漆
ある日のことであります。
邦彦は人力車に乗っておりました。
そのとき、彼の乗る人力車が彼が若かりしき頃を過ごしたあのA坂を通ったのであります。
彼はあの男と会ってからというものこのA坂で過ごした日々の記憶が朧気でした。
確かに彼が丁稚をしていた店はこのA坂にもほど近い場所にあるのですが、どうもその記憶が思い出せないのです。
そのとき、ふと“喫茶店モンタージュ”の看板を見つけました。
いくら記憶が朧気だったとはいえ、彼にはマスターから受けた恩義がありました。それは決して忘れられるものではありませんでした。
彼は慌てて車夫に下ろしてくれるよう頼み、モンタージュを少し過ぎたところで下りました。
彼はモンタージュの前までゆっくりと感慨深げに歩いておりました。
今やあまりにも稼いでしまったことで、多くの人から『心のない人』と呼ばれる邦彦も小さいころに憧れていたこのA坂を立派な洋服を着て歩いているとなんだかまるで、昔のことが思い出されてきて、妙に心が躍ってきたのであります。
彼はモンタージュの前まで来ました。“OPEN”という看板があったので、彼はモンタージュの中に入りました。
すると、そこには彼にコーヒーを出してくれたマスター、ではなく、若い男性がおりました。
「いらっしゃいませ。こんな古びた店に来るなんて珍しいですね。見ない顔ですが、ここに来るのは初めてでしょうか?」
「い、いや、ここには何度も来たことがあります。──たしか、店主の人はもっと皴が深かったような気がするのだけど……」
「あぁ、それは私の祖父ですね。へぇ、そんなに前にここに来てくれたのですね」
「まぁ、そうですけど、ところでおじいさんは?」
「祖父なら、五年ほど前に亡くなりました。そして、コーヒーが好きだった私がこの喫茶店を継いだわけです」
「そうですか。それはご愁傷さまです」
「いえいえ。祖父の店を愛してくれていた人がこうしてまた来てくれることはうれしい限りです。しかし、どうもお客さんがなかなか来なくて。だから、そろそろ店じまいでもしようかと思っていたのですよ」
「それはもったいない」
「まぁ、喫茶店以外にも職業はいくらでもありますからね。こう見えて、大学は出ているので、商社にでも勤めようと思っているのですよ」
「そうですか。それはいいんじゃないですか?あなたのおじいさんも若い頃は会社を起業していたとか聞いていましたが」
「そんな話もご存じですか。──まぁ、その会社なら、2年ほど前につぶれてしまいましたが」
「どうして?」
「やはり、確実に売れるものが無いと会社はどうもやっていけないんでしょうね。それに対して、今太閤さんは本当にすごいですね。──あぁ、最近、いろんなところで話題になっている人ですよ。知りませんか?」
「──まぁ、寡聞ながら」
「別に秀吉さんのことではありませんからね。うちの祖父も今太閤と聞いて、最初は──太閤って秀吉公のことかい? って聞いていたものですよ。彼は若いころに成功を収めてそのまま財閥を築くのですから本当にすごいと思いますよ。──うちの父もそんな先見性があればいいのですがね。どうも先見性が無いのか、しょうもないがらくた品に目が入ってしまうようで……。──親父、そんなの売れっこない! って言っているのにずっと仕入れてきたんですよ。だから、うちの会社が破産したんだと思うんですよ」
青年はどうやら目の前に今太閤がいると気づいてないようです。
邦彦は自分が今太閤であることがばれないように慎重に言葉を紡ぎました。
「──ま、まぁ、それは運もありますからね。別に先見性があってもうまくいかないものですよ」
「そうですか?」
「そうです。私にはその昔、私の夢を認めてくださった方がおりまして、その人に励まされてなんとかしてやろうと思ったのですよ。そして、商品を作って売る時にもそれを支援してくれる人がいなくてはどうしようもありません。私は偶然、そういう人たちに出会いましたが、それが無ければどうなっていたか分かりませんよ」
「なんか自分のことのように語りますね」
「あれれ? そうかな?」
「そうですよ。あなたのようなおじさんが今太閤には見えませんよ。今太閤というのはそれこそ恐ろしい顔をしていて、人を食うような人ですよ。おじさんはそうは見えません」
それを聞いた邦彦はどっと笑いました。
「どうして、笑うのですか?」
青年は怪訝そうな目で邦彦を見つめます。
「いや、ちょっと可笑しくてね。まぁ、そんな人がいたら、まず警邏の人に捕まってしまうと思うんだけどね」
「そうですか。まぁ、そうですよね。人を食ってしまったら、その時点で犯罪ですからね」
「さて、僕はそろそろ行くとしよう。最後に一つだけ言っておこうか。──君の人生の先達として」
「おじさんは高そうな服を着ていますけど、そんなにすごい人なんですか?まぁ、一つ聞いてみたいですね」
「夢は諦めない方がいい。夢を諦めちゃ、幸運まで逃してしまうからね」
「アハハ。何を言っているんですか。ちょっと恥ずかしいですよ。その言葉。──まぁ、それも一考の価値がありますしね。よくよく思い出してみたら、祖父がいつも口々にそう言っていましたね。あぁ、なんだか祖父がここに帰ってきたような気がします。──あっ、別におじさんが老けていると言ったつもりはありませんよ」
「分かっているよ。それくらい。──はい。これは君のおじいさんからアドバイスをくれた分も含めて」
「こんなにもいいんですか? 私は祖父ほど美味しいコーヒーを淹れたつもりはないのですが……」
青年はそう言って、邦彦からもらった余分な代金を返そうとしました。
「いいんだよ、これは先行投資だ。君がいつか私がよぼよぼのおじいさんになった時に帰してくれればいいんだよ」
邦彦は笑みを漏らしながら、お金を青年の方に寄せました。青年は苦笑しながら、渋々そのお金を受け取りました。
「アハハ。そんな日、いつになったら来るでしょうかね」
「すぐにでもいいよ」
「まぁ、気長に待っていてくださいよ」
邦彦は外に出ようとしたとき、ふとあの大きな鏡に目が留まりました。
「ところで、この鏡まだあったのかい?」
「あぁ、この気味の悪い鏡ですか?店仕舞いと一緒に処分しようと思っていますよ。なんだか気味悪くてね。たまに鏡を覗き込むんですが、なんか可笑しいんですよね。まったく私じゃない人が映り込んでいるんですよ。そんな鏡あるわけないのにね。いろんな人に相談しても、──そんなことあるわけない。病院にでも行ったらどうだい? って言われるんですよ」
「そうか。──どれどれ。何が映るのかな?」
邦彦は茶化しながら、鏡の前に立って自分の姿を見ました。
すると、彼の表情が固まりました。彼は見開いて鏡をじっと睨み続けました。
「どうかしました?」
邦彦の表情の変わりように、青年はそう尋ねました。
邦彦は彼の声が聞こえないのか、ずっと体を震わせ、少し白くなった髪の毛ををガリガリと掻き毟り、キリキリと歯軋りをさせながら、食い入るように鏡を覗き込んだままでおりましたが、しばらく経ってから彼は──アー! と叫びました。
そして、彼は夢中に喫茶店を駆け出していきました。
──今どき鏡を見て叫ぶ人がいるのかぁ……。
若い男はそう思いながら、そそくさと掃除を始めました。