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4.

 どんよりした空の下、城塞と国境警備に必要な最低限の人数を残して城塞を出たオルトヴァーンは、数日後、同じ人数を率いて雨の中を戻ってきた。全身、泥だらけの濡れ鼠になって。

 残留していた騎士達が、駆け寄って怪我人を運んでいく。怪我がない者達も、雨で身体が冷えきって震えており、屋内に入ったところでその場に座り込んだ。

 エルナは侍女達に、残留組の騎士達と共に彼らの濡れた衣服を脱がして着替えさせ、温かい飲み物を飲ませるよう指示を出すと、自分は医務室に向かった。

 そこは、さながら戦場のようだった。現地で応急処置の為に巻かれた包帯は血と泥で汚れ、痛みと発熱で呻く声が室内に響く。剣や矢での負傷だけではなく、骨折や擦過傷などの外傷も目立った。

 その異様な雰囲気と血の臭気に、エルナは気が遠くなりそうだった。

 エルナがこの城塞に勤め始めて二十年、その間に隣国との衝突はなく、国境付近を荒らす強盗団の討伐などは行われたが、ここまでの怪我人が出たことはない。

 だが、ここで倒れる訳にはいかない。若くて可憐な侍女ならともかく、エルナのような年増の嫌われ者が気を失っても顰蹙を買うだけだ。

 踏みとどまり気合いを入れると、エルナは駆け回っている騎士の一人に声を掛けた。

「お手伝いいたします」

「あ? 今、忙しいんだ。ひっこんでろ!」

 余裕が無いと素が出るのか、容赦ない罵倒が飛んでくる。

 エルナはすっと目を細めると、努めて冷静な声を出した。

「お忙しいからお手伝いしますと言っております。人手はあった方がよいでしょう?」

「なら、こいつを片づけてくれ」

 治療台の足元に固められている汚れた衣服や解いた包帯等を足で示される。

「承知いたしました」

 お仕着せが汚れるのも厭わず、エルナはぐっしょり濡れて重い汚れ物を抱えて洗い場へと駆ける。

 先程から洗濯物が山のように届いて大騒ぎしている洗濯係の悲鳴に似た嘆き声を聞き流して汚れ物を置くと、すぐに医務室へと取って返した。

「他には何をいたしましょう?」



 その後も、負傷者の着替えや食事の介助、包帯の交換等、言われるがままに次から次へとこなしているうちに、気が付けばいつの間にか夜も更けていた。

 エルナがふと顔を上げた時には、医務室も廊下も静かになっていて、負傷者達は寝息をたて、看護についている他の騎士達もそこかしこに座り込み舟を漕いでいる。エルナが脂汗を拭ってあげていた若い騎士も、やっと落ち着いて先程ようやく眠りについたところだった。

 目が回るほどの慌ただしい時間の中で、エルナは様々な情報を耳にしていた。

 シシル城塞から出撃してきた第六騎士隊の人数が、予定の半数に満たなかったこと。山賊が、騎士隊を見て逃げるどころか、逆に山中に罠を張って待ち構えていたこと。例年より早く雨が降り出したこと。それでも、危機的な逆境の中で、オルトヴァーンの指揮の元、一人の犠牲者もなく山賊のアジトを壊滅させ、本格的な雨が降り出す前に帰還することができたこと。

 それでも、これだけの負傷者を出したことを、オルトヴァーンは気に病んでいるに違いない。

 ずっと同じ姿勢でいたエルナは、周囲の者を起こさないようそっと立ち上がる。あたたた、と年寄りみたいな声が出てしまうが、囁く程度の小声にとどめた。

 凝り固まった肩を解すべく首や肩を動かしてゴリゴリいわせた後、足を忍ばせて医務室を出ると、室内に入り切れなかった負傷者達が廊下の壁にもたれて眠っている。毛布を抱えてきて彼らに掛けてあげると、エルナは欠伸をかみ殺してとある場所に足を向けた。



