7.
もう二度と聞くことはできないと思っていた台詞に、エルナの心臓が早鐘を打つ。
これは夢や幻聴などではない、と認識するにつれ、じわじわと心の底から喜びが湧き上がってきて、頭どころか体までふわふわして、痺れるような幸せに包まれる。
ただ。とても厄介なことに、長い間独りでい続けたエルナの心は、若い娘のように無防備に舞い上がったままではいられなかった。
嬉しい、と思えば思うほど、逆にエルナの心の中の一部が冷静に問う。この嬉し過ぎる彼の言葉に、果たして後先考えずに飛びついていいのか。……そもそも、二十年の月日を経て、何故この言葉を二度も聞くことになったのか。
「もしかして、二十年前の事に、まだ責任を感じておられるのですか?」
そう言った自分の声の冷たさに、エルナはゾッとした。左の鎖骨付近がピリピリと痛み、無意識のうちにエルナはお仕着せの上からそこを右手で押さえる。
それを見たオルトヴァーンが、苦し気に顔を顰めた。
「責任を感じてはいけないか?」
「でしたら、オルトヴァーン隊長は、これから後も誰かを傷付ける度に、そうやって責任を取るおつもりなのですか?」
「それは……!」
何か言おうとしたオルトヴァーンの言葉を遮るように、エルナは突き放すように言葉を放った。
「あの時にも申し上げたはずです。私はあの事故の責任を取っていただかなくても結構です、と」
「エルナ!」
ガタン、と音を立ててオルトヴァーンが席を立った時だった。部屋のドアを叩く音がして、ハッと二人が振り返った時、返答も待たずに副隊長が入室してきた。
「失礼します、隊長。王都より命令書が届きました」
雨期には、異動はない。
そんな二十年間来のエルナの経験を嘲笑うかのように、オルトヴァーン率いる騎士隊の異動通知が届いたのだった。
その直後から、トレヴァス城塞は再び慌ただしくなった。
オルトヴァーン率いる第五騎士隊がトレヴァス城塞での任期を終えるのは一か月後。運が良ければ、雨期は終わっている頃だ。新たに赴任してくる第八騎士隊が到着し次第、彼らはトレヴァス城塞を発って王都へ向かうことになる。
騎士達の会話からエルナが漏れ聞いた内容から推察するに、こんな時季外れに異動が決まったのは、フルルカでの山賊退治で負傷者が多数出たことが大きな原因らしかった。五年もこんな田舎の城塞に赴任させられた挙句に怪我をしたとなれば、王都で待つ家族の堪忍袋の緒も切れようというものだ。
全ては、料理の塩味が薄いことにエルナが気付いたことから始まった。けれどエルナは、あの時気付かない振りをしておけばよかったとは決して思わない。自分はやるべきことをやっただけだ。寧ろ、オルトヴァーンが五年もこのトレヴァス城塞にいてくれたことが奇跡だったのだ。
王都からの命令書が届いた後、オルトヴァーンはすぐに副隊長と打ち合わせを始めた為、エルナはそのまま隊長室を後にした。だから、一緒に王都へ云々という話は、エルナの突き放すような言葉にオルトヴァーンが何か言い返そうとした途中で打ち切りになったままだ。
それから後も、気まずいからとあまり急にオルトヴァーンを避けていては、それに感づいた若い者達にどんな噂を立てられるか分かったものではないと、エルナは普段と変わらず隊長室へお茶を淹れに行った。けれど、オルトヴァーンが一人でいることはまずなかった。副隊長と共に書類の整理や引き継ぎ書の作成から、部下達と複数で私物の荷造り、トレヴァスの街周辺の有力者への挨拶回り。歴代の隊長達が異動前にそうだったように、オルトヴァーンもなかなかに忙しい日々を送っている。
――俺が王都へ戻る時は、一緒に来てくれないか。
何故、あの時素直にはいと言えなかったのか、とエルナの心の片隅に、後悔にも似た苦い思いが頭をもたげ始めていた。
真夜中。城塞の一角、侍女たちの部屋が並ぶ棟の一番奥、主の部屋と密かに呼ばれている自室で、エルナは寝酒を煽っていた。
異動の知らせに沸く騎士達と、彼らと恋仲になっている侍女達との間に、何かトラブルが起きないかとあれからエルナは目を光らせていた。先程も、過去逢引に利用されてきた城塞内のあらゆる場所を見回ってきたところだ。
王都へ帰ることになった騎士達が、赴任中に恋人にした女に取る行動は大体三つに分類される。
