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空魚シリーズ

水底のヒース

 ぷつ。


 ちいさなあわぶくがうかぶ。


 こぽ、こぽぽ。


 あわぶくは、うえを目指してのぼっていく。

 ぷく、ぷつとうまれるたび、おおきいものもちいさいものもみな一様にうえをめざして、いちもくさん。

 きらきら揺れる水面が、そんなに恋しいのか。

 浮かびあがったそのさきで、満ちる空気に自身がまぎれてしまうと気がつかないのか。おのれを見失わずにいられると思っているのだろうか。それとも、あと先のことなど考えも及ばないのかもしれない。


 自分がこぼしたあわぶくを目で追ってはそんなことを考え、ただの空気のあわにそんな意思を求める無意味さに気がついて思考を止めた。

 ばかばかしい、とつぶやくかわりに、ヒースはくちからちいさなあわを吐く。


 ぷくぷく、ぽこん。


 きらめく水面は遠く、ヒースがうでを伸ばしたところで届きそうもない。濡れた服がからみつくうでは、かつて泳いだころよりもずいぶんと重たく、思うように動かない。

 そもそも、ヒースは太陽のしたにもどりたいと思えなくて、うでを伸ばすどころかまぶしい光を見つめていることすら苦痛だった。

 ヒースは、これまで必死に前を向きつづけてきたひとみを閉じて、沈んでいく。つめたく、おもたいかばんを抱きしめて、ちいさなあわぶくをこぼしながら、ゆっくりと。

 しずかな青い水底へ、沈んでいく。


 ぷくん。


 引き結ばれたくちのはしからうまれたあわがヒースをはなれ、水にゆれて、おろおろと水面へと向かっていった。



 。 。。   。。。 。  。。   。。。 。 。。



「イメージとちがうね」


 ヒースと出会ったほとんどのひとが、そう言った。

 小柄で、ふわふわした髪の毛を肩口でそろえていて、幼く見られがちな顔をしたヒースを見て、そう言った。

 言われるたび、ちいさなころは腹を立てた。


 小柄なのは遺伝だ。両親ともに背が高くなくて、どうしてヒースだけぐんぐん伸びるだろう。そもそもの骨格が貧弱で、鍛えようもない。

 髪の毛がふわふわしているのは、くせ毛だ。短く切れば跳ねまわって手に負えず、長く伸ばせば手を取るからと、肩口で切りそろえてあるだけのこと。癒し系などめざしていない。

 童顔は父に似た。化粧を濃くしたところで似合わず、また化粧にかける時間がばからしかったから最低限で済ませただけであって、ナチュラルメイクで若く見えることを狙ったわけではない。

 

 それなのに、ヒースが意見を言えば「思ったよりはっきり言う」とおどろき、ヒースの私服を見ては「意外とボーイッシュだ」とつぶやく。そうして、言うのだ。


「もっと女の子らしいほうが、似合うよ」と。


 そのたび、ヒースは思ってきた。いや、幼少期にはくちにだしていた気もする。


「余計なお世話だ!」と。

 

 ヒースの外見から、おっとりしたやさしい女の子を想像するのは勝手だ。ひとそれぞれに、ひとの外見に対するイメージというものはあるだろう。それはいい、個人の自由だ。けれど、それを押し付けてくるのはやめてほしい。


「もっとおしとやかにしたら?」できるものならしている。

「それ、似合わないよ」余計なお世話だ。

「そんなひとだと思わなかった」わたしを勝手にあんたの枠にはめるな。

「君らしくない」精いっぱいわたしらしく生きているんだ!


 たくさんのことばに抗って生きてきた。ヒースにとっていちばん自分らしく振る舞いながら、自分が望むものに向かって進んできた。その先に輝く世界があると信じて、自身を深海狂いと呼ぶ故郷を飛び出し好きなもののために全力でやってきた。


 こぽ。


 けれどいま、ヒースの眼は光を向くことをやめてしまった。

 ヒースの心は抗うことに疲れて、しずかな水底を目指している。

 ヒースにとって数すくない武器であるくちは、あわぶくをこぼすばかりで鋭さをわすれ、ぼんやりしている。


 ぶく、ぽここ。


 そろそろ息が苦しくなってきた。けれど、水面に顔をだしても息苦しいのは変わらない。


「きつい仕事だよ、若いうちならほかにいくらでも選べるでしょう」いいえ、この仕事が良いんです。この仕事だからやりたいんです。

「そんなちいさな体で意地張らずに、ここはほかのひとに任せたら」いいえ、意地でもやり通します。もっと責任ある仕事を任されたいから。


 そうやって、必死で頑張っているときに声をかけてくれた。


「一生懸命なところが、いいなって思ってたんだ」……ほんとう?

