弐
この喫茶店が出来て、十年少々経った頃でしょうか。
マスターの顔の皴も開店当時に比べると一層深くなったように見えます。
この頃になると、さすがに喫茶店というものはそこら辺にあるようなものになりまして、マスターの店に来る人も徐々に減っていきました。
そのため、喫茶店に来るのはたまにダーツやビリヤードに興じるためにやってくる人だけでした。
マスターも手持無沙汰なので、つい最近手に入れた蓄音機の音色を聞きながら、のんびりと喫茶店の掃除をしておりました。
そんなときにカランカランとドアについてあった鐘が鳴りました。
そこにいたのは大変みすぼらしい着物を着た男でございました。
名前は邦彦。
A坂にある小さな呉服店で丁稚をしている者です。──と言っても、二十はとっくに越えておる立派な大人なのですが、それでも丁稚を続けておりました。この男はどうも器量が悪く、いつも主人に叱られてばかりでした。
そんな彼ですが、この喫茶店に来ると必ず変わったことをするのです。
彼はモンタージュに入ると、いつもなぜかあの大きな鏡を眺めているのでございました。
カフェに入ったら、まず席についてコーヒーを一杯頼むところなのでしょうが、この男は不思議なことにずっと入り口の前に突っ立って自分の姿をじっと見つめておるのです。
どこからどう見てもそこにはみすぼらしい男が映っているだけのようにしか見えないのですが、彼は執拗に、まるで獲物に食いつく肉食獣であるかのようにじっと自分の姿を見つめているのでございました。
しばらくすると、彼は何か怖いものでも見たのか、急に青ざめた顔をしてコーヒーを一杯も頼まずに逃げ出すように外に出るのでした。
この日も彼はいつものように鏡の前でじっと自分の姿を見つめておりました。
マスターも最初は──この鏡が物珍しいのだろう、と思って彼のことを放っておきましたが、彼のあまりにも真剣な様子が気になって、手を止めて彼に声を掛けました。
「邦彦さん、いつもその鏡を見ておりますね。何か不思議なものでも映っているのでしょうか?」
「いえ、すみません。ずっとここに突っ立ってしまって」
「いえいえ、そんなことは構いませんよ。あいにくこの店にはいつも人は来ておりませんし」
「とんでもない!あくまでこの時間はみんな仕事をしているだけでしょう」
「そうですか。なんか気を遣わせちゃってすまないねぇ。立ったままだと辛いだろうからその辺にでも座らないか?」
マスターはそう言って、カウンターの方を指さしました。邦彦は──失礼します、とだけ言って、そのカウンター席に座りました。
「そんなことを言わないでください。この店は小さい頃の私にとってはあこがれのような店でしたから。うちの主人もいつもここに来てビリヤードを楽しんでいると聞いて、いつか私もこの店でそんなことができたらなぁ、と思っていたのですよ」
「それにしてはコーヒーを一度も頼んでなかったねぇ」
マスターは冗談交じりにそう言いました。
「それはすみません。私はコーヒーを飲むことすらできませんから」
邦彦はそう言って、自分の財布をひっくり返しました。そこから出てきたのはわずかばかりの銅貨だけでした。いくら安くて評判のこの店でも、これではコーヒーが飲むことなんて到底できないでしょう。
すると、マスターはカップを取り出し、コーヒーを淹れ始めました。
そして、邦彦の前になみなみとコーヒーの入ったコーヒーカップを置きました。
「私はまったくお金が無いのですよ。コーヒーなんてとても飲めませんよ」
邦彦はそのコーヒーカップをマスターの方に寄せます。
「いいよ。これは私からの君への贈り物だから」
マスターは邦彦の方にコーヒーカップを戻します。
「そんなのもらっても、私ではとても返せませんよ」
邦彦は再度、マスターの方にコーヒーカップを寄せます。
「私はね、君のような貧しい人でも美味しいコーヒーが飲めるような店を作りたかったんだよ。君がお金を払えないのなら、一杯くらい私がおごってあげるよ。なに、こんな人のこない店をやっているけど、元々はお金を持っていたからね、これくらいどうってことないよ」
そう言って、マスターは邦彦に再びコーヒーカップを差し出すのでした。
「じゃあ、いただきます」
マスターの思いやりに観念した邦彦は恐る恐るコーヒーに口を付けました。
「──おいしい」
「でしょう?こんな美味しいものが飲めないなんて人生を損にしているようなものだよ」
「そうですね。こんなものが飲めなかったなんて……。本当に私はなんて愚かな人間なんでしょう」
「そんなに大袈裟に言わなくてもいいじゃないか。美味しくて温かいコーヒーが飲めたらそれでいいじゃないか」
「いえいえ、こんなにおいしいものを飲めない私なんてとんでもない人間です。──私はまったく価値がない人間です」
マスターは彼のうつむいた顔を見て、何かを察してこう言いました。
「人の価値なんて、物を買えるかどうかには由来していないよ」
「そう、なんですか?」
