9.
昼食時も終わりに差し掛かった頃。食堂から出て行く騎士や侍女達の流れに逆らって歩いていたエルナは、今まさに食事を終えて席を立ったオルトヴァーンと目が合った。
その目が、ふいと逸らされるのを見た瞬間、エルナは悟った。
オルトヴァーンは貴族だ。平民のエルナに、ただ情けをかけただけだったのだ。それを二度にも渡って拒否したエルナのことなど、もう構うことなどないと思っているのだろう。
オルトヴァーンは頭に来たからといって、権力を振りかざしてエルナに不利益を与えるような真似などしない。けれど、まるで親しい友人関係のようだった半月ほど前のような状態には二度と戻れないのだと思うと、エルナはその場に崩れ落ちてしまいそうなほどのショックを受けた。
いつもの席に座り、周囲を見回してみると、すでにオルトヴァーンの姿は食堂にはない。これまでのように、一人寂しく昼食をとるエルナの元へやってきて、揶揄っているのか慰めているのか分からないような軽口を叩いてくれることも、あれ以来なくなった。急に王都への帰還が決まって忙しいせいだと思い込もうとしても、どんなに楽観的に考えても理由はそれだけではないのは明らかだ。
大きな溜息を吐いた後で、エルナは苦笑した。
これほど落ち込むくらいなら、最初からへんな意地など張らずに、彼の好意に飛びついていれば良かったのだ。平民の女などを王都へ連れ帰った後の彼の立場や家族関係や、その他彼が被るであろう不利益を全て無視して、何も分からなかった振りをしてついていけば良かったのだ。
自嘲しながら昼食を終えたエルナの元に、おどおどしながらやってきたのは、普段あまり接点のない侍女だった。
「人手が足りない?」
エルナが眉を顰めると、気が弱そうなその侍女は縮めていた身体を更にぎゅっと小さく竦ませた。
「……は、はい。アンとカリナが体調を崩して、午後からお休みをいただきたいと言っていて。でも、そうなると、西の棟の担当が三人も減ってしまうので、一人でもいいので東の棟から回していただければ、と」
「ちょっと待って。ポリーナはどうしたの? そういう報告は、本来あの子から私にするべきことでしょう?」
ポリーナは、エルナの次に勤続年数の長い侍女だ。とはいっても、エルナよりも十歳も年下ではあるが。
城塞は広く、騎士の数も多い。彼らの部屋の掃除は、各棟の担当侍女が分担して行うことになっている。更に各棟で担当の部屋を決めているのだが、欠勤や非常時にはお互いカバーし合うことになっている。
エルナは東の棟の責任者であり、西の棟の責任者はポリーナだ。応援が必要ならば、エルナに人員を融通してくれるよう頼みに来なければならないのは彼女であるはずだ。
「ご存じないのでしょうか。ポリーナさんは、一昨日から実家に戻っているそうです」
「……え?」
眉を顰めたエルナに恐れをなしたのか、その侍女は青ざめて目を泳がせた。自分が、何かしらポリーナにとって不利益な情報をエルナに渡してしまったのではと怯えているのだ。
「初耳ね。どうしてだか、あなた理由を知ってる?」
「それは……」
侍女の反応を見れば、明らかに事情は知っているようだった。だが、すぐに言わないところを見ると、どうやら親が危篤だとかいう緊急かつ正当な理由ではなさそうだ。
「別に、理由を聞いたからってどうという訳でもないわよ。それに、ポリーナが実家に帰っているのを知らなかったのは、私の落ち度でもあるのだから。教えてもらってよかったわ」
勿論、エルナは本当に自分に落ち度があるとは思っている訳ではない。確かにここ半月以上多忙な日々が続いていたが、ポリーナが実家に帰るという報告を受けていて忘れていたということなど有り得ない。だから、悪いのは報告を怠ったポリーナであって、エルナではない。ただ、この侍女から迅速かつ穏便に情報を聞き出すには、強い口調で叱るより、あなたは悪くないから話しても大丈夫だと思わせる事が大切だと思ったからだ。
そんなエルナの心の内など知る由も無く、侍女は恐る恐る上目遣いでエルナの顔色を伺いながら口を開いた。
「……あの。実際にポリーナさんから聞いた話ではないのですが、……その、縁談が、あるのだとか」
「ふうん……」
それで、このクソ忙しい時期に何日も実家に帰っている訳か。そして、この侍女は私が『縁談』という言葉に反応して怒り出すと思っている訳ね。
エルナの目がすわっているのに気付いた侍女は、これはあくまで噂で聞いた話だと慌てふためいて言い訳をした後、背を丸めて去っていった。
縁談か、とエルナは遠い目をして溜息を吐いた。