「きみを見てると、ぼくもがんばろうって思えるよ」……うれしい。

「ぼくら、いっしょにいれば、もっともっとがんばれるよね」うん、そうだね。


 ぷつり、ぽこぽこ。あわぶくといっしょに、ヒースのなかから思い出がこぼれていく。


「ごめんね、家事まかせちゃって」ううん、仕事がいそがしいんでしょ。仕方ないよ。

「あれ、ごはんまだ? お腹空いてるのに」うん、わたしもいま帰ったから……。

「ねえ、そろそろ仕事変えたら? 家事と両立できないんでしょ」……どうして、そんなこというの。いっしょにがんばろうって言ったじゃない!


 振り返りたくない思い出は、なおもあふれてくる。


「やっぱり、体力のある男の子のほうが戦力になるね」でも、知識では負けません。

「結婚して子どもができてね、長期の休みを取られるとね、困るんだよ。うちみたいな大きくない会社は」そんな予定はありません。仕事を優先しますから、同僚たちと同じに扱ってください!

「悪いとは思うんだけどね、新入社員の子を育てていきたいから。あなたはそのサポートにまわる、ってことでお願いね」……そう、ですか。


 。 。。   。。。 。  。。   。。。 。 。。



 ごぼぼ、ぼこ。


 こぼれでるのは要らない思い出ばかり。陽のもとへもどっても苦しいばかりならば、このまま水底にいってしまおうか……。

 ヒースがそう思ったとき。


 どん。鼓膜に振動がとどく。にぶい、けれどたぶんおおきな音。

 なんの音か、とヒースがゆるゆるとまぶたをもちあげているうちに、首もとをぐい、と引っ張られた。


 ごぼっ。がぼごっ!


 ヒースはおどろいて、肺にのこるわずかな空気を吐いてしまう。あわてて息を吸い込んだひょうしに、くちから鼻から流れこんだ水におどろきパニックになる。

 体が勝手にざばざばともがき、知らぬ間に酸素をもとめてヒースのくちを開け閉めさせる。


 ごぼぼっ! ぼご!

 ありったけのあわぶくを吐き散らし、なにに引っ張られているのかすらわからず、ヒースは手足を振りまわす。


「ぼがあっ!」

 

 ざぼぉっ、という水音とともに、異様におおきな音がした。それが、空気をもとめて自身のだした音だと思い至る間もなく、ヒースは砂浜に倒れこんではげしく咳こむ。


「げぼっ、げっほげほ、がはっ!」

 

