1.
「……いけません。こんなところで」
「誰も来ないよ。大丈夫」
夜半。裏庭にひっそりと建つ倉庫の陰に、外壁に背をもたせかけているお仕着せを着た侍女と、その侍女に迫る制服の上着を着崩した若い騎士の姿があった。
侍女の逃げ道を塞ぐように壁に手を着いて迫ってくる騎士に、嫌がるような素振りは見せてもまんざらではないのは、侍女の甘えたような声色ですぐ分かる。その声に煽られるように、騎士が侍女に覆いかぶさるように唇を寄せた、その時だった。
「……ハーッ、クショーン!」
女性のものにしては、やけに大きすぎるクシャミが裏庭に響き渡った。
ビクッと肩を震わせて飛び退る騎士と、蒼白になって胸の前で手を合わせる侍女。
二人の前には、黒髪をひっつめ厳しい表情を浮かべた中年の侍女が立っている。
「あら、失礼。お邪魔をするつもりではなかったのですよ?」
白々しいその言い分に、ならばとっとと立ち去ってくれ、自分たちは続きを……、などという気持ちなど若い二人には全く湧いてこない。何故なら、この場は良くても、すぐに所属する騎士隊の隊長までこの話が伝わり、処分されるのは明白だったからだ。
「エルナさん、どうか見逃してください! 私達、何でもないのです。何もなかったのです」
呆然とする騎士に代わって釈明を始めたのは、侍女の方だった。
エルナと呼ばれた中年の侍女は、それを聞いてすっと目を細める。
「リリーナ。あなたは何でもない殿方と、このような時刻に、こんな人気のない場所で、二人きりで何をしていたというのですか?」
「それは……」
「そのような貞操観念のない者がいれば、騎士隊の風紀に関わります」
ヒッ、と喉の奥で悲鳴を上げた若い侍女は、その場に崩れ落ちる。
目の端でそれを捉えていながら、助け起こそうともせずに立ち尽くしているところを見ると、若い騎士は彼女を愛している訳ではなく、ただの欲望と興味本位だったことは明らかだった。
「デリクス様、でしたわね?」
エルナは、自分より十ほども若い騎士を正面から睨み上げた。
「このこと、オルトヴァーン隊長に報告いたします。よろしいですね?」
否と言う選択肢などないことは、まだ若い彼も身に沁みて感じている。
「では、二人とも、速やかに自分の部屋へ。温かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷えますよ」
そう言うと、エルナは女性にあるまじき音量のくしゃみを連発したのだった。
「……全く、最近の若い子は」
カップから口を離した瞬間、溜息と共につい言葉がポロリと転げ出た。すると、背後から笑い声が降ってくる。
「そんなことを言うとは、エルナも年をとったな」
「オルトヴァーン隊長」
私としたことが、と口元を押えながら居住まいを正すエルナの正面の席に、オルトヴァーンは腰を下ろした。
ここは、ガレリオン王国騎士団第五騎士隊が駐留するトレヴァス城塞内にある食堂。
トレヴァス城塞は主に西側諸国に対する備えの為に、同名の街の隣に設けられた防衛拠点で、騎士は王都から派遣されているが、その身の回りの世話をする侍女を含め使用人達は大半が現地採用だ。
オルトヴァーンがこの第五騎士隊を率いてトレヴァスにやってきたのは五年前。そして、彼は平騎士時代にも一度ここへ派遣されたことがある。エルナとは、その時からの旧知の仲だった。
「そういえば、幾つになった?」
四十に手が届こうかという歳でありながら、オルトヴァーンには老いという陰は全く見られない。寧ろ、歳を重ねる毎に男っぷりにますます磨きがかかっている。
「まあ、淑女にそれを訊ねますの?」
茶目っ気交じりにそう答えるはずが、いささか突き放すような冷たい口調になってしまい、エルナは内心冷や汗をかく。
昼休みは残りあとわずかで、食堂には人影は疎らだ。それでも、若い騎士や料理人達の目はある。隊長を前に舞い上がった態度を取れば、年増が馬鹿みたいに浮かれて気色悪いと揶揄されることは分かり切っている。そんな警戒心から、つい身構えた口調になってしまったのだ。
「いや、それはすまなかった。だが、二十年前にもここにいたということは……」
そう言い掛けて、エルナの突き刺すような視線に、オルトヴァーンは揶揄うような笑みを浮かべる。
「はは、そう怒るな。昨夜はご苦労だった」
「いえ。侍女の監督不行き届きは私の責任です。あの子の解雇の理由につきましては、ご配慮いただきましてありがとうございます」
エルナが頭を下げると、オルトヴァーンは苦笑した。
「しかし、伏せたところで、こんな田舎ではすぐに噂は広まるだろうな」
トレヴァスは、国境に近い小さな田舎の街だ。そこで生まれ育った娘にとって、王都から派遣されてくる騎士は玉の輿に乗る為の貴重な存在である。彼らとお近づきになる為には、城塞の使用人、とりわけ侍女になることが重要になる。
リリーナも、そういう野望を胸に侍女になった娘の一人だった。ただ、彼女は己の見た目に自信があり過ぎたのか、結婚相手になってくれる可能性の高い平民出身の騎士には目もくれず、貴族出身の騎士に手当たり次第に媚びを売っていた。三日ほど前からは、ややこしい外出許可を取って娼館へ行かなくても、相手をしてくれる侍女がいるという噂がエルナの耳にも入っていた。
「それは、あの子の自業自得です。それに、責任を取って妻に迎えると申し出る者が現れなかったということは、あの子もそれだけの存在だったということです」
その言葉に、オルトヴァーンが傷付いたような表情を浮かべた。
「エルナ。俺は……」
「さあ、オルトヴァーン隊長。お昼休みも終わりましたわ。午後からの鍛錬で、弛んだ若者達をビシッと引き締めてくださいませ」
オルトヴァーンの言葉を遮るようにそう焚き付けると、エルナは食器の乗ったトレーを手に席を立った。