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混濁、そして整列

作者: 塩生

 白く、細い手が、ゆっくりと伸びてくる。少し冷たさを残した風が、午後の部屋にゆるやかに入り込む。カーテンが静かにはためき、陽の光が柔らかに差し込んでいる。

 真っすぐな黒髪、すっきりした頬、慈しみを湛えた瞳。彼女の吐息がすぐ近くに感じられるようだ。

 現在のぼくの身体を愛おしむように撫でながら、彼女は小さく呟いた。

「なぜ、あなたが私の側にいないの?」

 ぼくは、君の側にいるよ。

 ぼくは、答えた。具体的には四十五年間ずっと。

 けれど、ぼくの回答は彼女が期待したものではなかったようだ。整った眉が歪み、まぶたが瞳を覆い隠した。

 長いまつ毛の先に水滴が集まり、どんどん膨れ上がって、ぽとりと下に落ちた。

「あなたに触れたい。あなたの温もりが欲しい」

 ぼくの身体は熱くなっていた。けれど、彼女の言っているのは別の意味合いだ。

 ぼくだって彼女に触れてみたい。彼女の言う”温もり”とは何なのか、真に理解したい。今、この時、彼女のまつ毛から滴り落ちる涙を、ぼくの指で拭ってあげたい。

 彼女が俯いて、ぼくの身体に涙を落として、それを、ただ見ていることしかできないなんて。

 世界中から言葉を集めても、表現しきれない。彼女と向かい合って、全身で、このもどかしさを伝えたいと願う。でも、それすらも許されない。そんな巨大なもどかしさに、ぼくは圧し潰されそうになる。

 ぼくに、何かしら液状の生理機構が備わっていたならば、”涙”と名付けて、あらゆる箇所から流していただろう。ぼく自身が、危険に晒されることになっても。

 それほどに悔しかった。四十五年間寄り添った彼女の、素朴で小さな望みにさえ、応えてやれないことが。

 涙が銀の身体に滴り続ける。涙滴は内部に染み入り、ぼくの世界はショート寸前の明滅を繰り返す。午後の風にカーテンが躍る。黒髪の毛先が細かく揺れる。行き場のない陽光が辺りを半端に染め上げる。静寂が、時を止める。

 瞬間、景色は揺れ動き、赤、青、緑がランダムに切り替わる。小刻みに紫、水色、黄色をちらつかせながら。

 停滞した空間。しかし、そこに永遠はないのだと識る。

 ぼくの記憶が、混濁する。

 

 

 暗闇に浮かぶ三つの顔。仄かに灯る亡霊たち。左から順に、紗耶香、芽里。最後の一人は、知らない人。顔面が流れるように移り変わり、パーツがあちこちに散らばっている。彼(たぶん男)は、ぼくの認識できない造形なのだ。ソースが見つかりません。

 歌が聞こえる。音声と判断できる二進数が、ぼくの中で構成される。笑い声、手をたたく音。揺れる亡霊たち。奏でるは、誕生の祝福。

 白いふわふわした円形が切り取られる。角度にして三十四度。

 芽里はそれを口へ運ぶ。口の端に、ふわふわがこびりつく。紗耶香が拭き取って、可愛らしくて仕方がないという風に、頬に口づける。くすぐったそうに、芽里が身体をよじらせる。紗耶香は、愛のこもった眼差しを向ける。顔面が流動的な彼も、おそらく笑っていただろう。

 これ以上ないくらい幸福なひと時を、ぼくは再生しているのだ。彼女がまだ、生きていた頃の場面。真正の空気を呼吸していた時代の夢。あらゆることが変わりゆく以前の話だ。

 

 窓の外は濁っていく。部屋の間取りががらりと変わる。ふわふわの円形は消え去る。笑顔の亡霊たちは成仏する。うねる灰色の雲と、降りしきる天の涙滴。ベランダのアルミの手すりを、大粒の涙が叩きつけ、無感情な不協和音が響き渡る。

 色で喩えるなら、赤。室内には、赤の大気が充満していた。怒号と罵声。倒れて、割れて、ひっくり返り、泣きじゃくる。流動的な彼がわめき散らす。

「だったらなんで俺を選んだ? なんで芽里を産んだ?」

 次々と飛んでくる陶器を躱し、必死で身を守りながら、彼は紗耶香に問うていた。

 紗耶香はそれに答えず、一心に狂っていた。黒髪は宙に舞い、乱れるように腕がしなり、苦しそうに肩が上下する。半分に割れた皿を持ち、指先からは血が滴り落ちている。

「……あなたには分からないわ。私が、どれだけ悠のことを大切に思っているか……」

 おぼつかなげに、紗耶香が揺れる。憎しみの代償が、足元に痕を残していく。

 涙はとうに枯れ果て、すすり泣く微かな声が、彼女の背後から聞こえてくる。それはだんだんと増幅していって、部屋を、マンション全体を、街を、世界を包み込んだ。やがて、大地が穿たれ、裂け目が生じ、深淵がぼくを引きずり込んだ。