「このっ、ばかやろう!」


 体のもとめるままに水を吐きだし、思うさま咳をしているヒースの耳に、だれかの罵倒が飛び込んだ。


「なにしてんだよ! 死ぬ気か⁉︎ こんなもん抱えて、夢と心中するつもりかっ」


 怒鳴るだれかの手は、ヒースが溺れかけパニックになっても手放さなかったらしい荷物でいっぱいのかばんを引っ張っている。

 だれなのか、なにを言われているのか、混乱の解けないヒースにはわからない。それでも、引っ張られているかばんを手放すまいと、必死に抱えこむ。


 かばんの中身は、ヒースが少しずつ集めてきた資料だ。深い深い海の底で生きるものたちの姿絵や、暮らしぶりを記した紙の束。

 将来をともにしようと考えたひとを捨てて、深海生物に関する古文書に触れる機会があるからと選んだ遺跡調査の仕事をやめて、それでも手放せずに抱えてきた荷物だ。


「いやだ! これだけは捨てたくない! 捨てられないっ」


 ともにあるひとも、生きがいになる仕事もいらない。なにをなくしてもいいから、深海の生物を好きでいることだけは捨てさせないで。


 無我夢中でヒースがそう叫ぶと、すこしの沈黙をはさんであたまにこつん、とかるいものがぶつかった。おどろいて目を向ければ、目の前になにやら白いものがある。

 あまりにも近すぎてぼやけるそれにきょとんとするヒースは、燃えあがった胸の痛みも忘れていた。


「あいかわらず、深海狂しんかいぐるいなのな」


 そこにぽとりと落とされる、あきれたような声。

 ふらりと視線を向ければ、若い男と目があった。明るい青色の髪をざっくりと切ったその顔に、見覚えがあるような気がする。


「……まあ、忘れてるだろうとは思ってたけどよ。おれだよ。ちいさいころいっしょに遊んでた、アスターだ」

 

「……あー、……ああ!」


 やや長めの間をおいて、ヒースはそのひとに思いあたる。


「間が長ぇよ」


 不機嫌にそう言われて、反論できないヒースが黙っているうちにアスターは眉間のしわを深くする。


「それよりも、だ。ひさびさにおまえが帰って来たって聞いて家をたずねてみりゃあ、大荷物抱えて海に行ったっていうし。海に見に来てみりゃあ、大荷物抱えた女が水に入って浮かんでこないってさわぎになってるし」


 腹立たしい、とはっきり書かれた顔でアスターはつづける。


「都会で男にフラれようが、仕事やめて帰ってこようが構わねぇけどよ。ここの海で死ぬのはやめろ。おれの思い出をやなもんで塗りつぶすんじゃねえ!」


 イライラを隠しもせずに告げられて、ヒースはぽかんとしてしまう。それから、言われたことばがじわじわとしみてきて、うっかりくちから笑いがこぼれた。


「くふっ」


「あぁ⁉︎」


 目の前でアスターがすごい顔をしているけれど、止まらない。


「ぶふふっ、あはっ! ははははっ」


 顔をしかめていまにも殴りかかりそうなようすで、ひとの傷をガンガンえぐったうえで「思い出を汚すな」なんてかわいいことを言うアスターに、ヒースはどうしてか笑いが止められない。この場所の思い出は、アスターとヒースがふたりいっしょに笑って過ごしたものばかりなのも、きっと関係しているのだろう。

 笑いといっしょに涙まであふれてきたけれど、ヒースは止める気にならない。別れたあのひとの前では、意地でも涙を見せなかったのに。

 その理由は、きっとここが幼いころに遊んだ海で、なつかしさに涙腺がゆるんだのだとヒースは思うことにした。


「……それで。おまえ、もう深海の生物のこと、調べたりってのはいいのかよ。全部ぶん投げて、死ぬのか?」


 ヒースがひとしきり泣き笑うのをだまって見ていたアスターが、ぼそりと言う。びしょ濡れのタオルを差し出しかけて、舌打ちするすがたに、ヒースはほほ笑みながらすなおな気持ちをくちにすることができた。


「いや、良くない。良くはないけど、でも……」


 将来を考えたひとを捨てたときは、態度を変えたあのひとへの怒りで動いていた。

 仕事で技術をみがき、関連する資格をいくら取っても現場から遠ざけられたときには、意地で初志をつらぬき通した。

 仕事をやめて部屋にもどり、勢いのまま荷造りをはじめたときヒースは、ふと、我にかえった。ひとりきりの部屋。若いころの意地を張って仕事をやめたけれど、ヒースの気持ちはいつの間にか年をとっていた。


 こわかった。

 ひとりぼっちで、仕事もなくし、これから生きていけるのか。若いころのように、好きなことへの熱意だけで奮い立てるだけの精神が、ヒースのなかに残っていないことに気がついてしまった。


 それでも、これまで自分の主軸に据えてきた深海生物に惹かれる気持ちは捨てきれなかった。もはやそれがほんとうに好きだからなのか、意地になっているからなのかすらわからなくなって、気づけばヒースは故郷の海にいた。そして、誘われるように海の底にむかおうとしていた。

