彼と彼女のテクノス 第3話 ペアウォッチ編
彼女のテクノス ペアウォッチ編
written by Beter Bakaran, advised by Professor H
名も知らぬ彼女からテクノスの時計を受け取ったあの夏から、数ヶ月が過ぎた。裕二は結局、欲しいと思えるような時計を見つけることもなく、今までと変わらぬ日々を送っていた。
裕二から、テクノスの時計を譲り受けた前木は、その後しばらく、同僚に時計をみせびらかせては「この時計、おいくら万円だと思います?」と聞いて周り、皆を困惑させて失笑を買っていたが、秋が近づく頃には、さすがに飽きたようだった。
秋が近づいて、食べ物が美味しい季節になったので、普段は一人で電車旅を楽しむことが多い裕二なのだが、久々にツアー旅行に参加した。会社に出入りしているM観光が、お得なツアーを提案してきて、秋の味覚を堪能できるというので、それを目当てに行くことにしたのだ。
そこで出会った中年女性と、裕二は、珍しく意気投合した。基本的には引っ込み思案な裕二だが、一方で、おばさま方からは可愛がられるキャラクターなのだ。裕二が、電車旅行の趣味の話をし、今まで行った先の想い出を披露すると、その中年女性・・・杉岡さんという・・・は、たいへん興味を示し、一度、裕二の立てた旅行プランでツアーに行ってみたいと言った。裕二は、松茸をひとつ譲ってもらったこともあり、必ずアテンドすると約束した。
後日、本当に旅行プランを考えた裕二は、杉岡さんに連絡したところ、杉岡さんは、娘も一緒に連れて行きたいと言った。裕二は、断る理由もなかったので、結局、裕二と、杉岡さん、杉岡さんの一人娘の典子の、三人で旅行に行ったのだった。女性二人は、とても楽しんでくれたようだった。実際、格安チケットや鉄道会社の割引きプランを駆使した裕二の旅行プランは、抜群のコストパフォーマンスであり、目的地が少しマニアックなのも、旅慣れた人ほど面白いところがあるのだ。
杉岡さんの娘の典子は、実は、裕二が勤務するYM社の取引先で、事務員をしていた。裕二は覚えていなかったが、典子の方は、一度、集金か何かで典子の勤め先を訪問した裕二のことを覚えていたらしい。
「私が受付して、応接ブースに案内したんですよ。覚えていたのは、私の方だけだったんだ。ちょっと、がっかりだな」
典子に、本気なのか冗談なのかわからない言い方でからかわれた裕二だったが、仕事となると他が見えなくなる裕二の場合、受付をしたのが、どれほどの美女であっても、同じことだっただろう。
秋から冬になるまでに、杉岡さんと典子を案内して、裕二は、さらに二回ほど旅行に行った。そして、年が明けてから、冬の京都に、初詣を兼ねて、泊まりで旅行に行くことになった。
出発の日の朝、杉岡さんから、急に都合が悪くなったと、裕二に連絡があった。
自分は行けないが、典子は以前から楽しみにしていたので、是非、予定通り、連れて行ってあげて欲しいという。ホテルの部屋は、杉岡さんの方で、ツインとシングルを一部屋ずつ予約していたが、ツインをシングルに変更するよう、ホテルに連絡をしておくとのことだった。
裕二と典子は、電車の席に並んで座って、京都に向かった。裕二は、なぜか微妙に緊張し、電車の道中、観光プランの詳細を無駄に説明したりしていた。典子の方も、無駄に相槌を打っていた。
年始の京都は、当然ながら、人が多かった。道を行く人々は、ほとんどが家族連れか、カップルだった。まあ、半分以上が外国人のようにも感じたが、その外国人も家族連れか、カップルなのは、日本人と変わらなかった。
裕二は、隣を歩く典子と自分が不釣り合いに思えて、場違いなところに来てしまったような、気恥ずかしさを感じていた。もともと母と娘を案内する予定だった裕二は、このシチュエーションを全く予想しておらず、大して服装にも気を使っていなかった。いつもながらの質実剛健な旅仕様のジャケットに、歩きやすくて比較的防寒性がある素材のチノパンに、ウォーキングシューズという出で立ちだった。