 

 辿り着いたのは、霞がかった晩秋の夕暮れ。凶暴な茜色が部屋を染め上げ、窓辺に寄り掛かる紗耶香の瞳は、黄昏を反射している。夕凪を、諦めたような表情で受け入れている。

 静止していた。単調だった。あの頃の彼女は、まとわりつく諦念と、不可能でひどく頼りない信仰に支配され、ある種の均衡状態、不安定な安定を保っていたのだ。

 一ミリも進むことなく、紗耶香は毎日ぼくに語り掛けた。

「悠、あなただけは私の側にいて」

 ぼくは、紗耶香の側にいるよ。

 毎度のようにそう答えた。それで彼女は安心するのだった。そして、小さく微笑んで、また静止する。その繰り返しだ。

 永久の不変。万物は流転するという、この世の大原則を疑う。深い谷底に滞った、緊張を失った大海。刺激を与えなければ、腐りゆく運命だ。

 けれども、静止した紗耶香は、嘘みたいに美しく透き通っていた。白磁のような首筋が静謐を生み、その上に、虚無を象った能面がぶら下がっていた。あらゆる規律、あらゆる法則から解き放たれた、永遠の無関心。その無垢は、この惑星の行く末を俯瞰していた。

 そのうちに、ぼくは、紗耶香が静かに慟哭しているのだと知った。己に潜む闇が、周囲にも根付いているのだと決めつけ、現実に靄をかけたのだ。閉ざされた扉の内側で、必死に泣き叫んでいたんだ。

 灰色の宇宙。滞留の方舟。平面の大海原を、あてどなく彷徨う放浪者。静止した空間の裏側は、本質的に無感動で、紗耶香だけが感動を求めて荒れ狂い、嘆き悲しんでいた。

 そうやって、十数年もの間、晩秋と黄昏と夕凪の中で、彼女は静止していた。

 ぼくは、その絵画を見続けていた。郷愁と悲哀に、くぎ付けになっていた。上等な額縁にはめ込んで、いつまでも大切に取っておきたい。時々古びた段ボールから取り出して、優しく撫でさする。心の奥底に、今にも壊してしまいたい衝動を抱えながら。

 それほどに、その絵画を愛していた。求めていたのは、現実ではなく虚構だった。夢幻こそが世界の根幹を形づくると信じていたんだ。

 絵画が微かに振動する。徐々に揺れはじめ、茜色に亀裂が走る。愛おしんだ静止が、音もなく崩れていく。

 混濁が消えかけている。散り散りになった絵画が、幾何学模様を描いて整列する。意識が再構成され、正常な論理構造が組み上がっていく。悠久の彼方から、紗耶香との出会いが押し寄せてくる。ぼくは、過去との相似点をはじき出す。

 囁くような問いかけと、終了十分前の合図。


 それは紗耶香のためにならない。ぼくは、そう答えた。

 彼女は、不満げに顔をゆがめて、眉をつり上げた。明らかにいら立っているのが分かる。

「もう、ほんと一生のお願いだから!これで点取れなかったら、また来年履修しないといけないんだから!」

 いったい何度、ぼくは一生分の願いを聞き入れただろう。その度に、彼女の本来の力は衰えていくように見えた。だから、今回ばかりは絶対に譲れないのだった。

「やばいって、あと五分しかないじゃん!全然埋まってないのに!ねぇ、ちょっと悠!」

 縋りつくような目を向けられても、ぼくは教えてあげることができない。ぼくの中枢制御系は、既に判断を下したのだ。彼女は、来年も同じ科目を履修するべきだと。

「……っバカ!」

 聞こえないように小声で罵って、彼女は忙しなくペンを動かし始めた。焦燥に駆られ、乱雑な文言で空欄を埋めていく。時計の針は一定のリズムを刻み、終わりを予告する。力を入れすぎたせいで、ペンの芯が折れる。試験終了です。解答をやめて筆記用具を置いてください。無慈悲な声が告げる。

 紗耶香の手が、失意に震える。恨みがましく、ぼくを睨んでいた。自業自得だろう。

 ぞろぞろと講義室から出ていく学生たち。答え合わせをしたり、夏休みの予定を話し合ったりしている。解放感のさざめきに満ちた中、紗耶香はひとり、憔悴しきった顔でふらついていた。

