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11.

 エルナは、自分がこれまで間違ったことなど何一つしてこなかったとは思ってはいない。寧ろ、己の正義と都合に従って突き進んだ結果、他人の利益を損なうことになったことなどこれまで数えきれないほどある。

 それを、いちいちウジウジ引き摺ってもいられないが、かといって仕方がなかったことだと綺麗サッパリ割り切っている訳でもない。時々ふと思い出しては反省するものの、それでもやっぱり似たようなことを繰り返す自分が嫌になることもある。

 だから、エルナは自分が誰にも恨まれていないとは思っていなかった。ただ、こんな風に報復を受けることになると予想していなかったのは、自分の認識が甘かったのかも知れない、とエルナは下唇を噛んだ。

「あなたたちは、もう下がっていいわよ」

 後ろ手に縛ったエルナを部屋に入るなり突き飛ばして床に這わせた男達は、革袋に入った報酬を受け取って出て行く。

 ドアが閉まると、その女は真っ赤な紅を引いた口角を吊り上げながら近づいてくると、爪先でエルナの顎を持ち上げた。

「……ホント、いつ見ても腹が立つわ、この顔」

 そう言われるなり、ガッ、と衝撃がエルナの左側頭部を襲った。固い踵部分で、上になっていた左側頭部を蹴られたのだ。衝撃で髪留めが外れ、解けた黒髪が苦悶するエルナの顔を覆う。

 その長い黒髪を掴んでエルナの顔を上げさせると、女は開いた胸元から豊満な胸が零れてしまいそうなほど身を屈めてエルナを睨みつけた。

「私はあれから、あんたが城塞を出て街へやってくるのをずっと待っていたんだよ。あんたが私の夢を打ち砕いたあの日から、私はどんなことをしてでもあんたに復讐するって決めていたんだ」

「……何を、馬鹿なことを」

 エルナは心底馬鹿にしたように呟いた後で、頭皮ごと剥がれたかと思うほど強く髪を引っ張られて呻いた。

 彼女はこんな女だっただろうか。それとも、自分のしたことが彼女をこんな風に変えてしまったのだろうか。けれど、だからといって、今彼女がしていることは決して許されることではない。

「目を覚ましなさい、リリーナ。あなた、自分が何をやっているか分かっているの?」

「ハッ、偉そうに。もうあんたは私に命令なんかできないんだよ!」

 引っ張りあげられていた頭を、今度は床に叩き付けられる。次いで、尖った靴先での執拗な蹴りがエルナの身体を襲う。女の力でも、憎しみの籠った容赦ない攻撃は確実にエルナを痛めつけていく。

「そこまでにしておけ、リリーナ」

 不意に男の声がして、エルナは薄らと目を開けた。そして、髪を振り乱し荒い息を吐くリリーナの肩を抱いた男の顔を見た瞬間、気が遠くなりかけた。

「だって、……だってぇっ!」

「落ち着け。止めを刺すにはまだ早い。この女には、俺達が味わった屈辱以上の苦しみを味わって貰わなければならないんだから」

「わかったわ。ごめんなさい、サム」

 叱られた子供の様に甘えてしな垂れかかるリリーナと、子供をあやすように彼女の身体を撫でさするサム。その様子から、二人はすでに同じ目的を持った復讐者以上の関係だということはエルナにも分かる。

 エルナに、淫行を突き止められて城塞から追放された元侍女と、悪質な不正を暴かれて城塞から一切の取引を永久に停止された商人。一体何がどうして二人は出会ったのかなど、エルナには知る由もない。ただ、エルナへの恨みという共通の感情を抱いていた二人は、復讐の対象が街へやってくるのをずっと待っていたというのだ。

 そこまで恨まれるようなことか、悪いのは元々そっちではないか、と怒鳴ってやりたい。だが、エルナの口から出るのは言葉ではなく、苦し気な喘ぎ声だけだった。



 エルナが連れて来られたこの家は、路地裏の更に奥まったところにあった。外観は古びているが、中は改装されていて、一般的な市民が暮らす家といった具合に整えられている。

 その二階の一室に、エルナは閉じ込められていた。

 この部屋に運ばれてくる間、リリーナに随分と痛めつけられたせいで半ば気を失ってぐったりしている風を装ったところ、両手の縄を解いて貰えたのはエルナにとっては幸いだった。

 とはいえ、この辺りはトレヴァスの街の中でも無法地帯といっていい。エルナが窓を開けて騒いだところで、サムやリリーナが黙らせに来る前に誰かが助けに来てくれる可能性は無いに等しい。

 部屋のドアには外から鍵が掛けられていたが、窓には鉄格子のようなものはない。元々、誰かを浚って監禁しようなどという目的の為に用意されたものではなく、恐らくサムとリリーナが二人身を寄せ合っているただの住まいなのだろう。

 窓の下は薄汚れた路地裏で、石ころだらけの路面にはいつの間にか降り始めた雨のせいで泥色の水たまりが広がっている。本降りの雨の中、そこには人の気配など全くない。

 ……逃げるとしたら、ここからしかない。

 リリーナの憎しみを、エルナは充分その身で味わった。だが、比較的冷静でいながら、自分たちが味わった以上の苦痛を与えると言ったサムがどんな手段を用いてくるか、想像するだけで恐怖がエルナを襲う。

 もし、辱めを受けるようなことがあれば、例え生きて戻ることができたとしても、エルナはもうオルトヴァーンの差し出す手を取ることなどできない。それどころか、二度と彼の前に立つことさえできなくなる。