一方の典子は、グレイ・モノトーンのニット・ワンピース・・・素材的にはゆるふわ感のあるニットだが、シルエットはタイトだ・・・、丈はひざ上で、若干短いと言えなくもない。冬らしく黒のタイツを身に着けているが・・・マットではなく、シアー・・・要するに、かなり透けて彼女の肌の色感が見える。革のブーツもグレイで、かなりヒールがあるが、履きなれているようで裕二に遅れずに歩いた。アウターはモッズコートで、本来軍用の防寒服だから、実用的な雰囲気だが、ネイビー・カラーであるために上品にまとまっており、その丸いシルエットは、逆に、彼女の脚のスマートさを強調しているようだった。
いまいちテンションが上がらない裕二とは反対に、典子はだいぶはしゃいでいて、京都に来たのが初めてというわけでもないはずなのに、ありきたりな土産物に感心したり、寺社仏閣に真剣にお参りしたりしていた。
初日の観光を終えた二人は、駅のコインロッカーに預けておいた着替えなどの荷物を回収して、ホテルに到着した。典子が、フロントで声をかけた。
「今晩、一泊で予約している杉岡ですが」
大柄だが、物腰の柔らかい、ベテランの雰囲気があるフロントマンが、予約システムと思しきモニターを確認して言った。
「2名でご予約の杉岡様ですね。お待ちしておりました。9階のツインのお部屋をご用意しております」
「えっ、ツインはキャンセルして、シングルを二部屋にしてもらったはずですが?」
フロントマンは、答えた。
「杉岡様の・・・お母様でしょうか? 私が直接、お電話のご対応をさせていただきました。シングルを一部屋キャンセルとおっしゃられたはずなのですが・・・」
断定は避けているものの、自分の対応にミスはあり得ないという自信が伺われた。
「ちょっと確認します」
典子は、携帯電話で母親に電話したが、どうやら、電源が切れているようで、つながらなかった。
様子を横で聞いていた裕二だが、フロントマンに尋ねた。
「困ったな。シングルは空いていないんですか?」
「申し訳ありませんが、この時期ですので、満室になってございます」
「他のホテルもあたってみようかな・・・」
携帯電話を取り出した裕二を、典子が遮った。
「この時期なんだから、他のホテルも満室に決まってるでしょう? 今からじゃ、無理よ」
若干憮然とした顔で言うと、フロントマンに、
「ツインの部屋で良いので、チェックインしてください」
と、さっさと言ってしまった。
「かしこまりました。では、こちらの用紙にご記入を・・・」
状況が理解できず呆然とする裕二を無視して、手続きはつつがなく終了し、典子はフロントマンからキーを受け取った。
「はい」
典子は裕二にキーを差し出した。
「あ、はい」
まぬけな返事をして、裕二はキーを受け取り、9階の部屋に向かった。
予約されていた部屋は、洋風と和風の折衷したインテリア・デザインになっており、和紙を貼った角形のランプ・シェードから漏れる、赤みがかった柔らかい照明で照らされていた。ベッドは、確かに二つあったが、カーペットの床から一段上がった、居間様の無垢の木で作られた座敷に、直接マットレスがセットされているような格好で、高さは10センチメートルぐらい、布団のような雰囲気になっていた。その間はせいぜい40センチメートルといったところだった。
窓からは、京都の町並みが見える。ブラインドは、プラスチックではなく、竹のような素材で作られていた。
「素敵な部屋ね」と、荷物を置いた典子は、
「とりあえず、ご飯、食べに行こうか」
典子は、小ぶりのショルダーバックだけをひょいっと持って、裕二に言った。