 だから、言いよどむ。


「でも……」


「んじゃ、これはいらねーか」


 ことばにつまるヒースを待つことなくアスターがそう言うので、ヒースはうつむいていた顔をあげて彼のほうを向く。

 節くれだったその手にあるのは、しろい透かし編みの筒のようなもの。片手にあまるほどのおおきさのそれは、正体を知らない者が見てもきれいだと思うだろう。

 ましてや、深海生物に並々ならぬ関心を抱いているヒースにとっては、悩むまでもなく手が伸びる代物だ。


「カイロウドウケツ! いるっ。いるいる! ほしい! くださいっ」


 飛びかかるようにして詰め寄ったヒースは、アスターの目のなかに、瞳を輝かせた自身の顔を見つけてはっとなる。

 さんざん悩んだ。よく言えば、若いころより思慮深くなったのかもしれない。けれども、悩んだところで仕方がない。自分は、このくちの悪い幼なじみが言うように深海狂いなのだ。目の前に深海のものをぶら下げられれば、あと先考えずに飛びかかってしまうのが、自分なのだ、とヒースは観念した。


「おまえなあ、現金すぎるだろ。……まあ、死にそうな顔してるよりゃいいけどよ」


 認めてしまえば、アスターのあきれた顔も笑いとばせる。元来ヒースは、思い悩まない性格だ。恋人や仕事でうまくいかないことが重なってくよくよとしていたが、自身にとって大切なものがわかったいま、悩むことなどない。


「まあまあ、いいじゃん。それよりこれ、どこで手に入れたの?」


 しっかり受け取ったカイロウドウケツをためつすがめつして見ながら、ヒースは聞く。意識したわけではない、明るい声が出ていると自分でもわかった。


「そりゃあれだよ。だんまりジイさんいただろ、漁師の。あのひとが隠居して、趣味で海にあみ投げててな。ときどきそーゆー、おまえの好きそうなものがかかるんだとよ」


「そっか! じゃあ、わたしこの町で仕事探す。空き時間にジイさんのとこ通おう!」


 うきうきと歩きだすヒースに、なぜかアスターがついてくる。


「あいかわらず、立ち直りはえーな。でも、そうか。この町に戻ってくるのか」


 うれしそうに言うアスターは、めずらしく皮肉の混じらない純粋な笑顔を見せている。まるで、幼少期の彼を見ているような純粋な表情に、ヒースはほほ笑み返す。その胸のうちで、友だちが少ないから知り合いが増えるのが嬉しいんだな、などと思いながら、かばんを手にする。


「ところでそのかばんの中身、濡れてんじゃねーの。いいのかよ。なんなら、おれの家で乾かして……」


 そんな風に思われているとははつゆ知らず、アスターは水がぼたぼた落ちるかばんを気にかけてくる。なぜか照れているような顔のアスターが言いきる前に、ヒースは自身の肩に担いだかばんをちらりと見て笑う。


「ふっふっふ。かばんの中身はちゃんと防水機能付きの袋に入ってるよ。心配無用!」


 胸を張ってヒースが言えば、なぜかアスターががっくりと肩を落とす。

 へんなやつ、と思いながらヒースは砂を蹴って歩きだす。濡れた服が張り付くけれど、ふしぎと不快ではなく身体も軽かった。これまで感じていた息苦しさも、どこかへ吹き飛んでいた。


「待てよ、かばんくらい持ってやるって」


 あわてたようなアスターの呼びかけを背中で受けながら、ヒースはごきげんに笑う。あらためて、好きなもののために生きようと決めたヒースの足取りは、はずんでいた。

ヒースの花言葉、私は私らしくありたい。

青色アスターの花言葉、あなたを信じているけど心配。

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― 新着の感想 ―
[良い点] オノマトペの使い方が秀逸だと思います。 細かい説明が無いのに、ヒースがどうして海に沈んでいくのか分かるというのがすごいです。 なるべく漢字を平仮名に開いてるので童話のような雰囲気があり…
[一言] 内と外。 こんな風に打ちのめされること、ある、ある。 一員のつもりが蚊帳の外。 あぶくに記憶がのっかって上がっていくみたい。 もとよりメゲないタイプのヒース。 浮上してよかった。
[一言] 実は「夏の涼」企画で、これはすごいと撃ち抜かれていたのですが、脳内がまとまらず感想もレビューも出遅れました。「夜語り」企画の「いつの日か、また」を読んでいて、今なら書けそうな気がする!とこち…
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