6.
ひとまず滞りがちだった洗濯物の始末を終えたエルナは、午後から通常業務をこなし、夕食の前に医務室を覗いた。
騎士達は、各地の城塞に派遣されるまでに、少年の頃から騎士として必要な知識を学んでいる。その一つが医療に関するもので、医師までとはいかないが、ある程度の外傷の治療や熱病などへの対処法は身に付けている。
昨日のエルナもそうだったが、今日も若い侍女達が騎士達の手ほどきを受けながら、負傷者達の包帯を替えたり、薬を用意したりしている。
「……あら」
ちょうど、膝下の傷口のガーゼ交換を行っていた若い侍女の手元を覗き込んだエルナは、軟膏を塗った新しいガーゼを貼ろうとしていたその手を押えた。
「ちょっと待って」
「何でしょう」
怪訝な顔をする若い侍女にそのまま待つよう伝えると、エルナは近くにいた治療担当の騎士を呼んだ。こちらも怪訝な顔で近寄ってくるその騎士に、エルナは傷口を指さす。
「膿んでいるな」
「そうですわよね」
会話の不穏さに気付いたのか、横たわっている怪我人が不安げに顔を上げる。
「おい。何人か、道具を持って来てくれ。切開する」
治療担当騎士のその台詞を聞いた途端、怪我人は蒼白になった。
すぐに、体格のいい騎士達が三人、手に手に道具を持って集まってくる。清潔な布に消毒液、殺菌用に使用する火のついた蝋燭、傷口を縫い合わせる針と糸等々、……それから最後に、医療用の小型ナイフ。
彼らの内、一人が右手、一人が左足、一人が傷口のある右足の先を押さえつける。小型ナイフを炎で炙った治療担当騎士が、エルナと共に事態を見守っていた若い侍女に声を掛けた。
「左手を押さえていてくれ」
だが、突然の展開と只ならない空気に動揺した若い侍女は、目を泳がせたまま動こうとしない。
「早く!」
医療担当騎士が口調を荒げた瞬間、エルナは若い侍女を押しのけると、怪我人の左手を抱きかかえるように押さえつけた。
「どうぞ」
エルナがそう促せば、医療担当騎士は僅かに動揺しながらも頷いて医療用ナイフを握り直し、目を見開いた怪我人の顔に恐怖の色が浮かぶ。
押し殺した悲鳴が、医務室にこだました。
傷口から絞り出された膿の臭気が医務室に漂い、いつの間にか侍女達は一人、また一人と医務室から退散していなくなっていた。
全てが終わり、気を失いかけた怪我人の脂汗を拭ってあげてからふとエルナが振り向くと、こちらの様子を見守っていた他の怪我人たちが一斉に目を逸らした。しかも、まるで包帯をしている部分をエルナから隠すように、さり気なく身体の角度を変えている。
私が、怪我人を痛めつけて喜んでいるとでも思っているのかしら。
エルナは目を細めると、一番大袈裟に腕の包帯を隠した騎士へと歩み寄った。
「お怪我の具合はいかがでしょうか」
「ああ、だいぶいい」
「あら。包帯に血が滲んでいるようですわ。取り換えましょう」
「……っ! そ、その必要はない」
「いいえ。もし傷口が膿んでしまったら、先ほどの騎士様のように大変なことになりますもの」
エルナの言葉に、騎士は思いっ切り顔を引きつらせた。
「どうか、ご遠慮なさらず」
エルナがにっこりと笑ってみせれば、その騎士は遠い目をしながら抵抗を止めて手を差し出した。どうやら彼は、今エルナに傷口を改められることよりも、後で傷口が膿んでしまった時の方が恐ろしい目に遭うと判断したらしかった。
その日から、エルナはまた新たな理由で騎士達から益々恐れられるようになったのだった。
その翌日からは天気も回復し、城塞内ではためいていた洗濯物は屋外に移された。
怪我の為に熱を出していた騎士達の顔色も日々良くなっていき、怪我人のほとんどが自力で食堂まで来て食事をとれるようになった。
城塞内が、フルルカへの出撃前の状態へ緩やかに戻っていく。
やがて、本格的に長雨の季節に入ると、エルナはホッと安堵の息を吐いた。