「あ、はい」
再び、まぬけな返事をして、裕二は、典子とともに、暗くなった京都の街にでかけた。
二人は、京野菜がおいしいと有名な店で、食事をした。店は、鴨川沿いにあり、3階のカウンター席に並んだ二人から、街明かりを映す鴨川が眺められた。
裕二は全く酒を飲めないが、典子はそれなりにいける口のようだった。一杯目は女の子らしいカクテルを頼んだ典子だが、この店に、珍しい焼酎が揃っているのを見つけて、言った。
「ねえ、裕二さん、女の子が焼酎を飲むのって、やっぱり引いちゃう?」
「いやあ、僕は全く飲めないから、どんな酒でも同じに見えるし、引いたりはしないかな」
「そう? じゃあ、ちょっとだけ、ハーフグラスでこの焼酎を飲んでいい? これは、どんな酒でも同じなんて、言っていいものじゃないのよ」
典子が選んだのは、「たちばな-橘」という芋焼酎で、宮崎県に友人と旅行に行った時に、地元の人に勧められて飲んでみたところ、とてもおいしかったという。秋篠宮殿下が愛飲されているとのことでプレミアムがついた「百年の孤独」を製造している、黒木本店という酒造によるもので、宮崎県産の原材料にこだわっており、生産量も限られている。そのため、本州で見かけることはまずないというものらしい。
「良い芋焼酎は、お湯割りがいいんだけど・・・女の子が焼酎をお湯割りで注文するのは恥ずかしいから、裕二さん、代わりに頼んでね」
「うーん、そんなもんなのか?」
そう言いつつ、裕二は「橘」のハーフグラスを、お湯割りで注文した。
いつも自分のプランに従って旅行していた典子が、あえて宮崎に・・・沖縄とかではなく・・・いや、沖縄も行ったのかもしれないが・・・旅行に行っていて、現地の人しか知らないマニアックな酒のことを知っているとは。裕二は、意外に思った。
店のBGMには、80年代のAORが選択されていた。ちょうど、スティーリー・ダンの「The Fez」という曲・・・1976年にリリースされたアルバム「幻想の摩天楼」に収録されている・・・が流れた。
裕二自身は洋楽にはそれほど詳しくないが、スティーリー・ダンは、後輩の前木が勝手に社用車のオーディオにCDを入れて、外出に同行するときなどに半ば強制的に聞かされていたので知っていた。
「80年代には、デートのBGMはスティーリー・ダンで鉄板という時があったんですよ。こいつをドライブでかけて落ちなかったら、その女は諦めろって言われてたらしいですよ。ちなみに、俺も嫁さんとの初デートのときは、スティーリー・ダンのエイジャをかけましたよ」
前木は、余計な情報も含めて、説明してくれたものだ。
裕二はそれを思い出して、典子に聞いてみた。
「今かかってるこの曲、邦題が“トルコ帽もないのに”って言うんだけどさ、意味がわからないんだよね」
「トルコ帽?」
「おんなじ歌詞を繰り返すんだ。I'm never gonna do it without the fez on. って。俺はトルコ帽がないとしないよ、君の聖人になりたいんだ、ってさ。何をするのか、なんでトルコ帽がいるのか、さっぱりわからない。音楽に詳しい後輩に聞いても、自分で考えて下さいって、にやにやしてさ」
典子は、数秒、黙って考えていたが、すぐにぷっと吹き出して、言った。
「私、わかっちゃった、あはは」
「えっ、何、何なの?」
典子は、少し、裕二のほうに身を乗り出して、あごを載せた手でテーブルに肘をつき、いたずらっぽく微笑して言った。
「夜の帽子」
「夜の? 夜専用の帽子とかあったかな?」
典子は、大きく笑って、裕二の耳元でそっと言った。
「かぶらないとダメでしょ。それをするときは。ゴム製の帽子を」
今度は、裕二が数秒考えたが、
「あっ!」と思わず叫んで、言い訳を始めた。
「いや、本当に知らなかったんだ、その、いやらしい意図があったわけじゃ・・・」
