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欲の鏡  作者: 半空白
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 邦彦は男の後を追っていくうちにある洋館まで来ました。


 その洋館は彼が今までに見たことが無いほど豪華なものでした。しかし、豪華なものと言っても白を基調とした建物で飾りが少ない建物でどこか機能美を感じさせるものでした。


 邦彦はしばらくそこでしばらく立ち止まっておりました。


 彼がこのとき何を思っていたのかは私からはまったく想像ができませんが、きっと彼はこの屋敷に対して、憧れを抱いていたのでしょう。


 きっと自分もこんな屋敷を構える大物になりたいのでしょう。先日、喫茶店のマスターに対して夢を語っていたことを考慮するとそう考えるのは容易いことに思われます。


「さぁ、入ってください。こんな寒い夜に外で突っ立っていたらきっと風邪をひいちゃいますよ」


 男は洋館の扉を開いて、邦彦に中に入るように促しました。


「じゃあ、お言葉に甘えて。——お邪魔します」


 邦彦は恐る恐る洋館の中に入りました。


 そこは彼がこれまで見たことのないもので満たされておりました。邦彦の住んでいる長屋が丸々入るくらい広い玄関には明・清代に作られたであろう陶磁器、西洋の果物を描いた静物画、何をモチーフにしているのか邦彦にはあまりよくわからない木彫りの何か、などが飾られ、その向こうには吹き抜けの大部屋を硝子の微細な切れ目に反射する光が暖かく包み込んでおるように見えました。


 邦彦はしばらくの間、飾られているもの一つ一つを取りこぼさないようにじっくりと見つめておりました。


 男はそんな邦彦の様子に少し戸惑いながら、


「そんなに玄関に飾ってあるものを見ていると、この屋敷全体を見て回るだけできっと夜が明けてしまいますよ。紅茶を用意しますから早く中に入ってそこら辺にあるソファにでも腰かけておいてください」


とにこやか笑みを浮かべながら、邦彦にそう言いました。


「い、いえ、別に紅茶なんていりませんよ。そもそも私をこんな豪華な屋敷に入れてもらえるだけでも望外な望みだと思うくらいですから」


 邦彦が慌ててそう言いました。


 慌てふためく邦彦に男は苦笑しながら、こう言いました。


「別に構いませんよ。それにこれくらいの屋敷に入ることで望外な望みなんて言ってはいけませんよ。人にはだれしも平等に小さな好機というものがありまして、その積み重ねによってはこれほどの財を成す人もおれば、無一文で生きていく人もいます。——さて、私は紅茶を用意してきます。どうぞ、ソファでゆっくりとくつろいでくださいませ」


「で、では」


 邦彦は男の薦めに従い、ソファに腰掛けました。


 このソファは邦彦がこれまで見てきたものよりもずっと大きく、適度に柔らかいもので、邦彦が——こんな椅子がこの世にあったのか、と驚いてしまうくらい素晴らしいものでした。


「起きてください。紅茶の用意が出来ましたよ」


 その声とともに邦彦は目が覚めました。


 男はホテルのティータイムの時間にホテルマンが持ってくるワゴンのようなものを持ってきていました。


 ——確かにこのソファなるものはとても気持ちの良いものだったが、まさか寝てしまうとは。いくらなんでも屋敷の主人の手前でそんなことをするなんて申し訳ない。


 そう思った邦彦は、「申し訳ありません。あなた様が紅茶の用意をしているところに私めがこのソファでうたた寝てしまって……」と言いました。


「別に構いませんよ。お疲れのようでしたから。——さぁ、この紅茶でも飲んで一息ついてください」


 男はそう言って、これまた大きな天板のある卓袱台のようなものに紅茶を置きました。


「では、いただきます」


 邦彦はテーブルの上にある紅茶の入ったカップを手に取って、一口啜りました。すると、邦彦は急に驚いた顔をしました。


「どうかなさいましたか?」


 男がそう聞くと、


「えぇ、あまりにもこの紅茶が美味しいもので驚きました」


邦彦は感銘を受けたような顔をして男にそう答えました。


 実のところ、邦彦は紅茶をこれまで口にしたことがありませんでしたので、この味が美味しいのかどうかまったく分かりませんでした。しかし、彼は屋敷の雰囲気、屋敷の主の優しい声音などが美味しいと彼に思わせたのです。


「そうですか。紅茶を淹れるのがささやかな趣味である私にとってはこれほどうれしいことはありません。では、私も飲むことにしましょう」


 男は邦彦が座っている方の反対側に座り、ワゴンから道具を取り出して、自分のカップに紅茶を淹れました。


 男は優雅に紅茶を飲みました。邦彦にとってはその所作の一つ一つがこの上なく素晴らしいものに感じました。


「では、あなたが困っていることについて話してくれませんか?少しばかりあなたより長く生きている私なら、あなたに少し助言ができると思いますよ」


 男は紅茶のカップを置いて、一息ついてからそう言いました。


 邦彦は初対面の人に自分が困っていることをひけらかすことに少々戸惑っておりました。


 しかし、彼はこれほどまで温かくもてなしてくれた屋敷の主人に少しばかり信頼しているところもありました。


 紅茶をもう一度啜り、しばらく考え込んだ末、邦彦はぽつりぽつりと話し始めました。


 男に対して話した内容に関しましては先程、彼が大きな姿鏡のある喫茶店のマスターに対して話したこととあまり変わりがありませんでした。


 ただ、邦彦の雇い主に対する愚痴が若干増えたことが指摘できますが、この話には関わりのないものに感じましたので、ここでは省かせていただきます。


 邦彦の話を聞いた屋敷の主人はしばらく考え込んでからこう言いました。


「では、気休めですが少し神さまにお祈りするのはいかがでしょうか?」

「神頼みですか?」


 具体的な助言が与えられるものばかりと考えていた邦彦にとっては神頼みという答えを聞いたとき、男に対して失望しました。以前よりは神仏などの非科学的なものに関する信仰は減ったものの、いざというときには神頼みをしたり、お寺で祈祷や修行をしたりすることもありました。


