とある因果(中)
ヒソヒソと陰口が囁かれる中、足音も荒く去っていく三人組。
当然、彼らの耳にも嗤い声は届いているはずだ。
その歪んだ表情の理由は、思い通りにならなかった市人の対応だけではあるまい。
「何よ、あれ?」
男たちの背を見送っていると、背後から声が掛かった。
馴染みある、涼やかな声。
ようやく戻ってきたかと、セツは苦笑しながら振り返り――
「…………」
「な、何?」
動きを止めたセツに、五夜がわずかにたじろいだ。
彼女の傍らでは、何やら満足げに十花がうなずいている。
「これはこれは」
竜胆文をあしらった白の表着に、白に薄紫、紫と続く五衣、その下に朱の単衣。
――菊襲の袿姿。
見慣れた水干とは対極の、華やかな、しかし清涼感のある出で立ち。
道世が上げた感嘆の声も耳に入らずに、セツは惚けたように五夜を見つめる。
「セツ殿、そのように凝視しては五夜殿が困ってしまいますよ?」
「……ぁ」
笑いをかみ殺す十花の言葉に、セツは瞬きをした。
はっと我に返った視線が、気恥ずかしげな五夜のものと絡み合う。
何か気の利いた言い回しをと考えて――
「その、すごく綺麗だ。お姫様みたいだな」
「~~~~!」
恐ろしく直截的な感想を口にした。
口にして、もう少し他に言い様はないのかと、己に呆れるセツだったが、五夜の反応は劇的だった。
真っ赤になってそっぽを向いた彼女の様子に、年長の夫婦は顔を見合わせて微笑み合う。
「セツ殿は、言葉を飾る術を覚えた方が良いかも知れません」
「同感です。あれは、相手によっては勘違いをさせかねない」
何の飾りもない、心からのひと言。
それを真正面からぶつける行為は、時に歌仙が紡ぐ言の葉以上に心を捉えるものだ。
未熟な少年は、その辺の機微をまだ理解出来ていない。
「……それは、そうと」
五夜が咳払いをした。ついっと視線を動かす。
その目が、肩を怒らせて立ち去る男たちを捉え、すっと細められた。
「――あの三人」
「ん?」
その視線を追って、セツも同じ方向へと目を向ける。
男たちの姿は、他の客に混じってもう分からない。
しかし、彼女の目は、はっきりと彼らを捉えているようだった。
「ずいぶんと恨みを買っているようだけれど」
「……よく分かるな」
セツは感心したようにうなずいた。
うなずきながら、さきほどまで話をしていた男の眼を思い出す。
――藤原登任に同情する。
そう口にした道世を睨む眼は、もはや仇に対するものだった。
庇う者も同類だと、憎悪と怒りを隠そうともしない。
それほどまでに憎まれる者の家人であるならば、やはり相当な恨みを向けられていることだろう。
(でも、それが分かるのは、先ほどの武士と関わったからで――)
何も知らないはずの五夜が、どうしてそう思うのか。
一目瞭然だと、彼女は告げた。
「あれだけ陰気をまとっていて、分からない方がおかしいわ」
「陰気……?」
「恨み辛み、憤怒に憎悪、悲嘆、嫉妬……一般に“悪し”とされる感情から生まれる気のことです」
道世が解説を入れる。
誰かから、強い負の感情を向けられている者、逆にそうした感情を発している者は、昏い陰気をまとう。
「彼らの場合、多くの恨みを向けられている上に、自身も何かを恨んでいる、といったところでしょうか」
「でしょうね。でも、どれだけ恨まれたら、あんなことになるのかしら」
五夜が、薄ら寒そうに顔を歪めた。
恨みの元は、一人や二人ではあるまい。数十でも足りない。数百、千を超えるかもしれない。
そんな彼女の言葉に、セツはポツリと呟いた。
「……蝦夷の民からの恨み」
「彼らが本当に藤原登任の家人なら、そういう事でしょう。もっとも、原因はそれだけではないでしょうが」
京の人々が彼らに向ける嘲笑。
そうした悪意が生んだ陰の気も多分にあるはずだ。
そう告げる道世にうなずいて、五夜は呆れた表情でため息をついた。
「いずれ形を成して、あの男たちを襲うと思うわ」
「あれだけ陰気が濃いと、ないとは言い難いですね」
そんな、二人の言葉が招いたわけではないだろうが――
「――――っ」
