参
「てめえ、何やってんだ?」
A坂にある呉服屋ではパシンと頬を叩く音とともにそんな怒鳴り声が昔はよく聞かれました。
そこには頬をぶたれて這いつくばっている邦彦とその邦彦を仏頂面で睨みつけながら、煙管を吹かせた壮年の男性が立っておりました。
「すみません。親方」
「てめぇはほんと何にもできねえな。帳簿に正しい計算もできねぇのか」
「すみません。本当にすみません」
「すみません。すみませんって言って何か良くなるわけじゃねぇんだ! さっさと直せ」
「分かりました」
邦彦は苦虫を噛むような顔をして親方にこたえます。
「そうそう。もうすぐ店を閉める時間だから店の掃除に看板の片づけ。ちゃんとしておけよ」
「分かりました」
「ならいいんだ。掃除をしたらさっさと帰れよ」
親方はそう言って店の奥の方に戻っていきました。
「早く後片付けをするか」
邦彦は自分の頬を両手で——パシン、とはたいて気持ちを切り替えて、店の後片付けをはじめました。
いくら邦彦が不器用とはいえ、何年もこの呉服屋の掃除をしてきたものですから手際はいいもので、すっかり店の中は綺麗に片付きました。
すると、店の扉が突然、勢いよく開きました。
そこには着物をだらしなく着崩した若い男が立っておりました。
「おぉ。邦彦じゃねぇか。また親父に叱られて掃除をしていたのか?」
「まぁ、そんなところです。ところで、坊ちゃんは昨日から何してらっしゃったんですか?」
「なーに、少し外で勉強しただけさ。しっかし、お前は親父に叱られてばかりだな。まぁ、育ちが悪いからか。そりゃしょうがねぇな」
若い男はおっと、と言って塵取りにぶつかりました。
すると、塵取りはコテンと倒れて邦彦の集めていた塵は辺りに散り散りになりました。
「ったく、なんでこんなところに塵取りを置いてやがるんだ?」
「すみません。すみません」
「そうそう、ちゃんと埃は片付けろよな。あんまり時間をかけるようだったら、親父にはちゃんとチクっといておくからな」
若い男はケラケラと笑いながら、店の中に入っていきました。
邦彦は歯を食いしばってから、また、塵を集めるのでした。
******
邦彦が親方に掃除が終わったことを伝えると「帰れ」というそっけない返事が返ってきました。
店を出た邦彦はトボトボと薄暗いA坂を歩きました。
そんなとき、彼は“モンタージュ”の前を横切りました。
彼はどうしてか分かりませんが、喫茶店の中に入りました。
「いらっしゃい」
マスターが優しい声で邦彦の来店を歓迎しました。
店には邦彦以外に客はおりませんでした。
「コーヒーを一杯ください」
邦彦がそう言うと、マスターは「かしこまりました」とにこやかな笑みを浮かべながら言いました。そして、コーヒーを淹れます。
「どうぞ」
「いただきます」
邦彦はコーヒーが並々と入ったカップに口をつけました。
しばらくして、邦彦は少し落ち着いたのか、小さい声で呟きました。
「——だからと言って、そう簡単にうまくいくわけじゃないよなぁ」
「どうしたんだい?」
マスターは邦彦がぼそぼそと喋っているのに気づいて、そう尋ねました。
「いえ、なんでもありません」
邦彦は後ろめたいのか、彼をじっと見つめてくるマスターから目をそらしました。
「何か良くないことでもあったのかい?」
「いえ、別に大した話じゃないんですけどねぇ……」
邦彦はいったん息を整えてから、「実は僕には夢があるんです」と言いました。
「どういった夢なんだい?」
「——世界をまたにかけた大商人です」
邦彦は耳まで顔を赤く染めてそう言いました。
「これまた壮大な夢だね。まるで、シンドバッドみたいだ」
「失礼ですが、シンドバッドって誰ですか?」
「アラビアの方の物語に出てくる大商人の名前さ。彼の場合は冒険家のような面が強いから商人とは言えないのかもしれないけどね。君のような若い子にはそういう物語にあこがれる子もいるんじゃないかなって思ったんだよ」
「僕は別に冒険したいわけじゃないんですけどね」
邦彦は苦笑しました。
「——そうか。ごめん、ごめん。私の勘違いだったね。私はちょうど君くらいの年頃に留学したんだよ。そのときにシンドバッドの話を読んでね。それでいつか私もそんな大商人になりたいって思ったんだよ。実際は小さな喫茶店のマスターになっちゃたんだけどね」
「そんなことないですよ。あなたは夢を叶えたじゃないですか」
邦彦は苦笑いしながらそう言いました。
「別に私は立派な人間ではないよ。——それに君の方がよっぽど夢があるよ」
「どういうことですか?」
「私なんてもう老い先短いんだよ。だから、今さら夢なんか抱いたってどうにもできるものじゃないのさ。けれど、君は若いからね。これからだよ。——だから、別に焦らなくていいと思うよ」
「そうですか」
邦彦は未だにうつむいた顔をしています。
「何かあったのかい?」
「いえ、もういいです。もうちょっと頑張ってみようと思います」
邦彦は残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がりました。
「そうか……。それはよかった。しっかり頑張ってくるんだよ」
マスターはにこやかに微笑みました。
邦彦はマスターにコーヒーの料金を支払ってから、意を決したような顔をしてからこう尋ねました。
「ところで、マスター」
「なんだい?」
「ここの鏡って変なものが映りませんか?」
マスターは少し考えこんでから、こう答えました。
「いや、ここにはもう十年以上飾っているけど一度も変なものが映り込んだことはないよ。お客さんもそんなことを一度も言ったことが無いからなぁ。——ところで、何かおかしなものでも映るのかい?」
「い、いえ、大丈夫です。多分気のせいです。それでは仕事、頑張ってきます」
そう言って、邦彦は喫茶店の扉を開いて駆け出していきました。
「あぁ、いってらっしゃい」
マスターは微笑みながら邦彦の後姿をいつまでも見つめていました。