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5.

 明け方まで医務室で負傷者の様子を見守ったエルナは、治療に当たっていた騎士達が目を覚ますと、それまでの様子を伝えて自室に戻った。

 山賊討伐からの帰還から一夜明け、通常の業務に加えてまだまだ他にもやることは山積みだ。一晩寝ていないからと、エルナ一人が半休をとってベッドに潜り込む訳にはいかない。

 汚れたお仕着せを脱ぎ、濡れた布で身体を拭うと、洗い替え用のお仕着せに着替える。乱れた髪を再びきっちりと結い上げ、顔を洗って肌の手入れをすれば、いつものエルナの出来上がり、のはずだったのだが。

「……酷い顔」

 徹夜したせいで、エルナはいつにも増して顔色が悪く、目の下には見事な隈ができていた。元々色白で不健康そうに見える肌質だったのだが、年齢を重ねる毎にちょっとした疲れが顔に出るようになってきた。仕方なく、机の引き出しを開けると、化粧道具を取り出して普段は滅多にしない化粧をする。

 顔色の悪さを隠す程度に粉を薄く延ばし、口紅も塗ってから布で表面を押さえてなるべく色味を押さえた。

 滅多に見ない化粧をしたエルナの顔は、自分で見ても奇妙に映った。けれど、それでも疲労の色が濃く浮かんだ素顔よりは随分とましだろう。

 パチンと両手で頬を挟み込むように叩き、襲ってくる眠気を追い払うと、エルナは気合いを入れて立ち上がった。



 怪我人のうち、自分で食事をとることができない重傷者には介助する者が必要だ。昨日から比べると随分落ち着きを取り戻した医務室でのその仕事を、エルナは若い侍女達に託した。取り敢えずの処置が終わり、意識がはっきりしてきた騎士達にとって、手ずから食事を与えてくれるのは、年増の恐ろしい侍女より若くて可愛らしい侍女の方がいいに決まっている。

 その代わり、エルナが向かったのは洗濯場だった。

 案の定、そこはまだ汚れ物で埋め尽くされていた。余りに多くの仕事が押し寄せ、しかも暴風はおさまったものの雨はまだ降っているので、洗い終わった洗濯物を干す場所もない。そんな状況の中で、洗濯係の女性たちは半ばやる気を失っていた。

「とにかく、出来る限り洗ってちょうだい。干す場所は私が何とかするわ」

 エルナはそう彼女達を叱咤すると、洗い終わった洗濯物を入れた籠を抱えて屋内の物干し場に移動した。

 そこは、すでに昨日干した洗濯物でいっぱいだった。触ってみるとまだ湿っていて、まだとても取り込めるような状態ではない。だからといって、天気がよくなるまで洗濯をしないでいられる訳もない。

 籠を抱えたまましばし考え込んだエルナは、ふと顔を上げると物干し場を後にした。



 城塞の渡り廊下に、洗濯物がたなびいている。いや、そこだけではない。エントランスの広間や、訓練場の広場にまでロープが張られ、騎士達のシャツや制服がずらりと干されている。

「何だこれは」

 ちょうど籠の中の洗濯物を干し終えたエルナは、顔を顰める騎士達の方をゆっくりと振り向いた。

「見ての通り、皆様方のお召し物です」

「そんなものは見れば分かる。一体どうしてこんな所にまで……」

「天気が悪いので、屋内に干すしかないのです。物干し場はもういっぱいですし、勿論オルトヴァーン隊長の許可はいただいております」

「しかし、何も訓練場まで……」

「どこでもいいというものではありません。風通しが良い場所でないと、なかなか洗濯物は乾かないのです」

 外からの風が入ってくる渡り廊下やエントランスの広間は勿論、訓練場も天井が高くて空気の流れがある。それに、訓練場の壁沿いにロープを張って干しているので、訓練場自体が全く使用できないという訳ではない。

 それでも、騎士達の不満は晴れないようだった。

「雨が上がるまで待ったらどうだ? これではあまりにみっともないではないか」

「あら。では、皆様は訓練で汗をかいた後、着替えのシャツがなくてもよいとおっしゃるのですか?」

「それは……」

 騎士達が引いたところに、エルナは一気に畳み掛ける。

「何も、雨降りの度にという訳ではありません。今回、フルルカへの出撃で思いがけず汚れた衣服が大量に発生してしまった為の臨時的措置ですわ。雨が上がれば、すぐに屋外に干し直しいたします。もっとも、着替えがなくなっても構わないという方がいらっしゃいましたら、その方の分は後回しにさせていただきますが」

