8.
昼間、通常の業務に加えて異動の準備で走り回り、夜も真夜中まで城塞内を巡回していて、身体は泥の様に疲れ切っている。それなのに、エルナは寝酒を煽ってもなかなか眠れない日が続いていた。
ハナをきつい口調で叱ったあの日から、侍女達のエルナに対する陰口はこれまでより更に酷くなった。
「自分が誰からも相手にされないから妬いているのよ」
「あの年で独り身なんだから仕方ないわよね。あーあ、ああはなりたくないわ」
言われ慣れているはずの悪意ある言葉も、今はエルナの心に突き刺さる。
私だって、オルトヴァーン様に望まれている、と堂々と言えたらどんなにいいことか。けれど、彼がエルナを王都へ連れて行こうとしているのは、ただ二十年前にできなかった償いをしようとしているだけ。しかも、エルナはそれを拒絶したのだから、それを自慢げに語ることなんてできるものではない。
オルトヴァーンは相変わらず帰還準備で忙しく、エルナと二人きりで話ができるような状況ではなかった。それでも、エルナは時々、オルトヴァーンの何かもの言いたげな視線を感じていた。けれど、ここ数日はそれもなくなってしまい、エルナの中に生まれた後悔だけが次第に大きく膨らんでいく。
自分でもどうしようもないくらい好きだったのに、素直に彼の言葉に頷くことができなかった。二十年経っても、それは変わっていなかった。いや、彼の申し出を拒否する理由がなくなったのに、それでも素直になれないのだから、寧ろエルナの捻くれ具合は悪化してしまったと言えるだろう。
エルナがこのトレヴァスの城塞に侍女として勤め始めたのは、十五歳になったばかりの頃だった。
エルナの父は元平民出身の騎士で、退役してトレヴァスで母と結婚した。母の実家の家業だった大工を継いだ父は、エルナが十四の時に仕事中の事故で亡くなった。それから床に臥すようになった母も、一年後にこの世を去った。
年老いた祖父母が、コツコツ手仕事で得る収入に甘えて暮らすことも出来ず、エルナは僅かな希望を掛けてトレヴァス城塞の侍女という狭き門に挑戦した。当時の隊長がエルナの事情を知って同情してくれたのだろう。エルナは幸運にも何十倍という競争率を突破して、侍女に採用されることになった。
同期の侍女達が早速騎士達を品定めするのを横目に、エルナは一生懸命働いた。自分を採用してくれた隊長の期待を裏切る訳にはいかないと思ったからであり、辞めさせられて祖父母を悲しませたくもなかったからだった。
当時、トレヴァス城塞に赴任していた第七騎士隊の中でも、オルトヴァーンの存在感は抜きんでていた。まだ二十歳前と若いながら、長身に引き締まった体躯、やや童顔ながら甘いマスクと真面目で優しく誰に対しても礼儀正しい彼は、すぐに侍女たちの憧れの的となった。
懸命に仕事に取り組んでいたはずのエルナも、顔を合わせる度に挨拶をしてくれ、仕事ぶりを褒めてくれる彼にいつしか心惹かれるようになっていた。
そんなある日のこと。訓練場の片隅で、オルトヴァーンが、自分の恋人を奪ったと因縁をつけてきた騎士と揉みあっていた。
実際には、その騎士の恋人が心変わりをしてオルトヴァーンを好きになってしまっただけで、彼は何も知らなかったのだ。だが、恋人を奪われたと思い込んだその騎士は、執拗にオルトヴァーンを責める。聞くのも汚らわしいほどの身に覚えのない汚名を着せられて激昂したオルトヴァーンは、相手に掴みかかった拍子に、止めに入ったエルナを弾みで突き飛ばしてしまった。
エルナが転んだ先には訓練用の剣や槍を立て掛けておく棚があった。ぶつかった衝撃でその棚が倒れてきて、降り注ぐ刃のうちの一つがエルナの左の鎖骨付近に食い込んだ。
深い傷ではなかった。今では、明るい所でも目を凝らさなければ見えないほどの傷だ。それでも、オルトヴァーンは責任を感じてくれた。傷物にしてしまったエルナを妻に迎える、一緒に王都へ来てくれと言い切った。
だが、オルトヴァーンは子爵家の息子だ。親同士が決めたとはいえ、王都には婚約者もいたのだ。自分への償いの気持ちと、婚約者を傷付け家族の期待を裏切る罪悪感で、オルトヴァーンが葛藤し苦しんでいるのをエルナは知っていた。