直後、酷く陰惨な気配が、人混みの中で膨れ上がった。
◆
人混みの中に、唐突に現れた気配。
先ほどまでの悪意ある囁きを撚り集めたかのような、言葉にし難いおぞましさを感じて、セツは顔をしかめた。
空気が、軋む。
まとわりつくような不快感。その感覚を、セツは知っていた。
「これは、鬼気?」
呟きを肯定するように、ソレは唐突に、何の脈絡もなく出現した。
「あ?」
誰かが呟いた。
人混みの中から、墨染めの大蛇が鎌首をもたげる。
その口からは、人の足がはみ出していた。見覚えのある袴。
先ほどの三人組が、同じ色の袴だったなとセツは何となく思い出す。
「……二人とも、こっちへ」
現実感のないその光景を前に、誰も彼もが動きを止めている。
そんな中、セツは十花と五夜の二人を近くの市廛へと誘導した。
この後に起こるだろうことを考えて、廊下から退避したのだ。
チラリと道世に目を向けると、彼はセツの考えを察しているようで、同意するように力強くうなずいた。
「ひ――」
誰かが、か細い声を上げる。
それが呼び水となった。凍っていた空気が砕け散る。
「う、わあああああアアアア――――!?」
セツたちのいる北棟は、大市廊の中でも特に客数が多い。
それが、一斉に動き出したのだ。
悲鳴を切っ掛けに、地鳴りのように足音が響き、人々が雪崩となって廊下を駆ける。
「た、助けて!!」
「ば、化け物が!?」
とにかく怪物から離れようと、ある者は中庭に飛び出し、ある者は廊下を必死の形相でひた走る。
その様子を市廛の中からうかがって、セツはため息をついた。
「多分、こうなるだろうとは思ったけど」
まともな判断力を失っているのだろう。
誰かを追い抜けば助かるのだと、そんな考えに縋るように、鬼の形相を浮かべた男が前を行く者の肩を掴む。
直後、何かにつまずいて数人を巻き込んで転倒した。
鈍い音。
「やめ、がっ! ぃギ!! 踏ま―――」
悲鳴は、程なくして重く湿った音に化けた。
それを耳にしたセツは、ウンザリした様子で舌打ちをする。
「中庭に下りた方が正解だったか?」
「いえ。こちらが正解でしょう」
道世が首を横に振った。
彼が顎を向けた先も、地獄となっていた。
「ひ、嫌!? 来ないで―――ッ!!」
どうやら墨染めの大蛇は、中庭の人間から平らげるつもりらしい。
不運にも標的に選ばれた娘が、蛇の顎門に追いつかれる。
泣き叫びながら丸呑みにされた。
「う、わああアアア!!」
それを見た男が細太刀を手に、喚き声を上げて大蛇に吶喊する。
勇気を振り絞った男が丸呑みにされる間に、残る者たちの一部は近くの廊下に上がり――、怒濤の人波に呑まれて消えた。
(この僅かな間に、何人死んだ)
その様子を睨み、セツは歯噛みする。
鬼気は加速度的に強まっている。
大市廊を満たす恐怖を喰らってか、墨染めの大蛇が先ほどより大きくなっていた。
「…………」
チラリと視線を送ると、道世がうなずいた。
その手には、市廛から拝借したのか、絹の糸巻きが握られていた。
彼は、指先を噛んで滲んだ血を糸に塗りつける。
「先行します」
「私も――」
セツと同様に五夜が前に出ようとし、ふと動きを止めた。
十花を振り返る。
「……わたくしは大丈夫ですから」
「申し訳ありませんが、五夜殿は、妻をお願いできますか?」
青ざめた顔で、しかし気丈に笑う十花。
その顔を前に、逡巡を見せる五夜に道世が頭を垂れた。
「“道先”には、すでに状況を伝えています。二人が東棟の車宿に入れば、すぐに迎えに来るでしょう。そのまま、牛車の中で待っていてください」
「その姿でアレと戦うのも良くないだろうし、それが良いと思う」
道世の言葉に、セツも同意する。
言われた五夜が、自身の格好を見下ろした。その身を飾る華やかな衣装は、お世辞にも動きやすいものではない。
「……分かったわ。こちらは気にしないで」
「ええ。お願いします」
話は決まったと、セツは太刀を抜き放つ。
白刃が煌めいて、周囲の鬼気を散らした。
「行きます」
「気を付けなさい」
五夜の声にうなずいて、セツは中庭へと飛び出した。