 そういう方がいてくださると助かりますわ、と匂わせながら見回すと、騎士達は何も言えずに黙り込んでいる。

 あら、いやだ。また皆様を言い負かしてしまったわね、とエルナは肩を竦める。

「では、失礼いたします」

 その場の空気を誤魔化す為に、エルナは愛想笑いを浮かべて通り過ぎたが、騎士達からすれば論破された挙句に嗤われたと思えたのか、背後から突き刺すような視線が降り注いで来た。

 これが若い可憐な侍女なら、「ご迷惑でしたか。では、どうすればよいのでしょう」と困ってみせれば、騎士達も「仕方ないな」としょうがなく許してやることができるのだろうが。

 自分が上目遣いで騎士達にお伺いを立てている場面を想像して、エルナは思わず身震いした。尤も、エルナ自身だけではなく、そうされた騎士達も相当なダメージを被ることになる。誰も得をしないことはしないでおくに越したことはない、とエルナは早々に結論づけた。



 洗い終わった洗濯物を干し終えたエルナは、次に物干し場の洗濯物の中から粗方乾いたものを取り込み、次から次へとアイロンをかけた。下着や侍女の衣服は、やはり人目につかない物干し場に干さなければならない為、どうしても場所を空ける必要がある。つまり、熱で湿気を飛ばそうというのだ。

 ただ、衣類から立ち上る湿気を含んだ熱い空気に、エルナはすぐに汗まみれになってしまった。それでも、手際よく一枚一枚湿り気を飛ばすようにアイロンをかけていく。

 それが終わる頃には昼食の時間になっていた。早朝から動き回っていたエルナは、食堂が空くのを待ってようやくいつもの席に腰を下ろす。

 大量に汗を掻いたせいで喉がカラカラに渇いていたエルナは、最初に水を大量に飲んだ。すると、朝から何も食べておらず腹が減っているはずなのに、食欲がわいてこない。

 スープの中の鶏肉をスプーンで突っつきながら、深い溜息を吐いた時だった。

「食欲がないのか?」

 降ってきた声に、思わず上げかけた悲鳴を飲み込んでエルナが顔を上げると、そこにはまだ手を着けていない昼食の乗ったトレーを手にしたオルトヴァーンが立っていた。

「……ええ、実は」

「それは大変だ。食べるくらいしか楽しみがないというのに」

 他の男にそんなことを言って笑われたら、エルナはずっとそのことを覚えていて、後々ささやかな仕返しをネチネチと繰り返してやるところなのだが、不思議とオルトヴァーンに対してはそんな気が微塵も起きない。寧ろ、以前自分が言った冗談をちゃんと覚えていてくれたのだと嬉しくさえなってくるのだから、恋というのは誠に恐ろしいものだ。

「そうですね。困りました」

 苦笑するエルナの向かいの席にオルトヴァーンは腰を下ろした。いつもなら、早い時間に副隊長らと昼食をとるのに、今日は何故か今からエルナの向かいの席でこれから食事を始めるつもりらしい。

 今回の出撃に際して城塞で留守を任されていた副隊長は、現在城塞内の雑事を一手に任されている。だから隊長は独りなのか、とエルナが一人勝手に納得した時、いきなりオルトヴァーンに思ってもみないことを言われてしまった。

「疲れているのだろう。顔色が悪い」

「え……?」

 化粧で誤魔化しているはずなのに、とエルナは自分の顔を指先で撫でた。早朝からの労働のせいで化粧が崩れ、それを知らぬうちに汗と共に拭い、すでにほとんど剥げていることにエルナは気付いていなかった。

「もう若くはないのだから、無理をするな」

 オルトヴァーンにそう言われた瞬間、エルナはまるで鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 自分で年増だと自虐的思考を抱いていても、若い騎士や侍女達からクソ婆と陰口を言われても、エルナはさほど気に留めはしなかった。なのに、オルトヴァーンにまで若くはないと思われているは。エルナは、全く動じていない見た目に反して、立ち直れないほどのダメージを受けていた。

「お互いにな」

「ええ、そうですね」

 自虐的な笑みを浮かべるオルトヴァーンに、そんなことはありません、隊長はまだまだお若いですもの、などとよいしょする余裕も無く、エルナはただ微笑んで相槌を打つことしかできなかった。

 オルトヴァーンと初めて会った時、エルナはまだ十五歳だった。初々しい新人侍女で、まだ世知辛く理不尽な世の中をほとんど知らない、この城塞に雇われてやってくる少女たちと何ら変わりのない娘だった。

 あの時、オルトヴァーンは自分を本当はどう思ってくれていたのか。そして、今彼の目に自分はどう映っているのか。知りたいようで、知るのが怖い。

 そんなどうしようもない気持ちを誤魔化すために、エルナは水で膨れた胃に無理矢理スープを流し込んだ。

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