 しかし、邦彦が求めていた答えと神頼みにはあまりにもかけ離れておりました。これまで生きてきて不幸だと思ってきた邦彦からしたら、神仏とはまったく信じられるものではなかったのであります。そのため、彼からすると、神頼みというのはどこか精神論のように聞こえたのです。


 しばらく顔を顰めて、何も言えないでいる邦彦に男は微笑みながら、こう言いました。


「えぇ、神頼みです。——とは言っても、寝る前に少し自分の望みをぽつりと呟くだけで構いません。気休め程度に聞こえるかもしれませんが、私も望みを成し遂げるためにはこうしなければならないというのが次第に見えてきましたよ。あなたも自分を見直すという意味でもこうすればいいんじゃないでしょうか?」


 邦彦は——神頼みなど信頼性に欠けるものに縋ってよいものだろうか、と考えておりましたが、男の言っている意味がなんとなく分かってきましたので、


「ぜひそうさせていただきたいと思います」


と答えました。


「ついでにこう呟くといいでしょう」


と男は邦彦の耳元でそう語りかけました。


「分かりました」


 邦彦は男にそう返しました。


 そのあとは世間話や、昨今の情勢について二人は語り合いました。


 邦彦は新聞を読む方でしたが、購読するためのお金がないため、雇い主が捨てなさい、と言って差しだしてきたもの以外は読んだことがありませんでした。


 そんな邦彦にとってはこの男の話は少しばかり魅力的なものに聞こえました。


 そうしていくうちに夜は更けていきました。


「もうこんな時間ですか。失礼ですが、この辺で帰ってよろしいでしょうか?」

「えぇ、構いませんよ。外はまだ暗くて寒いので、お気をつけて」

「分かりました」


 心配する男に邦彦は微笑みながら、こう言いました。


 ******


 邦彦は長屋に帰って、万年床となった煎餅のように薄っぺらい布団に寝そべりました。


 そして、あの男の言った言葉を何度も反芻していました。


 普通なら、寝枕に自分の夢のことを妄想に耽って夢を一人呟くのもいいでしょう。——ただし、周囲の者にそのことが漏れて一人恥ずかしい日々を過ごすことになるかもしれませんね。


 けれど、邦彦には別の意味でどうもそんなことができませんでした。


 いつもなら、寝る前は自分が成功した将来について妄想に耽ってばかりなのですが、どうもあの男が信じられなかったのでした。


 確かに男は財布を拾ったといって邦彦に近づきました。邦彦からすると、それが、どうも彼に近づくための口実のように思われたのです。


 そもそも、こんなみすぼらしい身なりをした男を自分の屋敷に招き入れて、あまつさえその貧相な男のために紅茶を用意しました。普通のお金持ちならそんなことはしないでしょう。いくらお人好しな金持ちがいたとしても、乞食のようにみすぼらしい男を自分の邸宅に招いて紅茶を用意することをするでしょうか?


 しかし、このときの彼は限界寸前でした。


 いくら努力したって自分の本願には近づいている気がしない。


 相変わらず、店の主人は自分には辛いことを言って、放蕩癖のある自分の息子にはとやかく言わない。それに、仮に息子がなんらかの失敗をしたら、先輩だからということで自分が犠牲になって責任を取らなければなりませんでした。


 あの頃は、生存権などといったものは無視され、労働者は粉骨砕身働き、富国強兵というものを目指していた時代です。


 この国の先を走っていた列強と呼ばれた国さえも労働者にその富がある程度いきわたるまで大規模な運動は起こりませんでした。当時、辺境であった極東でしかも列強を志したばかりの国でそんな知識など身につくはずなどあるはずがありません。


 弱きものは必ず強き物の犠牲となる。


 それはあなたたちが心の奥底ではさげすんでいる畜生の世界と我々の世界が持つ最も大きな共通点であります。それなのに、今更、——弱者を守ろう、などなんだの見え透いた嘘にしか聞こえない甘い科白セリフを強者がのたまうのを弱者は信じていられるでしょうか?


 私には生憎そうは思いません。


 また、話から外れましたね。話を戻すことにいたしましょう。


 彼は悩んだ末、いよいよ怪しき男の言った言葉を信じて自分の望みを口にするのでした。


 私にはその言葉は喫茶店のマスターに対して言った言葉とまるっきり同じであったため委細は省くのでございます。そして、最後に男が耳元で囁いた言葉をそのまま述べました。彼がその言葉を言い終えた途端、彼は鼾をかいて眠りにつきました。


 さてこれが邦彦にとってどのような影響を及ぼすのでありましょうか? 


 それは少し刻を少し早めなければなりません。


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