焦り顔で、必死に言い訳をする裕二を見て、典子はますます笑った。
テーブルに、「橘」が届いた。典子は、それを口に含み、香りを楽しんでいるようだった。一口飲み下すと、また、笑った。
そんな典子を、鴨川を見下ろすカウンター席で、横から見つめた裕二は、彼女が、知的でウィットに富んだ女性であることに、今さら気づいた。伸縮性のあるニットのワンピースは、その下に隠された彼女の体の造形を、想像することを許していた。
2ちゃんとかいうウェブ会議で全会一致で可決採択されたらしい、リア充爆発しろ宣言に従うと、自分が爆発すべき状況に置かれていることに、裕二は忽然と気づいた。この状況を同僚の池口に知られたら、彼は、7セグ表示器やら電解コンデンサやらを買ってきて、爆発物の製作を開始するに違いない。
なんとか冷静さを取り戻そうと、裕二は、話題を変えようとした。
「僕は、酒は飲めないんだけどさ、典子さんは、お父さんと、お酒を飲んだりするの?」
それまで、可笑しそうに笑っていた典子の顔が、無表情になった。
そして、窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「お父さんは、いないんだ」
裕二は、二の句が告げずに黙ったが、典子は、淡々と、事情を説明した。
典子の父は、ブランド時計を扱う小さな商社を経営していたのだが、バブル崩壊による景気の急減速のあおりを受け、経営が行き詰まり、ある日、妻と娘を残して、失踪したという。その後、押印された離婚届が郵送で届いた。妻子が、負債を抱えた自分の巻き添えにならないように配慮したためだろう。杉岡さんは、夫の意図を汲んで、離婚の手続きをしたが、姓は夫のものを変えずに名乗ることにしたそうだ。その後、20年以上が経つが、父の行方は知れないという。
「ブランド時計は、生活必需品ではないし、景気の影響を受けやすい商売だからな・・・当時は、ドロップシッピングの仕組みもなかっただろうし、在庫が滞留すれば、キャッシュフローは一気に厳しくなる。仕入れの資金も、大部分、借入で調達していたんだろうな」
典子は、話を中断して、ウエイターに裕二の飲み物を注文した。職業柄、財務的な救済策がなかったのか考え始めた裕二が、深刻になりすぎないように配慮したようだった。
「私は、まだ小さくて、物心着く前だったから、父がいなくなったこと事態に感傷はないんだ。でも、ブランド時計は嫌いだな。時計が悪いっていうわけじゃないけど、なんとなくね。そういえば、裕二さんは時計を着けてないよね」
裕二は、話題が変えられると思って、ほっとした。
「うん、時間を確認するだけなら、携帯電話もあるし、そこら中に掛け時計は見かけるしね。基本的には内勤だから、PC画面にも常に時間は表示されているわけで。
でも、時計を買ってみるのもいいかなと、最近は思っているんだ、色々あって。と言っても、時計も種類が多すぎて、何を買うべきか、決められないんだけどね」
そうして、典子の手首をちらりと見た裕二は言った。
「典子さんも、時計は着けてないんだね」
「私も同じ理由かな。もし、時間を確認する以上の理由があったら、買ってもいいなと思うけど」
典子は、そう答えた。
会計を済ませた二人は、店を出てホテルに戻った。夜空には月が輝いていたが、晴天の分、放射冷却で気温はぐっと下がっていた。時間は21時を回ったぐらいだった。
部屋に戻った二人は、部屋の中で立ったまま、しばし沈黙した。裕二が、沈黙に耐え切れず、口を開いた。
「あ、あ、明日も色々見て回る予定だから、早めに、ね、寝ようか?」
どもってしまう自分を情けなく感じるが、どうしようもない。
「うん、じゃあ、裕二さん、先にお風呂入れば」
「う、は、はい」
