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欲の鏡  作者: 半空白
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 邦彦は喫茶店を出てからしばらく考え込みながらとぼとぼと歩いていました。


 ——あの鏡はいったいなんだろう? ひょっとして僕だけにしかあのような姿が見えないだろうか?


 ここで彼が何を見ているのか不思議に思った方もおられるのではないかと思われますので、少しばかり彼が見た鏡像について説明しようと思います。


 実は彼は自分が立派なスーツを着て、きらきらと輝く装飾品をたくさん身に着け、誰からも称賛されている自分の姿を見ていたのであります。


 けれど、彼の身なりはまったくそういうものではありません。ぼろ布をつぎはぎにしたようにこしらえた着物。髪もぐじゃぐじゃで、どこからどう見ても汚らしい身なりをしています。


 ひょっとして、彼は幻覚を見ているのではないか? あまりにも自分のひどく貧しい有様から目を背けているのではないか? と思う方もきっとおられることでしょう。


 薄々お察しの方もおられるでしょうが、この鏡には不思議な力があったのでございます。


 それも人の望むべき姿を映す鏡だったのであります。しかし、彼以外の鏡を見た人はこれまでマスターにそんな変な現象について述べたことはありません。よほどの強い望みがない限りそのような望みを映すようなことは一切ないのです。そのため、ほとんどの人はそのままの自分の姿が映るため、これまで誰もマスターに鏡におかしなものが映るという人はいなかったのであります。


 しかし、彼には自分が望む姿が映ったのであります。多分、彼には出身栄達したいという強い願望があったのでしょう。


 ——そんなものあるわけない。

 ——自分なら、見間違いだと思ってまったく気にしない。

 

 そう思われる方もおられることでしょう。


 しかし、もしあなたが自分の望む姿を映してくれる鏡を見たときにあなたは見るのをやめるでしょうか?


 そのとき見た鏡に映った虚像をうらやましいとは一切思わないことなどありましょうか?

 それができない者に彼を責めることのできる道理はあるのでしょうか?


 これ以上そのことについてとやかく語っていると、この話から外れそうなので話を戻すことにしましょう。


 彼はガス灯の明かりだけが鈍く光るA坂をとぼとぼと一人歩いております。


 そんなときに彼は後ろから背筋が凍りそなくらいの恐ろしい気配を感じました。


 振り返ると、そこには誰もいません。A坂の道沿いにある店から漏れる灯、ガス灯の鈍い光が道を照らすだけです。周りは野良猫がにゃあにゃあと鳴くだけで、風は緩やかに吹くばかりでございます。


 彼は——気のせいだ、と思ってまた歩きだしました。


 しかし、どうしてもその気配が気になります。


 いや、気配だけではないのです。

 まるで、何者かが彼をじろりと嘗め回すような視線まで感じたのです。


 彼は周りを見回しましたが、そこには誰もおりません。

 

 彼は怖くなって、駆け出しました。


 夜もかなり深くなったのでしょうか、A坂の石畳の道は草履の石に擦れる音が聞こえるばかりです。気づけば、邦彦は人の気配がなく、明かりのない長屋沿いの道にまで来てしまいました。


 彼は暗いところを極度に恐れる性分でありましたので、普段は極力明かりのある道を通っておりましたが、この日だけはそのことも忘れてしまったのです。


 彼はそのことに気づいた途端、身震いしました。そして、いそいそと自分の住む長屋まで早く歩きしました。


 すると、ふと彼の肩を振れる感触がしました。


 彼は——ヒィッ、と叫び、後ろを振り返りました。

 すると、そこには帽子をかぶり、洋服を着た髭を生やした男が立っておりました。


 邦彦はてっきり貉や女の霊とか、妖怪の類に触れられたのでは、と怯えておったのですが、その男の姿を見て少しほっとしました。


「すみません、驚かせるつもりはなかったのです。あなたが財布を落としたものを私が拾って、あなたに返そうと思ったのです」


 男はそう言って、懐から邦彦の財布を取り出しました。


 邦彦は咄嗟に自分の服を触りましたが、そこには財布がありませんでした。


 邦彦は男が自分の財布を手に持っていたのを見たとき、——盗人に違いない、と思っていましたが、男の服装をよくよく見てみるとあまり金に困っているような人ではないことに気づきました。よっぽどな守銭奴でもない限り、邦彦の端金を拾って我がものにしようとは思わないでしょう。彼は自分の彼に対する疑いを恥じるかのように彼から顔をそらしてこう言いました。


「そうでしたか……。申し訳ありません。少し気が動転したもので気づきませんでした」


 男は驚いた顔をして、「いいんですよ。私は人には必ずいいことをしようと決めているんです。そうすれば、いつかきっと私の身に返ってくるだろうと思っているんですよ」と返しました。


 しかし、邦彦は財布を拾ってくれた彼に感謝しました。


「それでも有難うございます。けれど、どうお礼をしたらいいのか分からなくて。私はあまりお金がないものでして……」


 男は――アハハ、と笑ってから、「結構です。私はお金が欲しくてあなたの財布を拾って渡したわけではありませんから」と返しました。


「けれど、やっぱり恩は返さなくちゃいけないって思っていて……。大したお金は入ってなかったんですが、落としたものが帰ってくるなんて初めてのことだったもので……」

「だからいいんですよ。私はお金に困ってあなたの財布を渡したわけではないんですよ。ただ、困っている人を助けたいんですよ」

「でも……」


 渋る邦彦に対して、男は優しい顔をしてこう言いました。


「それなら、私と少し話をしませんか?私は若い人と話すことが好きなもので。——それに夜に外で話すのは少し冷えますからね」


 邦彦は少し考えてから、「——分かりました」と答えました。


「では、ついて来てください」


 男は戸惑う邦彦に対してにこやかに微笑みながらそう言いました。


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