名の聞こえない少年の夢
その夜、魔王ダリスは夢を見た。
森のように典雅で、海のように奥深い夢だ。
眠る彼は優しい光に包み込まれ、やがて静かな空間に支配されていく。現世の音・匂い・感触……全てが消えていった。
*
ダリスは大きな木の根本に腰を下ろしていた。その木は葉を枝いっぱいに生い茂らせており、ちょうど空からのまばゆい光を遮ってくれる頼もしい立ち木であった。彼自信もその傘の作る涼しい空間に慎ましやかな心地好さを感じていた。
しかしその小さな世界とは裏腹に、彼の目前には無辺な荒野が広がっていた。そこには少しの生命も生じていない。音も匂いもない虚空が、ただ茫洋と地平線まで続いているだけだった。
さらにダリスの身には驚くべき異変が起きていた。体が異常に軽くなっていたのだ。両手を開いてそれに目を落とすと、硬く大きかった諸手は目を疑うほどに小さくなっている。左目の辺りに手を当てると、そこにあったはずの傷は見事綺麗になくなっていた。彼は子どもの姿になってしまっていたのだ。
一体何が起きているのだ!
ダリスは口を半分に開けながら、辺りを見渡す。
しかし特に心の拠り所になりそうなものはなく、地面には乾いた土、空には雲一つない晴天だけが敷かれているのみ。
ここは、どこなのだ? 彼には見当もつかなかった。
すると、遠くから誰かが走ってくる音が聞こえてくる。どうやら後ろからのようだ。それは段々と近づいてきている。
何だ? と彼は気になり、おもむろに立ち上がっては木の裏へと廻った。
移動すると足音の正体が見えた。人間だ。それも今のダリスと同い年ぐらいの少年。
なぜこんなところに人間が? とダリスは遠くの少年を見据える。
少年は上着を頭に被せるようにして、こちらへ向かって走ってきている。やがて彼は木の下に見知らぬ魔物が佇んでいるのに気が付くと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして立ち止まった。
「君は誰?」とその少年は大声でダリスに問いかける。
二人の距離は目を凝らしてやっと相手の顔を認識できる程度に開いていた。
ダリスはあまり少年を怖がらせないように笑顔を作って朗らかに答える。
「我はダリス=ノーフォフだ! 決して危害を加えるつもりはないから、安心してこちらへ来てもいいぞ!」
彼は少年に大きく手を振って見せた。
少年は一瞬だけ口を固く結び、それからゆっくりとほほえみを浮かべて、再びこちらへ走り出してきた。
少年がやっと同じ木の傘に入ると、ダリスは客人にこう話しかける。
「やあ、よく来たね。君の名前は何というんだい?」
少年は頭に掛けていた上着をめくり、艶のある色黒の肌と穏やかな垂れ目を露わにした。
「僕の名前? 僕の名前は、――――だよ」
「え?」
ダリスは目を細める。名前がよく聞こえなかったのだ。
「すまない、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれないか?」
少年は快くうなずいて、今度は相手にきちんと伝わるように、はっきりとした声で名乗り上げた。
「僕の名前は、――――だよ!」
しかし、それでもダリスには少年の名を認識することができなかった。名前の部分だけ、ぼやけてとしか聞こえなかったのである。
彼は思わず眉をひそめた。どうして名前が聞こえないのだ?
すると少年は諦めたように笑みを浮かべ、何もない荒野に体を向けた。
「ま、いっか」と快活にささやく。
「面目ない、よく耳が聞こえないのだ……」
ダリスは申し訳なさそうに詫びた。
「ううん、大丈夫。僕の名前なんて、あってないようなものだから」
「あってないようなもの? それってどうして――」
ダリスが横顔だけの少年に尋ねようとした、そのとき、彼の視線は自然と上を向いてしまった。
雷雲。それが少年の眺める先から尋常でない覇気で迫ってきたのだ。
「これは……」とダリスは目を見張らせてつぶやく。
暗い雷雲はあっという間に彼らの頭上を覆ってしまった。遠くでは多くの雷が殷々ととどろいている。
少年は鳴り響く遠雷を聞き、笑顔をぎこちないものに変えてしまう。
「僕こそ、ごめんだよね。だって……」
彼は顔だけをダリスに向けた――。
その刹那、彼らはとてつもない光に襲われた。雷だ。雷がこの木に落ちてきたのだ。何も見えない。目の前が真っ白だ。
遅れてすさまじい轟音が彼らを包み込んだ。ダリスはそれに対して耳を塞ごうとした。しかし、体が怯んで塞ぐことができなかった。
漠然とダリスは姿の見えない少年に何かを言われているような気がした。けれども当然、少年が彼に何を伝えようとしているのかは全く分からない。
そうして徐々に意識が遠くなっていく。頭上からの雷鳴も段々と小さくなっていく。心臓の鼓動を感じる。それから温かい空気が肺へ流れ込んでくる。
*
ダリスはぱっと目を開いた。
小鳥の声が聞こえる。窓の方へ顔を傾けると傍の豆苗にやわらかな日差しが降り注いでいる。
体を起こして部屋の隅に視線を移すと、寝床で可愛らしい豚のギップがいびきを立てて眠っている。
彼は両手の平を見つめ、左目の辺りを手でこすった。手はきちんと力強いガチガチのものに戻っており、左目付近の傷も元通りになっている。
「ああ、あれは夢だったのか」と彼は呆然とつぶやいた。
どうして体が子どもに戻ってしまったのか。あの一本の木だけがある荒野はどこだったのか。そしてあの少年は一体何者だったのか。
ダリスは薄っすらと何かを知っているような気がした。しかし、どうしてもそれを思い出すことはできなかった。