なぜかこそこそとシャワーを浴びて出てきた裕二に、さして興味がないように、典子はバスルームの中にするっと消えた。ドアを閉める直前に、一言、言った。
「明かりは消しておいてね」
明かりを消した裕二は、二つあるベッドのうちの一方に、直立不動の姿勢で仰向けに横たわり、天井を見つめていた。というより、むしろ凝視していた。視線が本能的に、彼女の姿を追うのを、意志の力で食い止めねばならない。
やがて、彼女がバスルームから出てきて、暗がりの中を歩く音がした。彼女は部屋に備え付けのバスローブを着ているようで、ランドリーバッグに下着をしまう音や、ワンピースをハンガーにかける音がした。視線は意志の力で固定できても、聴覚は全力で情報収集をしようとしていることを、裕二は自覚せざるを得なかった。天井をガン見している目を閉じるのは、むしろ聴覚を研ぎ澄ますことになり、ますますヤバイ。
裕二の周辺視野を彼女の影が通り過ぎ、彼女が隣のベッドに横たわる音がした。裕二は硬直した姿勢で動かない。
10分ほど、その状態が続き、裕二は自分の心臓が1万回ぐらい鳴るのを聞いた気がしたが、それはあくまで文学的な誇張で、生理学的にはありえないはずだった。
すると、典子はベッドから起き上がり、窓際に行って、少しブラインドを開けた。冬の冷たい月明かりが、彼女の肢体を影に映した。
「ねえ、裕二さん」
「はっ、はいっ!」
軍曹に呼ばれた二等兵のように、裕二は返事をした。
「これだけ、不可抗力と状況証拠が揃っているのに、何も起こらないっていうのは、どういうことなの?」
薄氷の冷たさと、踏めば割れそうな何かが、彼女の声には含まれていた。
「私に何か問題でもあるの?」
「な、何も問題はありません!」
末尾に、「軍曹殿」を付けるのを忘れた、いや違った、付けるなら「姫」とかか?
裕二の頭の中は動転して、無意味な思考で迷走しかけたが、すんでのところで踏みとどまり、かろうじて次のような現況報告をした。
「トルコ帽の持ち合わせが・・・ございませんでして・・・」
典子は、呆れたような顔をしたが、怒りを収めて、言った。
「・・・こちらで用意してあります」
そして、あははと笑って言った。
「世話が焼ける人ね」
翌朝、予定よりかなり遅めにホテルをチェックアウトした二人は、二日目の京都観光に出かけた。
道を歩く二人の距離は、昨日より近くて、お互いの手が触れ合ったので、裕二は、典子の手を握って、自分のジャケットのポケットに突っ込んだ。典子は、ちょっと待ってと言い、手袋を脱いで、裕二の手を握り直し、改めて、裕二のポケットに入れた。
出発も遅れてしまったし、二人はプラン通りに回るのはやめて、気の向くままにぶらぶらと歩くことにした。途中で見つけた、町家風のカフェの居心地がよかったので、随分と長居をした。
土産物屋が立ち並ぶ界隈を歩いていた時、裕二は、時計が売られている店を見つけた。
観光地によくあるが、その観光地に存在する必然性は全くない、どうでもよい雑貨を売っている、典型的な土産物屋だった。修学旅行生向けの木刀は、もちろん、入り口に陳列されている。
売っている時計は、当然、本来の時計店に並んでいるようなものではなく、5000円均一とか、1万円均一とかの、名前も知らないブランドの、あるいは、ブランドのように見せかけられている時計だった。
裕二は、そこにテクノスの時計が並んでいるのを見つけた。定価は37,000円と書いてあるが、1万円で売っていた。定価が32,000円でも、1万円だ。定価表示は、まるで意味をなしていなかった。この投げ売り感が、商品の胡散臭さを醸し出し、どうでもよい雑貨屋には、ふさわしいようにも感じられた。
だが、名も知らぬ女の子からテクノスを受け取って、それを前木に譲ってから、裕二は時計を買うことを考えていたので、時計の構造や仕様について、ある程度の知識を備えていた。
