ぬえ(上)
地面に腕を叩き付けた反動で、化け物――鵺が大きく飛び上がる。
その高さは、倉の屋根を軽々と超えるほどだ。
(やっぱり、大きいな)
怪物の上半身は、それだけで六尺にもなる。
成人した男の胴よりも太い両腕は、八尺にも届く。その五指には短刀のような鉤爪。
そんな怪物が飛び掛かってくる様は、見る者の心胆を寒からしめるものだ。
そして、その恐怖が思考を鈍らせ、体を強ばらせ、反応に致命的な遅れを生む。
結果、避けることさえ叶わず組み敷かれ、その後は言うまでも無い。
――対峙しているのが、武士でなかったならば。
「まあ、大きいだけか」
空中にあるということは、体の自由を損なっているに等しい。
軌道は分かりやすく、着地点は変わらない。見えている落下攻撃は、脅威にはならないのだ。
セツは、鵺の一撃を鼻で笑った。
落下と同時に叩き付けられた両腕を避け、するりとその側面に回り込み――
「――――ッ!」
「ふっ!」
悔しげな声を上げた鵺の脇腹に、呼気とともに太刀を叩き込む。
だが。
(……っ!? 刃が徹らない)
浅い、どころではない。
白刃が毛皮の表面を滑る感触に、セツは瞠目する。
刃筋がズレたとかそういう話ではない。単純に、毛皮の強度に阻まれたのだ。
太刀は脅威でないと理解した鵺が、その猿面をニタリと歪ませた。
「――ちッ!」
横薙ぎに振るわれた右の裏拳を、その場にしゃがみ込んでやり過ごす。
頭上を抜けていく豪風に、セツの背筋が粟立った。
即座に立ち上がり、その勢いを斬り上げに乗せて放つが、やはり刃が徹らない。
(隙間がない上に、動きの邪魔にならない鎧を着込んでいるようなものか)
まとっている鬼気が、鋼をも退ける強度を毛皮に与えているのだという知識を、少年は持ち合わせていない。
だからといって、「なぜ斬れない!?」と恐慌するような無様を、彼は晒さない。ただ在るがままの状況を捉え、思考を回す。
「さて、どうしたものか」
わずかに後退して、セツは太刀を構え直した。
怖じたり、怯むつもりはない。だが、化け物退治というのは想像以上に厄介だ。
勝手に口の端がつり上げるのを感じる。
今の自分は、どんな顔をしているのだろう。
(みっともなく引き攣ったりしてなければ良いけど)
鵺が大きく左腕を振り上げた。
己の絶対的な優位を確信しているのだろう。反撃を全く気にしていない大振りの構えだ。
対する少年は、意識を研ぎ澄ませる。
先ほどの一閃で斬れないのならば。
――もっと強く、もっと鋭く斬り付ければ良い。
冴え渡る思考回路。迷う余地のない解決策。
つまり、もっと超頑張る。
渡辺切は、脳筋だった。無論、それだけではないが。
「――ハッ」
狙うのは交差法。
叩き付けるように振るわれた巨腕に刃を合わせる。
より強く。より鋭く。内で燃えさかる炎に押され、裂帛の呼気を放った。
「今、鬼気を祓ってえぇ……!?」
陰陽師の声が聞こえた気がした。
迎え討った一刀が、虚空に斬線を引き――
――切断された獣腕が、くるくると宙を舞っていた。
◆
鵺が悲鳴を上げる。
賀茂道世は、泡を食って跳び退いた化け物ではなく、剣気で鬼気を打ち破った少年に目を奪われていた。
案内役として付けられた少年は、己が技を誇ることもなく、静かに調息を行って次に備えている。
追撃に動く様子がないのは、逃げに徹されると追い切れないことを理解しているからだろう。
とはいえ、易々と逃がすつもりはないと、剣呑な光を宿したその瞳が物語っていた。
「…………」
言葉もない。
道世は、武の力を侮らない。
生霊や死霊の類であればともかく、鬼などのような実体を持つ強大な怪物は、いつだって武士の扱う直接的な力で平定されてきたのだ。
もちろん、それらは陰陽師を始めとする術士の助けや、神仏の加護があっての功績だが、だからといって彼らの武威が損なわれるワケではない。
だが。だからといって――
「武芸ひとつで妖を斬ってみせるとは……」
これだから武士は、とは思わない。
そんなことが出来る者が、どれほどいるか。まして、未だ年若き身である。
どこか薄ら寒いものを感じ、道世は頭を振った。
(いやはや、末恐ろしい)
そんなことを考えていたせいだろう。
不利を悟った鵺の動きに対し、彼の反応は致命的に遅れることとなった。
鵺が、猿の上半身を黒煙に変える。
「――しまっ!?」
慌てて符を投じるが、距離がある。
術が届くよりも早く、鵺が化けた黒煙は北の空へと流れていった。
ドサリと音を立てて、取り残された賊が地面に倒れ伏す。
「……逃げられた」
賊には目もくれず、セツが黒煙の消えた空を睨んでいる。
当然の話だが、賊はとうに事切れていた。
(ずいぶんと高くつきましたね)
うつ伏せとなっている賊の死体。
その大きく割り開かれた背中が目に入り、道世は小さく息をついた。
同情する気は微塵もないが、単純に思う。盗みの代償としては、ずいぶん高くついたものだと。
「さて――」
視線を戻す。
空を見上げていた少年は、いつの間にかその背後に向き直っていた。
その瞳に映っているのは、地面にぶちまけられた赤い血溜まりだ。
かつて人であったもの。
「…………」
セツが、静かに一礼する。
その顔が上がるのを待って、道世は口を開いた。
「さて、それでは追いましょうか」
「追いつけるでしょうか?」
すでに黒煙は見えなくなっている。
セツの不安そうな表情に対し、道世は左眼を閉じて笑った。
「大丈夫。見失ってはいませんから」
「見失ってない……?」
セツが怪訝そうな表情を浮かべた直後。
カァ――、と北の空から烏の鳴き声が聞こえた。
少年が、あっと小さく声を漏らす。
「さっき飛ばしていた式神!」
「察しが良いですね。そういうことです」
閉じた眼に逃走中の黒煙を映し、道世はすました顔でうなずいた。
こっそりと、袴の尻で手汗を拭っているのは、彼だけの秘密だ。