 思っていた通り、隊長の執務室にはまだ明かりが点いていた。

 夜食にと野菜やチーズ等を薄いパンに挟んだものと果実水を乗せたトレーを片手に、控えめにノックをしてみるが中から返事はない。

 小さな声で失礼しますと声を掛けながら入室すると、長椅子からはみ出た長い脚が見えた。乾いた衣服に着替えたのはいいが、濡れて汚れた衣服が長椅子の下に脱ぎ散らしたままだ。

 オルトヴァーンが、トレヴァス城塞に戻ってきた格好のまま騎士達に指示を出していた姿は、エルナも目撃している。遠目から見て、疲れた様子もなく怪我もなさそうだと胸を撫で下ろしたものだった。

 けれど、こうやって入室してきたエルナの気配にも気づかないほど深く寝入っているオルトヴァーンは、皆の前では微塵も見せなかっただけで、本当は酷く疲れていたのだろう。

 無防備な寝顔をつい食い入るように見つめていたエルナは、ふと我に返ると、トレーをソファの前のローテーブルに置き、隣にあるオルトヴァーンの寝室から毛布を取ってきて彼の身体に掛けた。

 強い風と共に吹き付けてきた雨が窓を叩く。あと一日帰還が遅ければ、この嵐に遭遇することになった騎士隊はきっとただでは済まなかっただろう。怪我人を抱えているのに随分と無理に帰還を急いだものだとエルナは不審に思っていたが、オルトヴァーンの判断は正しかったのだと思い知った。

 明かりを消そうと燭台に近づいた時だった。

「……ィリア?」

 その瞬間、そわそわと落ち着きなく浮足立っていたエルナの心が、一気に冷えていった。

 深呼吸を一つしてから振り向くと、オルトヴァーンは片手で顔を覆った。

「すまない。寝ぼけていた」

「いえ。お休みの所、勝手に入室して申し訳ございませんでした」

 エルナはゆっくりとオルトヴァーンに近づくと、しゃがみ込んで床の衣服を拾い上げた。

「明かりが点いておりましたので、てっきりまだ起きていらっしゃるものと思っておりました」

「いや、ほんの少し休むつもりで腰を下ろしたら、いつの間にか眠っていたらしい」

 そう言いながら、起き上がったオルトヴァーンは何度も欠伸をかみ殺している。その顔には疲労の色が濃く、いつもとは違って年齢相応に見えた。

「城塞内も落ち着き、負傷された騎士様方の容体も安定しておりますわ。今日の所は、ベッドでごゆっくりお休みになられてはいかがでしょう」

「そうだな。そうさせてもらおう」

 ゆっくりと立ち上がったオルトヴァーンの目を、エルナはまともに見ることができなかった。

 この城塞にいるはずもないのに、それでも名を呼んでしまうほど愛しい妻。騎士達の噂では、彼の妻と娘は夫が留守の間、実家の伯爵家で過ごしているらしい。

 四年ほど前、オルトヴァーンがこの城塞に赴任してきた翌年に、一度だけその妻と娘が夫を訪ねてやってきたことがある。フィリアという名の妻は三十路を過ぎているとは思えないほど美しく都会的で、その華やかさにエルナは圧倒された。正直、戦わなくて正解だったと密かに胸を撫で下ろしたものだ。五歳の娘は母親に似たのか、さほど彼に似ているところはなかったが、とても愛らしい子で父親をとても慕っていた。

 早く王都へ帰りたいだろうに、オルトヴァーンはそんな素振りなど全く見せない。それがエルナの救いであり、より苦しめる原因の一つでもあった。もっと彼がこの田舎暮らしを嘆き、早く妻や娘の元に帰りたいと口にするような人であれば、エルナもここまで深く彼の事を愛してしまうことはなかっただろう。

 それなのに、いくら寝ぼけていたとはいえ、エルナと妻を間違えるとは。

「……酷い人」

 廊下に出たエルナは、彼の匂いのする衣服を抱えて閉めたドアに背をもたせ掛けると、誰にも聞こえないほど小さくそう呟いた。

 エルナがオルトヴァーンをそう詰る権利など何一つない。それでも、エルナはそう言わずにはいられなかった。


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