過去には、スイスの一流ブランドだったテクノスも、今では、他の高級ブランドのデザインを模倣して、安価に販売している。このあたりの落ちぶれ感が、テクノスの評価が低い理由だ。
しかし、実は、もともと1万円の時計だと考えれば、高級ブランドの模倣をしていない、あるいは露骨にはしていない廉価ブランドが、1万円で販売している時計と比べると、圧倒的な高品質を持っているのだ。
例えば、傷がつきにくいサファイアガラスを1万円の時計でありながら標準搭載しているブランドは、他に存在しない。テクノスの時計で、ミネラルガラスを使っているのは、ガラスに曲面加工が必要なデザインの場合だけだ。また、超硬タングステンや、セラミックなど、最新の素材をいち早く取り入れて、製品開発に反映させている。
つまり、デザインをパクっていることだけが、テクノスの弱点なので、デザインにオリジナリティがあるテクノスを見つけた場合は、買って損はない、ということなのだ。
そして、白い文字盤にダイヤモンドのインデックスの時計が、裕二の目に止まった。おそらくダイヤモンドは人工のものだろうが・・・もしかすると、12時の2石は天然ダイヤかもしれない。タングステンのケースに、シルバーとゴールドの金属ベルトの時計だった。当然、サファイアガラスだ。
これが、ペアで売っていたのだ。もちろん、1本1万円だった。
裕二は、典子に聞いてみた。
「この時計、買っていいかな。ペアウォッチになっているんだけど」
典子は、テクノスを観察して、言った。
「結構、可愛いね。そのわりに、すごく安いけど。テクノスって、有名なブランド・・・じゃないよね?」
「テクノスは、昔はスイスの一流ブランドだったんだけど、クオーツショックの影響で経営破綻して、ブラジル資本に商標権を買収されたんだ。それで、今は、廉価な時計を作っている。テクノスを買い取ったブラジルの会社は、今では南米で最大の時計メーカーだそうだよ」
裕二は、説明した。そして、付け加えた。
「テクノスを着けていると、今のような事情を知っていて、もっと世間の評価の高い時計を持っている、時計通の人には、馬鹿にされるかもしれないね。華やかな過去を持ちながら、三流に落ちぶれたとか」
典子は、一瞬、鋭い顔をして、言った。
「そういう人は、私のお父さんのことも、馬鹿にするんでしょうね」
典子は、それだけ言った。
「いいわ、私、このテクノスの時計が欲しい。可愛いし、裕二さんとペアウォッチになるのね。それに・・・なんだか、懐かしいような、ほっとするような気持ちがするから、なぜだか、わからないけど」
遠い記憶を思い出そうとするような顔をしたが、すぐに諦めて、典子は言った。
「でも、定価の70%引きがデフォルトって・・・最初から1万円で売ればいいのに」
そう言って、あははと笑った。裕二は、典子のあっけらかんとした笑い方が、自分にとって、大切なものになっていることに気づいた。そして、あの夏に出会った女の子は、彼女にふさわしい人に出会えただろうかと、ふと考えた。
典子は、甘えた声で、言った。
「買ってくれるの?」
「もちろんさ。本当は、もっと高いものでも良かったんだけど・・・今日の想い出に何かが欲しかったんだ。時間を確認する以上の理由が、今日はあるんだから」
典子は、裕二に体を寄せて、言った。
「そうだね、嬉しい」
そうして、裕二と典子は、テクノスのペアウォッチを購入した。雑貨屋は、一応、ベルトの調整は、その場でしてくれた。
そして、二人はその時計を、それぞれ身に着けて、帰った。
自宅近くの駅に着いた裕二と典子を、杉岡のお母さんが、迎えに来てくれた。
「ごめんねぇ。行けなくなっちゃって」
と、杉岡さんは言ったが、全く悪びれる様子はなかった。二人の腕にはめられたペアウォッチを一瞥したが、それには触れず、尋ねた。
「楽しかった?」