10.
話って、一体何かしら。……まあ、何の話か大体察しはつくけれど。
これまで、ずっと話の続きをする機会もなく、それどころか無視されているような気がして卑屈になっていたエルナだったが、よくよく考えればオルトヴァーンがあの話を曖昧にしたまま王都へ帰って行ってしまうとは思えなかった。
エルナにあんな風に拒絶された後で、それでもやっぱり責任を取りたいと思うのならもう一度エルナに考え直すよう説得してくるだろうし、ああ言われてまで責任を取りたくないと思うのならそれをはっきりエルナに伝えてくるだろう。オルトヴァーンはそういう人だ。
もし、もう一度、やっぱり責任を取りたいと言って貰えたなら。
エルナは両手で、込み上げてくる強い思いで焼けるように痛む胸を押えた。
答えなど、もうとっくに出ているじゃないの。
苦笑しながら頭を一つ横に振ると、エルナは歩き始めた。
翌日、まだ夜も明けきらないうちにエルナは城塞を出た。
外出許可と午前中の欠勤届は、昨夜のうちに隊長室に提出してある。理由は、ポリーナに会う為だった。
いくら縁談の為とはいえ、ポリーナが城塞を出てもう四日目だ。昨夜のうちに帰ってくるなら、と待っていたが、戻って来ないどころか何の連絡も無い。仮に縁談がうまくいって、もう城塞の侍女に戻るつもりはないにしても、連絡ぐらい寄越すべきだ。
「こんなことをする子ではないと思っていたのに」
そう思いつつ、ふと不安になったのは、街で何か不慮の事故にでも遭ったのではないかということだ。
それならそれでエルナは彼女の状態を把握しておかなければならないし、しばらく欠勤するにしても退職するにしても、手続きや見舞い等できることはしてやらねばならない。
薄靄の中、エルナは緩やかな坂道を下って、朝日に照らされた街へ向かう。
エルナが街へ行くのは、しばらくぶりのことだった。祖父の葬儀の時以来だから、もう一年近くになるのだろうか。独りになった祖母が叔父の家に引き取られた為、エルナは実家がなくなってしまったような気持ちになり、それ以来街からすっかり足が遠くなっていた。
早くに亡くなった両親の代わりにずっと自分のことを案じてくれた祖父母に対して、申し訳ないという気持ちもある。本当は、早く結婚して安心させてあげたかった。けれど、とうとう祖父はエルナのことを最期まで心配しながら亡くなってしまった。
ポリーナの両親は健在で、実家に戻る度に縁談を持ち出されて辟易しているのだと彼女が話しているのを聞いた事がある。気の強さが少々見た目にも出てしまっているが、ポリーナはどちらかといえば器量良しな方だ。何故これまで結婚しなかったのかとエルナは不思議に思っていたが、エルナが人に話したくない事情があったように、ポリーナにも彼女なりの理由があるのかも知れない。
「え……?」
採用時の情報を元に、人に訊ねながら辿り着いたポリーナの実家で、エルナは言葉を失った。
「ですから、ポリーナは帰ってきていません。……あの、あの子に何かあったのでしょうか」
逆にポリーナの両親に取り乱されて、エルナは困惑しながらも努めて冷静を装う。
「私にも分かりません。ただ、四日ほど前に実家に帰ったという報告を受けております。ただ、いつ戻るという報告も無いもので、もしや連絡も出来ない事態に陥っているのではと心配になって訪ねて来たのですが」
「そうだったのですか。ですが、本当に娘は帰ってきていないのです。一体どこに行ってしまったのでしょう。大切な務めを放り出したりして」
口では叱るようなことを言いながら、ポリーナの両親の顔は心配のあまり青褪めてしまっている。
ふとエルナの脳裏に、駆け落ちかも知れないという可能性が思い浮かんだ。今のところ、城塞から姿を消した騎士や使用人達はいないので、そうだとすれば恐らく相手は城塞内部の人間ではない。
「込み入ったことをお聞きして申し訳ありませんが、ひょっとしてポリーナさんは縁談が纏まっていたのではありませんか?」
エルナがそう訊ねると、ポリーナの父は首を横に振った。
「あの子は昔から、私達の持ってくる縁談など全く興味を示しませんでしたよ。あの年で独りだなんて、こんなことになるのなら侍女になるなど許さなければよかったと……、あ、いや、失礼」