 立ち上がると、眩暈と頭痛が襲い、エルナは耐えるようにしばらく頭を押さえて唸った。それでもフッと気合いを入れて爪先立って手を伸ばし、窓に掛かっているカーテンを手早く外し始めた。



 ベッドの足に結び付けられたシーツと、それに括り付けられた等間隔に結び目のあるカーテンが、開いた窓から外へ垂れ下り、雨に重く濡れながら揺れている。

 部屋に入ってきたサムが、それを発見して大慌てで窓の外に身を乗り出し、それから慌てふためいて部屋を飛び出していく。

 逃げられた、まずい、騎士隊が来る前に、と男女の悲鳴のような声が階下から聞こえてくる。

 壁とベッドの境にほんの僅かに作った隙間に身をねじ込ませた体制のまま、エルナはじっとその声に耳を澄ませていた。

 エルナをこの家に連れてきたのは、金で雇われた人間だった。報酬を受け取って出て行ったということは、あれで彼らの仕事は終わったのだろう。

 サムは、あの悪事が発覚するまで比較的順調に商売をしてきたとはいえ、元々さほど大きな商売をしていた訳ではない。従業員を雇う訳でもなく、自ら城塞に商品を納入していたことからもそれは分かる。だとすれば、この家には彼とリリーナ以外にそれほど多くの人がいるとは思えなかった。

 いや、恐らくは二人きりだろう、とエルナは予測していた。そして、それは恐らく合っている。何故ならエルナは、この家に入ってから例の三人組とサムとリリーナ以外の人間を見掛けなかったからだ。

 サムの迂闊さを詰るリリーナの声、どうせエルナに復讐した後はこの街から逃げるつもりだったのだ、と彼女と自分自身を説得するようなサムの声。

 やがて、開け放たれた二階の窓の下から、水たまりを跳ね上げながら走っていく二人の足音が聞こえ、遠ざかっていった。



 サムとリリーナがこの家から逃げたと確信した後、安堵した拍子に気が遠くなったエルナは、そのまましばらく眠ってしまっていた。こんな所でこんな格好でよく眠っていられたものだ、と自分に呆れながらエルナは身を起こしたが、その瞬間にリリーナに蹴られた箇所が軋むように痛んだ。

 壁とベッドとの隙間から這い出し、改めて自分の身の安全を確認しようとドアから廊下を窺ってみる。時々何かの拍子に頭の傷が強烈な痛みを発し、その度にエルナは動きを止めた。

 窓の外は雨が降りしきっている。日が出ていない為時間の感覚は分からないが、エルナの腹時計によればもうとっくに昼は過ぎているはずだ。

「早く戻らないと……」

 取り敢えず大通りに出て誰かに助けを求めようと、エルナは己のすべきことを頭の中で組み立てる。城塞にも事情を知らせて貰い、決して自分が約束をすっぽかした訳ではないことを早くオルトヴァーンに知って貰わなければ。

 エルナは、壁に手を当てながらゆっくりと階段を降りた。

 ここから先、大通りに出るまではまだ気は抜けない。例え、明確にエルナに対して恨みを抱いていない人間でも、女ならば誰でもいいとか、殺せさえすれば誰でもいいという狂った輩がいないとも限らないのがこの無法地帯なのだ。

 幸い、今は強い雨が降っているため、そういうゴロツキ達も家の中に引っ込んでいるだろう。だが、だからといって油断はできない。

 できれば雨具の類があればよかったのだが、家の中を探してみても見つからなかった。この雨の中を逃げるのに、あの二人が持って行ってしまったのだろう。

 しかたなく、エルナは頭の傷が濡れないように、床に落ちていたリリーナのものらしきショールを被ると、雨の中へと足を踏み出した。



 大通りに出る前に、エルナはその異変に気付いた。

 路地裏の向こう側が騒がしい。水たまりを跳ね上げて走る人の足音、緊張感を孕んだ男達の声、それに混じって馬の嘶きまでが聞こえる。

 まさか、騎士隊が……?

 オルトヴァーンが、エルナを助けに来てくれたというのだろうか。期待に高鳴る胸を押えながら、エルナは痛む身体に鞭打ち、ふらつく足を叱咤しながら歩を進める。

 その行く手に、不意に灰色の影が立ち塞がった。

「ロベルトさ……」


 突然裏通りで男達に取り囲まれ、刃物を突き付けられて連れ去られた。復讐を企むリリーナに痛い目に遭わされ、サムには更に屈辱を与えると脅かされた。策を練って何とか逃れられたものの、この危険な路地裏でいつまたどんな目に遭うか分からないと怯え切っていた。

 だから、エルナは見知った顔を見た瞬間に安堵し、重大なことを忘れてしまっていた。

 一瞬、笑顔を浮かべかけたエルナは、副隊長の暗い目を見た瞬間にそれを思い出し、疑念を確信に変えた。

 だが、その時にはもう遅かった。

 逃げようとする間もなく、あっという間に距離を詰められ、悲鳴を上げる間も無くエルナの腹部に強烈な痛みが走る。

 膝から崩れ落ちながら、エルナは薄れゆく意識の中で、こんなことになるのならオルトヴァーンに、あなたを愛していますと伝えていれば良かったと後悔した。

 そんな機会は、二十年前にも、この五年の間にも幾らでもあったのに。どうせ叶わないままこんな風に終わってしまうのなら、せめて自分が彼を愛していたこと、彼の為を思って自分の気持ちを押し殺したこと、でも一緒についていきたいと心から思っていたこと、それは嘘偽りのない真実だということを知っておいて欲しかった。

 雨の中を、襟首を掴まれて、さっき通り過ぎてきたばかりの路地裏の奥へ引き摺られながら、エルナの意識は闇へと落ちていった。

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