きっと、この傷を盾にオルトヴァーンに結婚を迫れば、優しい彼は最終的に自分を選んでくれるのだろうとエルナは思った。彼と共に王都へ行き、彼の婚約者と対峙し、受けた傷を見せつけて妻の座を勝ち取るという選択肢もあった。
けれど、エルナはそうしなかった。そうしようとも思わなかった。そんなことをしても、オルトヴァーンを更に追い詰め、苦しめるだけだと分かっていたから。
「私は平気です。オルトヴァーン様に責任を取っていただかなくても結構です」
だから、本当の気持ちを押し殺してそう言ったのに、それでもなお引き下がろうとしないオルトヴァーンに困ったエルナは、当時の隊長に相談した。このままでは、誰も幸せにはなれないと。
それから間もなく、オルトヴァーンは任期途中で別の隊に異動になり、王都へ帰って行った。彼とエルナを引き離す為に、当時の隊長がそう取り計らってくれたのだ。
それから後、五年前にこの城塞に赴任してくるまで、オルトヴァーンがエルナに会いにくることはおろか、手紙すら届かなかった。騎士達の会話で偶然、彼が婚約者と結婚したことを知ったのは、もう十数年も前のことだった。
エルナは、もう二度とオルトヴァーンに会うことはないと思っていた。それに、もし彼が再びトレヴァス城塞に赴任してくるようなことがあっても、その頃には自分は誰かと結婚してこの城塞を離れている。例え彼がまだ責任を感じていて自分を探すようなことがあっても、その時には自分は彼ではない他の誰かと幸せに暮らしているだろう。だからもう、これで何もかも終わったのだ、と。
……なのに、まさか十五年経って三十路を越えてもまだ自分は独身のまま城塞で侍女を続けていて、そこにオルトヴァーンが隊長として赴任してくるような事態になろうとは、さすがのエルナも思ってもみなかった。
けれど、それまでの十五年の間におおよその辛い出来事を経験して涙も枯れ果てるほど泣いてきたエルナは、寧ろこの再会を笑い飛ばした。いや、笑うしかなかった。他の誰かと幸せになっていて、もうあなたの同情など必要ありませんと堂々と言ってやろうと思っていたのに、まだ独り身のまま侍女を続けているだなんて。
そんなエルナを憐れみ、オルトヴァーンが再び責任を取ろうとするのではないかと心配したものの、それはただの杞憂に終わった。オルトヴァーンは再会を喜び、古参侍女としてのエルナの実力を評価してくれ、時に嫌われ役のエルナを庇ってくれはしても、あの時の事故について話を蒸し返すようなことはしなかった。
人間として何倍も成長し、年齢を重ねただけ魅力的になったオルトヴァーンに、エルナの錆びついていた恋心が動き始めるのにはそう時間はかからなかった。
けれど、すでにオルトヴァーンは婚約者と結婚して子供もいる。例えこの城塞に赴任している間だけの関係でもいい、などという考えは端からエルナにはなかった。若い侍女ならともかく、嫁ぐにも手遅れの年増侍女などオルトヴァーンには相応しくない。沁みるように痛む恋心を抑え込み、エルナは彼の良き使用人に、良き理解者になろうとただそれだけを思ってきた。
けれど、まさか彼が妻ととっくに離縁していて、再びエルナに手を差し伸べてくれるなどとは夢にも思ってもみなかった。
あの時、エルナは嬉し過ぎて、嬉しいと感じることもできずにいた。今になって、思い出しては頬が焼けるほど熱くなる。けれど、自分は彼の申し出を撥ねつけたのだと思い出して、自己嫌悪から溜息が止まらない。
いや、きっとあれで良かったのだ。王都へ戻れば、彼に相応しい再婚話が幾つも押し寄せてくるに違いない。そう思うことで自分を納得させたエルナは、もう寝ようとサイドテーブルへワインの瓶とグラスを置き、明かりを消そうとしてハッと息を飲んだ。
月明かりの下、三階にあるこの部屋の向かい側にある塔の最上階で、明かりが瞬いている。通常使われることのないその塔に、こんな真夜中に立ち入る者などいるはずもない。
エルナは消す直前だった手燭を手に部屋を出た。
別れを決めた恋人たちが、残り少ない時間を共に過ごそうとしているだけならそれでいい。けれど、時に話が拗れて、痴情のもつれから刃傷沙汰に発展することがままある。過去には、妻にしてくれないならここから飛び降りると城壁の上で叫んだ侍女が、足を滑らせてしまい、命を落としてしまったこともあったのだ。