一つ。一緒に王都へ連れて帰る為、恋人の家族に許しを請いに行くと同時に、王都にいる自分の家族にも恋人を連れて帰る旨の知らせを出す。
二つ。後で必ず迎えに来るからと恋人を説得し納得させ、自分だけ王都へ戻る。この場合、騎士が本当に万事を整えて恋人を王都に呼び寄せることはほとんどない。
三つ。ただの遊びだったと恋人をあっさり捨てる。
騎士は誠実だというイメージが強いが、実は意外にも二つ目と三つ目がほぼ多数を占めている。第一、彼らにはこの地に赴任してくる前に、妻なり恋人なり婚約者なり、大半の者にはすでにお相手は王都に存在しているものだ。
痴情のもつれから、刃傷沙汰になることもある。こんな田舎の街から王都へ出て豊かな生活をしたいと願う女は、そう簡単に手にした得物を諦めたりはしない。赴任中だけの欲望の捌け口だと高を括っていた騎士達は、痛い目を見ることになる。
そんな彼らの動向に気を配り、必要なら仲裁に入り、時に強引に引き離すのもエルナの役目だった。
騎士隊の王都帰還が決まってからの恒例である騒ぎが起きたのは、帰還命令が届いて十日後のことだった。
夜中に近い時刻だというのに侍女達の部屋の一室がやけに騒がしく、エルナがその部屋を覗けば、一人の侍女が泣きじゃくっていて他の侍女達に慰められていた。
「こんな時間に何を騒いでいるの。明日の業務に差し障るわよ」
その侍女、ハナが何故泣いているかなど、聞かなくてもエルナには分かり切っていた。ハナと、下級ながらも貴族のとある騎士が恋仲なのは、周知の事実だったからだ。
エルナには、その騎士がハナに一時的な遊び心で手を出したとは思えなかった。身分差があるとはいえ、二人はとても仲睦まじく、このままならきっと彼女は彼と共に王都で幸せになれるだろうとかねてから思っていた。
だが、二人の気持ちだけではどうにもならないこともある。帰還命令から今日までの時間を考えると、ハナのお相手の騎士は恐らく自分の実家に恋人の存在を知らせたのだろう。そして、その後届いた家族からの返信を読み、彼は別れを決意せざるを得なかったに違いない。
泣いているハナを心配するでもなく、ただ一方的に叱ったエルナに、他の侍女達から刺すような視線が飛んでくる。
「エルナさんは、ハナがこんなに泣いているのに理由も聞かないんですか?」
綺麗な顔立ちをした気の強そうな侍女が、エルナに食ってかかった。
「聞かなくても分かるわよ。どうせ、騎士様に振られたんでしょう?」
冷めた口調でエルナがそう答えた瞬間、愕然とした侍女達から非難の声が飛び、ハナの鳴き声が更に大きくなった。その喧しさに眉間に皺を寄せたエルナは、パンと手を打ち鳴らして黙らせる。
「実家の反対にあって挫けるような男など、やめておきなさい」
「……酷い。彼はそんな人ではありません。私、諦めません。例え彼が何と言おうとも、王都まで追いかけて行って、必ず添い遂げますから!」
泣きじゃくりながらそう言い放ったハナを煽り背を押すように、侍女達が歓声を上げる。そんな彼女たちの横っ面を叩くように、エルナは思いっ切り軽蔑したような表情を浮かべて鼻で笑った。
「実家の圧力に屈して好いた女を諦めるような男に縋ったところで、何がどうなるというの。これまで、私の忠告を無視して恋人を王都まで追いかけて行った子達のように、無情にも拒否され、おめおめとトレヴァスにも帰れず、犯罪に巻き込まれて花街に身を落とすのが関の山よ」
絶望に見開かれたハナの目から、ボロボロと涙が零れる。
「あなたも、本当は分かっているんじゃないの?」
少し口調を和らげてそう言えば、ハナは近くにいた侍女に抱きついてワンワン声を上げて泣き始めた。
自分を責める侍女達の大合唱を背中で聞きながら、エルナはその部屋を後にした。
ハナは今年十八になる。下手をすれば、エルナにも同じ年頃の子がいたとしても不思議ではない。けれど、彼女の親に代わって、というおこがましい気持ちはエルナにはなかった。
ただ、知っておいて欲しかったのだ。手の届かないところにあるものに手を伸ばして、転落していった女性たちがいたということを。
一人一人、哀れな末路を辿った同僚や後輩たちの名前を、エルナは声にならない声で呟く。
嫌われても仕方がない。ただ、エルナは悲しい運命を辿る女性をこれ以上増やしたくなかった。それが、例え自分の事をクソ婆と罵った女であっても。