りている最中だった。
すさまじい風圧に頭が、体が、手足が押し戻され、恐怖が一足おくれて全身を駆けめぐっていく。そんな強風をものともせず、怪人は風をかき分け、放たれた一本の矢の如くビルの壁を駆け抜けていく。
風以外の音など聞こえるはずはないのに、怪人がビルを踏みしめる音だけは聞こえた気がした。フィドの頭は、すでに現状を理解するのをあきらめ、茫然としながら抱えられていることしかできなかった。
そのとき、走る速度が少し緩み、
そして――跳躍。
両足で壁面を蹴りつけた怪人は、塔から一番近くに放置されていた車の屋根に着地する。同時に響くわたる金属がひしゃげる音。着地の衝撃によって舞いあがる砂の粒子。
その衝撃はフィドにも伝播し、抱えられていた腹の部分が圧迫されて、胃液を粗方ぶちまけることになった。
なんとかその程度で済んだのは、金欠で昼食を抜いていたことと、おそらく車の屋根に着地したことのおかげだった。
落下の衝撃は、車の天井がクッションの役割を果たし、多少軽減されたのだろう。あのまま地面に着地していたら、フィドはたぶん死んでいたはずだ。
しかし、それでも生身の人間が耐えられる衝撃としては、危険な威力に違いはなかった。抱えられたまま、体が小刻みにひきつけを起こし、視界がブレる。最早これは、痛みと呼べるものなのかさえわからなかった。
ヘルメットの人物は、そんな同伴者の安否など気にもかけずに、何事もなかったように車から飛び降りる。そして、
「あなたの乗り物はどれですか?」
周囲を見渡しながら言う。
その言葉をなんとか聞き取れはしたものの、フィドは返事を返せそうになかった。
仕方なく混濁した意識で、自分が乗ってきた二十メートルほど離れた場所に停めてある貨物自動車を精一杯、震える指で指示した。
すると、怪人はためらいなく彼を地面に放り投げる。二回、三回と地面を転がったところで、フィドはやっと触れた大地の感触に安堵した。
まるで一月以上海上で過ごしてしたような、久方ぶりの安心感に体中が喜びに打ち震える。ここにきてフィドは、やっと自分が生きていることを実感できた気がした。大地万歳。
「グズグズしないでください。あいつらが来ますよ」
「……あい……つら?」
未だはっきりしない意識で、聞き返す。
「さっきの犬たちは、ほんの一部でしょう」
その言葉に、ぞっとした。たしかに野犬は本来、群れで行動して狩りをする動物だと聞いたことがある。
だとしたら遭遇した犬どもは、この塔を巣にしていた一つの集団だったということになる。今いるここも奴らのテリトリーならば、そこに侵入し、あまつさえ仲間を殺した相手をそのまま逃がすわけがない。
のんびりしていれば必ず報復に来る――否、もう向かって来ているかもしれなかった。ここを離れる以外に助かる方法はないのだ。
理解してからの行動は早かった。すぐにフィドは体を持ちあげて、車に向かって足を動かす。
だが――荒廃塔を全力で駆けあがり、さらに最上階から抱えられたままダイブしたことによるダメージは、肉体的にも精神的にも限界を超えていたらしい。
両足はガクガクと震え、歩けば簡単にタタラを踏んだ。そんなことを何度も繰り返していると、途端に自分が情けなくなってきた。
フィドはおもわず、ハッと笑った。
死ぬ気でコンピュータを見つけに来たつもりだったのに……。そんな覚悟は簡単に折れて、野犬から逃げまくった挙句、コンピュータも見つけられないまま満身創痍でとんずらか。
千鳥足で歩くことしばし、それでもなんとか運転席にたどり着くことはできたことにホッとする。
ふと後ろを見ると、例の人物がじっと塔の方角を見つめている。警戒してるつもりなのか? 右手には、長物の包みを握ったままだ。
一体あいつは何者なんだ? いや――。
浮かんだ疑問をぶんぶんと頭を振って吹き飛ばす。そんなことは後でいくらでも考えればいい。今は生き残ることだけを考えるべきなのだ。
震える指でキーを取り出して、モーターを動かす。
しかし――動かない。
正確にはモーターが掛からなかった。
「このポンコツ……何でこんなときに!」
中古だったこの車のモーターの接触が悪いのは毎回のことだが、今回は場合が場合だけに冗談では済まされない。何度もキーシリンダと格闘していると、
「来ましたよ!」
後方から、濁った声が飛んできた。
窓から頭を出して、塔の方へと向ける――最悪だった。
入り口から遠目からでも八匹の野犬の群れが飛びだし、こちらに迫ってきているのが見えた。興奮しているのか、群れ全体から唸り声が聞こえてくるようだった。
だが、そんな野犬どもを相手に怪人は車に近づかせまいと、持っている包みと蹴りを駆使して応戦していた。
もう少しの猶予もないと悟ると、この場所から一分一秒でも早く逃げだしたい、という衝動がフィドの全身を駆け巡った。
「クソが!」
もう一度、祈るような気持ちでキーシリンダを回す。すると、ようやくモーターが動きだし、車内の計器が点灯した。
「あいつは!?」
とっさに後ろで戦っている怪人に視線を移す。が、フィドは歯を食いしばると前を向き、震える右足で思いっきりアクセルを踏みしめた。
続いて後輪のタイヤが数秒間、派手に砂煙を激しく撒きちらす。
一瞬体がうしろに引っ張られたあと、車は勢いよく発進した。後部から物同士が激しくぶつかる音が聞こえたが、気にせず一心不乱にアクセルを踏みつづけた。
あいつを助ければ、間違いなく俺も巻きぞいを食らう。
なによりあのビルの最上階から駆け下りるようなやつだ……絶対に普通じゃない。面倒事に巻き込まれるのはまっぴらだ!