長雨の間は、騎士隊の異動はない。雨の中を大人数が移動するのは色々と不都合があるからだ。この鬱陶しい雨続きの季節が終わるまでは、オルトヴァーンがトレヴァス城塞から王都へ帰ることはない。
「今回の任期は長いですわね」
雨だと屋外での訓練はできない。屋内の訓練場は広さに限りがあるので、若者たちに身体を動かす機会を譲ったオルトヴァーンは事務仕事に精を出している。
そんな彼にお茶を淹れながら、エルナは窓ガラス越しに、雨に白く煙る外の景色を眺めた。
王都に戻れなくて困っている、というオルトヴァーンの反応を予想していたエルナだったが、意外にも彼は苦笑し、エルナが思ってもみないことを口にした。
「俺が、異動願いを出さないものでね」
呆気に取られるエルナに、オルトヴァーンはペンを置くと、背伸びをしながらのんびりとした口調で続けた。
「自分から田舎の城塞に赴任したがる隊長はいない。できるなら王都にいたいと思う者がほとんどだ。だから、王都に戻りたいと言わない俺を、これ幸いと異動させずにいるのさ」
オルトヴァーンの言葉を聞きながら段々と冷静になってきたエルナの中で、ふつふつと怒りにも似た感情が湧いてきた。
「何故です? もう五年ですよ。そんなに長い間地方に赴任したままだなんて、奥様とお嬢様が御可哀想ですわ」
エルナは、誠実で実直な彼ならば、何より家族を大切にしていると思っていた。だから、オルトヴァーンは表には出さないだけで、本当は王都に帰還できないことを残念に思っているだろうと、そう思い込んでいたのだ。
なのに、彼は王都への異動願いを出していないという。歴代のどの隊長も、この城塞に赴任してきた直後から異動願いを出し続けていたというのに。
エルナの脳裏に、オルトヴァーンの美しい妻と愛らしい娘の姿が浮かぶ。彼女達は、彼が王都に帰ってきて共に過ごせる時が来るのを、首を長くして待っているに違いない。自分が彼の妻だったらと思うと、エルナは裏切られたような気がして胸が苦しくなった。
すると、オルトヴァーンは驚愕の一言を放った。
「ああ、まだ言っていなかったかな。妻とは離縁したんだ」
「え……?」
「彼女は娘を連れて、もうとっくの昔に実家に帰った。だから、王都へ帰っても、俺を待つ家族はいない。尤も、こんな俺に付き合わされて五年もここに縛りつけられている隊員には気の毒なことだが」
驚きのあまり、エルナの思考は半ば停止していた。その為、頭の中に浮かんだ疑問をそのまま言葉に出していた。
「何故……、何時……」
「五年前、俺がこの城塞に赴任してきた時には、もうほぼ話はついていた」
ということは、四年前に彼女達がこの城塞を訪れた時には、もう離婚が確定していたということになる。けれど、エルナの目には全くそんな風には見えなかった。父親に懐き、嬉しそうにじゃれついている愛らしい娘と、その姿を愛おしそうに見つめる妻。その光景が、今もエルナの脳裏に焼き付いている。
それなのに、何故――。
「元々、娘は俺に全く似ていなかった。その上、成長するにつれ、俺の友人に似てきたことで、妻の方が耐え切れなくなった」
「え……」
「白を切り通してくれていたら、騙されている振りを続けていられたかも知れないのにな」
オルトヴァーンの手元で、書類がクシャッと音を立てた。
彼が、妻に裏切られていた。あまりに衝撃的な告白の内容に、呆然と立ち尽くすエルナの中で様々な感情が荒れ狂った。
オルトヴァーンへの憐み、彼の妻への怒り、何も知らずに彼を父と慕う娘に対する悲しさ。そして、突如自分の気持ちを押しとどめていた歯止めを取り外されたことで、自分でも恐ろしいほどにエルナの心は揺れる。
そんなエルナの背を押すように、さっきまで寂し気な笑みを浮かべていたオルトヴァーンは、不意に真剣な表情を浮かべた。
「なあ、エルナ。俺が王都へ戻る時は、一緒に来てくれないか?」