言葉を濁すポリーナの父に、エルナは首を横に振る。
「親御さんなら、そう思って当然ですわ。私も家族に心配ばかりかけて申し訳ないと思っていますもの」
「……そう言えば」
その時、ポリーナの母が何か思い出したように声を上げた。
「あの子に、何故縁談を受けないか問いただしたことがあったのです。他に誰か好きな人でもいるのかと訊いたら、あの子、肯定もしなかったけれど、はっきりいないとも言わなくて。もしかしたら、私達にも言えないような事情を抱えていたんじゃないかしら」
震えるポリーナの母の声を聞きながら、エルナはふと一つの可能性に思い至って下唇を噛んだ。
「お二人とも、今日は急にお訪ねしてしまい、申し訳ございませんでした。私はこれから城塞に戻り、もう一度侍女達から詳しく話を聞いてお嬢さんの行方を捜してみます」
「お願いします。こちらも、娘と特別親しかった者はいなかったか、心当たりを調べてみます」
そう言いながらも、ポリーナの両親は二人とも諦め顔だ。彼女が姿を消してから丸三日以上経っている。駆け落ちで隣国へ逃げたのなら、もうとっくに国境を越えているはずだ。
けれど、そうではないのなら。
エルナは自分の憶測を一切口に出さず、ポリーナの両親に頭を下げて元来た道を急ぎ足で戻り始めた。
朝市でごった返す大通りを避け、エルナは一つ裏の道を歩いていた。
大通りの賑やかさとは打って変わって、こちらに人通りはほとんどない。本来なら、女性が裏通りを歩くのは危険なのだが、急いでいる今は背に腹は変えられない。それに、エルナと同じ考えなのか、裏通りを行く人は皆無ではないので、人の目のあるこんな朝っぱらから危険な目になど遭わないだろう。
だが、エルナはすぐにそんな自分の甘い判断を後悔することになった。
目の前に、体格のいい男が二人、立ちはだかる。明らかに、堅気の人間とは思えない風体の男達は、顎に手を当てながら下卑た笑いを浮かべていた。
慌てて後ろを見れば、そこにも男が一人立っていた。明らかにエルナに狙いを定め、鋭い眼光を向けている。
「あんた、エルナだな」
そう言われて、エルナはぎょっとした。ただ単に金目のものを奪う目的ではなく、この男達は誰でもなくエルナを狙っているのだ。
「人違いですわ」
「嘘はいけねぇな。あんたがエルナだってことは分かっている」
じゃあ、本人確認などしなくてもいいじゃないの、とエルナは心の中で毒づいた。
「ある人に、あんたを連れてこいと言われている。大人しく来てもらおうか」
助けを求めようと視線を彷徨わせても、ちらほら見える人々はこちらを見ようともせずに急ぎ足で通り過ぎていく。厄介事に首を突っ込んで痛い目に遭いたくないという彼らの本心が透けて見えるようだ。
きっとエルナが彼らと同じ立場であっても、同じように自分の身を守ろうとしただろう。だから彼らの気持ちは分かるが、それでも助けてくれそうにもない彼らに恨みがましい視線を送ってしまう。
「おら。痛い目に遭いたくなかったら、さっさと動け」
容赦なく掴まれた腕が痛みを発する。抵抗しようと身を捩った時、別の男の手にナイフが光るのを見て、エルナは息を飲んだ。
「命が惜しけりゃ、大人しくするんだな」
下手にここで抗って殺されたら、もう二度とオルトヴァーンに会えなくなってしまう。エルナは顔を歪めながら、仕方なく男達に促されるまま更に細い路地裏へ向かった。
一体誰が何の目的で自分をどこへ連れて行こうとしているのか。もしかしたら、これはポリーナが姿を消したことと何か関わりがあるのだろうか。
ポリーナの家を訪ね、彼女と会って話したら、エルナはすぐに城塞へ戻るつもりでいた。お昼休みまでには充分間に合う時間に戻れていたはずだ。早めに昼食を食べ終えて、一度自室へ戻って身形を整えて、それから人目を避けながら隊長室へ向かおうと思っていたのに。
エルナが隊長室に現れないことで、オルトヴァーンはすぐにエルナの身に起きた異変を察してくれるだろうか。それとも、ただすっぽかされたと思い込み、もうエルナのことなどどうでもいいと腹を立ててしまうだろうか。
これからどんな目に遭うかという恐怖より、オルトヴァーンに嫌われてしまうことがエルナには恐ろしくて悲しくて仕方がなかった。
 