フィドは来た道を、猛スピードで引き返しながらそんなことを考えた。危険区域を脱しても、安全圏に入っても、そのスピードを緩めることなくウォンドンへと走らせ続けた。
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ようやく都市に着いた時には、もう日は暮れかかり、空の色は薄い灰色から黒へと世界を染めつつあった。
この大陸の夜は早い。一年のほとんどを分厚い雲が空を覆っているせいで、日が傾けばあっという間に暗くなる。そうなれば暗闇が世界を支配し、星なんて見えた試しはない。だから都市の連中は、夜に外を移動するなんてことは絶対にしないのだ。
都市や町同士の移動や、活動をするのは日のある日中だけで、あとは夜が明けるまでを入り口を閉鎖してその中で過ごすのだ。
そのため、門が閉じられたあとに都市に入るのは、かなり面倒なことだった。
住んでいる場所から、訪問した理由などを聞かれ、挙句の果てには書類を書かされて、嫌というほど待たされる羽目になるからだ。
今回もなんとか閉め出される前に帰ってくることができて、フィドはホッとした。
そのまま車を走らせると、裏通りの住処にしている高層アパートの裏手にあるスペースに車を止める。高層アパートなんて聞こえは良いが、その実態は管理がずさんなオンボロアパートである。
なんでもこの町ができた当初から建っているらしく、外壁にはヒビが入り、あちこちの窓ガラスがガムテープで補強され、なんとかその役割を果たしているような状態だった。
その代わりではないが、部屋が割と広く、家賃が安い。だが、フィドはその安い家賃を三か月間も滞納していた。そろそろ払わなければ、本気でマズいかもしれない。
しかし今は、ボロいアパートのことも、滞納した家賃のことも、とりあえずはどうでもよかった。
「やっと帰ってきた」
車のモーターを止めたところで、張りつめていた緊張の糸をゆっくりと緩めていく。
そして、座席にもたれかかると、腹の奥底から重ったるい息を吐き出す。顔の前に両手をあげて見てみると、まだ小刻みに震えていた。
まったく散々な一日だったな、とフィドは今日の出来事を思い返す。
料金は踏み倒され、客には殴られ、バイオメータも壊れてしまった。おまけに猟銃まで失くして……そういえば、拳銃もいつの間にか無くなっていた。
結局、例のコンピュータを見つけることができなかったし、一体なんのためにあんな目に遭ったのだろうか。
そして何より――命を助けられてしまった。
「…………」
脳裏には、ヘルメットの怪人に言われた『助ける』という言葉がこびりついて離れなかった。
「どうしようもないだろ……」
ほんの少しの後悔を孕んだ声が、暗い運転席に小さく響く。そう、どうしようもなかったのだ。
そんな状況を過去にも体験したことがあった。思い出すのは仲間たちの悲鳴、黒い猿人、燃え盛る孤児院、穿たれた地面、周囲に立ち込めた肉と土が焦げた臭気。
それらを思い返すたび、決まって最後には何もできなかった無力な自分の残像だけが残され、虚しさに心が震えた。
そうだ……どうしようもなかったんだ、とフィドは自分に再度言い聞かせて運転席から降りると、力任せにドアを閉めた。
そのとき、ちょうど貨物車の後部に目が止まる。
そういえば後ろの荷物はどうなった? かなり乱暴な運転になっていたから、もしかしたら積んである工具がいくつか壊れたか。今から掃除をするのも面倒くさいな……。
などと思いながら車の後ろに回りこんで、車内を覗きこむために頭をいれた。
そこから唐突に、
白い腕が伸びてきて、頭をわし掴みにされた。
「!?」
開いた口が塞がらなくなった。誰もいないはずの真っ暗な車内に、見覚えのある灰色のヘルメットを被った人物が座っていたのだ。
噓だろ? あの状況で……。
一体いつ、どうやって乗りこんだ?
怪人はその反応をみても沈黙を続けると、フィドの頭を後ろに突き放した。その勢いでコンクリートの地面に尻餅をつく。
驚くフィドを尻目に、怪人はゆっくりと車内から這い出すと、被っていたヘルメットをうっとうしそうに脱ぎ去った。
「……おまえっ!?」
今日、自分は何度驚きの表情をしただろうか。
人ひとりを抱えたまま荒廃塔から駆け下り、野犬の群れにまったく怯まず戦いを挑み、知らないあいだに車の後部に忍びこんでいたそいつは――。
女だった。
腰まである艶やかな黒髪が、建物から漏れだしたわずかな光に照らされている。整った顔立ちもさりながら、引きつけられたのはその切れ長な目――黒い瞳だった。
闇の中に在っても周囲にまったく同調しない色彩に、フィドはある種の異常さを感じ、息を飲む。歳はまだ二十歳に達していないようだが、むしろその若さが、その眼の異常さに拍車をかけている気さえした。
「あなたの住処に案内しなさい」
その少女は、ヘルメットを被っていた時とはまるで違う、甲高いが感情のこもっていない声で、フィドに告げたのだった。