「そうだよ。このコーヒーだって、何十人、何百人もの人が手塩をかけてようやくいっぱいになったものなんだよ。私はその一人、一人に価値がないなんて思わないよ。私なんてコーヒーを淹れるだけの人だからね」
「そんなことないですよ。コーヒーなんてお茶のように淹れる人によって味が変わるでしょう?マスターはきっと素晴らしい人ですよ」
「そうかな? 私はそんな人じゃないと思うんだけどね。むしろ、このコーヒー豆を育てた人の方がよっぽど素晴らしいと思うよ。私は所詮、この日本の小さな町のA坂で喫茶店をやっている一人のしがない人間だよ。そう考えると、君も素晴らしい人間じゃないのかな? 君のご主人だって一人だけじゃお店を切り盛りできないだろう?君がいなかったらその店はつぶれているかもしれない。そう思わないのかい?」
「いや、私なんて所詮、つまらないものですよ。いつだって、とんだへまをしでかして、いろんな人に叱られてばかりで……。──私は決してマスターの言うような人間じゃありませんよ」
「そんなことないよ。君がいなかったらその店はどうなっていると思うかい?」
マスターの唐突な問いかけに邦彦はたじろいだ。そして、しばらく考え込んでから、
「どうせ、うまく言っているに違いありません」
と答えました。
「本当にそうかい?」
「そうじゃないならどうなるって言うんですか?」
「多分、その店はつぶれているんじゃないかな?」
邦彦はその一言に面食らいました。
──この人はいったい何を言っているんだ?
──こんな私がいたってどうってこともない。
──それにいつも主人は「まったく使えないな、こいつ……」っていう目で私を見つめているのに、どうしてこの人はそんなことが言えるんだ?
そう思った邦彦は息を整えてから、
「そんなわけないでしょう」
と言いました。
「どうしてそう思うのかい?」
邦彦は少しマスターがやさしく自分をじっと見つめてくる目が怖くなってきました。
「だって、私なんていつも失敗するどうしようもないやつなんですよ!そんなやつが店の役に立っているわけなんかないじゃないですか!」
「けれど、君のいない店がどうなっているかなんて想像できやしないだろう?」
「まぁ、そうですけど……」
──この人は何を言っているんだ、と邦彦は思いました。邦彦は自分のことを役立たずで、つまらなくて、どうしようもない人間だと思っていたためです。
「だから、自分が役に立っている人間だって思ってしまえばいいんだよ。私がいなければ、この店はどうしようもなくなるって。そう思えば、なんだかうまくいくんじゃないかって思わないかい?」
「──そんなに明るく物事を考えられませんよ、私は」
「けれど、そう思うことも大切だと思うよ」
邦彦は驚いたようにマスターの顔を見ました。しかし、また俯いて、
「そんなわけないでしょう。楽天的に生きていたらいけないって主人に何度も叱られましたよ」
と言いました。
「それは何も考えてないふうに見えたから、そう叱ったんじゃないのかな?」
「ありえませんよ。どうせ私が役に立たないから怒ったんでしょう」
「そんなわけないよ。―こう言うとなんだが、何も楽天的に物事を考えるのは悪いことじゃないよ」
「どうしてですか?」
「そこからいい考えが思い浮かぶこともあるんだよ。私もその昔、貿易商をしていてね。そのときはよくうまくいったものだよ」
「貿易商だったんですか!」
驚く邦彦にマスターは微笑みながら、
「そうだよ。今は息子にすべてを譲って、ここでコーヒーを淹れているだけの人間なんだけどね」
と返しました。
しかし、邦彦はやはり俯いて、
「それでもやっぱりマスターは私じゃ到底かなわない人ですよ」
と言いました。
「どうしてそう思うのかい?」
「私はマスターほど立派じゃないし、賢くもありません。愚図でだらしない男なんですよ」
と、邦彦はたどたどしくもはっきりと言いました。
「私はそれでもいいと思うけどな」
マスターの一言に邦彦は顔を上げました。
「どうしてですか?」
「誰だってまじめな人がいないからだよ。―勿論、仕事ができる人が何よりも重要だけどそんな人なんてそうはいないからねぇ。それならば、むしろ誰かよりどこか一点だけ優れているところがある人の方がずっといいってものだよ」
「そうですか」
邦彦はマスターの言葉を何でも噛みしめながら、そう言いました。
「そうさ。君もきっとうまくいくと思うよ。まだまだ人生はある。私と違って君はまだまだ時間があるだろう?」
「えぇ。そうでした。相談に乗っていただき有難うございました」
邦彦はそう言って、残りのコーヒーを飲み干しました。そして、マスターに財布の中に入っていたお金を全部差し出しました。
「お金はいいのに」
と、マスターが困惑しながらそう言うと、
「これだけはもらってください。励ましてくれたお礼です」
と、邦彦はそう切り返しました。
「そうかい。じゃあ、行ってらっしゃい」
マスターの微笑みを背に邦彦は珍しく鏡を見ることなく喫茶店から出ていきました。