かつて、エルナにも縁談が寄せられたことがあった。主に、祖父母や叔父からの勧めで、相手は知り合いの親戚や、仕事仲間の息子等、顔も見たことのない人ばかりだった。縁談相手に会ったが最後、女性の側から断るのは至難の業だということは世間の常識だった。エルナは、のらりくらりとはぐらかしては縁談を断り続けた。その結果、二十五を過ぎたのを境に縁談はぱったりと来なくなった。
ポリーナも、もう一般的に縁談が来る最終ラインである二十五だ。最後のチャンスだとこの機会に飛びついたのかも知れない。
ポリーナはエルナに似て、意地っ張りで強情なところがある。エルナは、彼女が自分と同じ道を歩むのではないかと、実は密かに心配していた。
騎士隊の異動前であるこの忙しい時に私情を優先したのは腹立たしいことこの上ないが、それでも彼女が自分のようにならずに済むのなら、とエルナは心を落ち着かせると、東の棟から西の棟へ誰を応援に出そうかと思案し始めた。
エルナが西の棟へ足を踏み入れると、ぎょっとしたように侍女達が振り返った。
「あ、あの、エルナさん、……が?」
「ええ。諸々の事情を勘案した結果、私が応援に入ることにしました」
西の棟の人員は通常より三人少ない。その穴を一人で埋められる人物は誰かと考えて、エルナが出した結論は、自分が応援に入るということだった。
予想した通り、エルナの目が怖い侍女達はテキパキと動き回る。これならば、何とか時間内に掃除を終えることができそうだった。
エルナが、ポリーナの担当していた部屋を掃除していき、最後の部屋に入ろうとした時だった。部屋のドアが開かず、ノックをしても何の反応もない。
「あら、困ったわ」
どうやら、部屋の主が自分の部屋に鍵を掛けて出ているらしい。
それは、副隊長ロベルトの部屋だった。
「ああ。私の部屋は掃除しなくてもいい」
部屋の鍵を開けてくれるよう頼みに行ったエルナに、ロベルトは首を横に振った。
「ですが……」
「今、王都への帰還準備で部屋を散らかしている。仕事が忙しくて、なかなか自分の荷まで手が回らないのだ」
「では、お手伝いいたしましょうか」
「いや、それは必要ない。それより、なぜお前が私の部屋を掃除すると?」
「西の棟担当の侍女が不足しておりまして、応援に入っているのですわ。何も、ロベルト様のお部屋を是非にも掃除させて下さいとしゃしゃり出ている訳ではありません」
訝し気に眉を顰めるロベルトに、エルナは顔色一つ変えずに淡々と答える。
「そういうことだったか」
「はい。こちらも手が足りておりませんので、御言葉に甘えてロベルト様のお部屋は掃除不要ということで、他の侍女にも伝えておきます」
「ああ、そうしてくれ」
エルナの言葉に、ロベルトは事もなげにあっさり頷く。
他の若い騎士ならば、えっ、じゃあこれからずっと掃除してもらえないってこと? と慌てて取り乱したりするものだが、さすがは副隊長だけあって、侍女ごときの言動で動揺したりはしない。
ただ、ロベルトはまだ三十になったばかりという年齢であり、オルトヴァーンのような寛容さはない。それが、エルナの目には器が小さい男に映る。いくら年上だからといってエルナごときに舐められて堪るか、といきがっているように思えるあたり、自分も歳をとったなぁ、とエルナが自嘲気味に笑った時だった。
「どうした。何かあったのか?」
その声に、エルナは弾かれたように振り向いた。
逆光で見えにくいが、廊下の向こうから歩いてくるのは間違いなくオルトヴァーンだった。顔に熱が集まっていくのが分かる。今いる廊下が窓のない薄暗い場所でよかった、とエルナは心から思った。
「いえ。掃除の為に、ロベルト様の部屋の鍵を開けていただこうとお願いに参りましたの」
「そうか。ロベルト、すぐ行って開けてやるといい」
「いえ。私物を散らかしているので、掃除は必要ないと断ったところです」
ロベルトの口調は固く、まるで侍女が私物を漁って金目の物をくすねようとしていると疑っているようにも聞こえる。エルナは腹立たしさを抑えながら、ではこれで失礼します、と下がろうとした。
その時。
「エルナ」
名を呼ばれると同時に、不意に腕を掴まれた。顔を上げれば、オルトヴァーンの顔が驚くほど近くにある。
「話がしたい。明日の昼、早めに食事を終えて隊長室へ来てくれないか」
まだ近くにいるロベルトに聞こえないようにするためか、オルトヴァーンはエルナの耳元でそう囁く。
「……承知いたしました」
鼓動が跳ねるのを感じながら、エルナは努めて冷静に答えた。
「じゃあ、よろしく」
エルナの腕を掴んでいた手を放して肩を一つポンと叩くと、オルトヴァーンはロベルトに職務に関する話題を振りながら二人して去っていった。