夜着の上に、長い外出用の上着を羽織るという、さっきまで城塞内を巡回していた格好でエルナは塔へ向かった。
案の定、塔の入り口の鍵は開いていた。
誰が何の目的で何をしているのか分かるまで、エルナは自分の存在に気付かれないように行動する。恋人たちの残り僅かな時間まで奪うような無粋な真似をするつもりはなかった。
最上階まで辿り着くと、その部屋のドアが僅かに開いていた。中を覗いたエルナの目に、平民出身だという純朴そうな騎士と、いつも目立たず黙々と仕事をしている侍女が映る。意外な組み合わせに、返ってエルナの鼓動が早まった。
「……ですから、私は病気がちな父と、まだ幼い弟の為に、ここで働いて家計を支えなければならないのです」
「なら、僕はトレヴァスに残る。街で仕事を探して、きみと、きみの家族を守るよ」
「そんな! 駄目です。私の為に、騎士を辞めるだなんて」
「元々、騎士という職は僕には向いていなかった。両親が早くに他界して、生きていく為に仕方なく選んだ道だったんだが、フルルカでの山賊討伐でつくづく騎士を続けるのは無理だと身に沁みた。すぐにでも辞めたかったんだけど、騎士でなくなったらこの城塞にいられなくなる。そうなったら、きみと会えなくなってしまうからね」
そう言って、騎士は苦笑した。
「こんな情けない男は嫌い? それとも、騎士を辞めた僕にはきみに求婚する資格はないかな?」
侍女は激しく首を横に振ると、目を潤ませて騎士を見上げ、広げられた騎士の腕の中にゆっくりと身を預けた。
息を詰めて中の様子を窺っていたエルナは、ホッと溜息を吐く。
こうやって、心底誠実に愛し合い、結ばれる者もいるのだ。エルナの父のように、街で見初めた女の為に騎士を辞めてトレヴァスに骨を埋める者も中にはいる。
足を忍ばせて塔から出たエルナは、ホッと息を吐いた。
自分がどれほど情けない立場にあっても、他人の幸せを祝ってあげられる気持ちを持っていられるなら、まだ自分は大丈夫だ。雲に覆い隠されていても、その僅かな隙間から暗い空を照らそうとしている姿の見えない月を見上げながら、エルナはそう思った。
暗い廊下を自室に向かって歩きながら、先程見た心温まる光景と、眠れないからと普段より多めに飲んだ酒が回ったせいなのか、エルナは感傷的になっていた。
二十年前の責任などではなく、オルトヴァーンが本当に自分を愛してくれていたら。
ふとそう思って、エルナは自嘲しながら目尻に浮かんだ涙を拭って溜息を吐いた。
あんなに美しく艶やかな妻と暮らしていたオルトヴァーンが、エルナのどこを気に入るというのだろう。二十年前の負い目があるからこそ、オルトヴァーンはエルナの今後を心配してくれているのだ。でなければ、妻に裏切られたショックから立ち直れず、自棄になっているか。それしか考えられない。
そんなことを考えていたエルナは、突然背後から呼び止められて文字通り飛び上がった。
「エルナ」
「ひゃっ……!」
小さく叫んで、恐る恐る振り返る。見れば、そこには騎士の制服を着て、手燭を掲げた人物が立っている。
「あら。こんな時間にどうなさったのですか?」
「そっちこそ、こんな時間にそんな恰好で。今度は一体何を嗅ぎまわっている?」
威圧感を漂わせながら近づいてくるのは、副隊長のロベルトだった。
「嗅ぎまわっているだなんて、心外ですわ。騎士隊の皆様が異動される前は特に問題が起きやすいので、見回りをしているだけですのに」
あなたが所属する隊が異動してくるずっと以前からそうしていたのだ、と当然のように言えば、普段は温厚で口数の少ない副隊長の眉間に皺が寄った。
「例え城塞内とはいえ、女性が真夜中に一人で歩き回るのは良くない」
「……あらま」
「部屋のある棟まで送ろう。さあ」
軽く背を押されて、エルナは戸惑いながら歩き出す。
これまでも、エルナが夜間に城塞内を巡回していたことは、ロベルトも知っているはずだ。リリーナの不適切な行動が囁かれた時も、エルナは現場を押さえようと毎晩のように城塞内を歩き回ったものだ。
それなのに、いきなり何なのかしら。
暗くて見えないのをいい事に、エルナは思いっ切り口元を歪めた。
ただ、何にせよ、エルナに全く無関心だった男に、いきなり女性扱いされたことについては悪い気はしなかった。