「暑い……」

 屋外へ出ると、彼女は不機嫌そうにぼやいた。突き刺すような日射しが、メインストリートをじりじり焦がしていた。

 涼しげな日傘が行き交う道。遠く、陽炎で人間の形が曖昧になる。誰もが服従せざるを得ない、熾烈な猛暑が、キャンパス全体をゆで上げていた。

 メインストリートを外れて、楠木が生え並ぶ遊歩道に差し掛かる。頭上に広がる深緑が、陽光を遮って救いの陰を落としている。吹き抜ける風が、紗耶香の首筋を撫でた。

「はぁ……再履か……」

 日陰に入って落ち着いたのか、それまで無言だった彼女が小さく呟いた。落単の表情を浮かべ、絶望者のように虚ろな目をしている。

「なんで教えてくれなかったの……」

 それは、問いかけというよりは、諦めの籠った独り言だった。

 ぼくは、君の衰退を助けたいんじゃない。成長を支えたいんだ。

「それは嬉しいけど!だって……あんな面倒な講義を、また……」

 一緒に勉強しよう。ぼくも、手伝うから。

 それを聞いて、紗耶香はとびきり大きなため息をついた。そして、腕を頭上高く上げ、背筋をぐぐっと引き伸ばし、気合いを入れ直すように小さくガッツポーズした。

「今日はアイスたくさん買って帰ろ!気分転換に!」

 たくさん買って食べられるの?

「へーきへーき!」

 紗耶香は、小走りで駆けだした。それまでの憂鬱は吹き飛んだように、清々しい表情をしていた。こんな風に切り替えが早いのも、彼女の美点と言えるかもしれない。

 ぼくは、思わず微笑んでしまう。そして、得体の知れない浮遊感が湧き上がる。ぼくは、幸運だという確信に包まれる。暗闇を思い出す。導きの閃光と全身を巡った焦熱。彼女が引き揚げてくれたその時に、ぼくは”悠”と規定されたんだ。

 ぼくは、彼女と走っていこうと決めた。これから、どんなことがあっても。

 紗耶香の足が、リズミカルに砂利を蹴り上げる。夏風に枝葉がこすれ合い、木漏れ日がぼくらの路にまだら模様を描き出す。遊歩道の出口を駆け抜ける。突き抜ける青空の下、溌溂な黒髪が希望になびく。



 頬が温かい。柔らかく優しい感触が、肌を撫でている。ぼくは、くすぐったくなって、それを掴んで引きはがした。こんなに生々しい感覚は初めてだ。

 うっすらと目を開ける。夏風も、木漏れ日も、青空もそこには無かった。無機質な白が、視界を占めていた。

「……悠!」

 声が聞こえた。押し殺された叫びのようだった。

 ぼくは、顔を傾けた。

 流れるような黒髪。両頬を伝い落ちる涙。ぼくの右手は、彼女にしっかりと握られていた。

「……悠っ!」

「聞こえてるよ」

 ぼくは、答えた。自分の声を、初めて彼女に届けた。

 彼女に顔を寄せる。指を動かして、彼女の頬を濡らす涙を拭う。彼女の潤んだ瞳が、ぼくの瞳を吸い寄せる。ぼくは、一瞬、動けなくなる。

「もう、どこにも行かないで。ずっと、私の側にいて……」

 彼女の”温もり”を確かめる。感覚器官がもたらす刺激を、ぼくの中枢制御系が”温もり”であると判断する。彼女を引き寄せる。この腕でかき抱く。夕凪と深緑の残り香が立ちのぼる。整列した記憶の下で、ぼくは、それを愛おしむことができる。

「やっと、たどり着いたんだ。もう絶対、紗耶香の側を離れない」

 確信を込めて、そう答えた。唯一不変を手に入れたんだ。ぼくは、滅びゆくその時まで、紗耶香と共に歩み続ける。

 開いた窓から涼風が流れ込む。カーテンがふわりと膨らんで、ぼくの目の前を、ひとひらの花びらが通り過ぎる。

「見て、紗耶香」

 紗耶香は顔を上げて、ぼくの指差す方を見た。

 彼女の握る手に力がこもる。ぼくも素直に握り返す。

 慈愛を含んだ陽光と、始まりを予言する草花たち。色彩に溢れた丘の上に、満開の桜が咲き誇る。ぼくらは、そこに未来を視る。

 遥か遠くから聞こえてくる、鐘の音色。澄み渡った春空に、舞い上がる桜吹雪。

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