第一話 越前守護・朝倉義景
元亀元年四月弐拾日、三万を超える軍勢が近江和邇に着陣した。
陣中には柴田勝家、明智光秀、木下秀吉ら信長配下の勇将・知将が名を連ねる
標的は越前守護・朝倉氏である。
朝倉氏は元々但馬国の豪族であった。
南北朝内乱のとき足利尊氏に味方し、越前に知行を得た。
越前守護代として守護の斯波氏に従っていたが、応仁・文明の乱のときに七代目・孝景が守護の斯波氏を追放、国主の座を奪った。
朝倉氏は戦国大名として成長し、城下の一乗谷は繁栄していった。
現在の国主は朝倉義景。
孝景から数えて五代目、朝倉氏統治の百年で一乗谷は小京都と呼ばれるほど発展していた。
多くの文化人や公家が戦乱から逃れこの地に滞在していた。
その中に足利義昭と呼ばれる男もいた。
この男は前将軍・足利義輝の弟である。
義輝は三好氏によって殺害されており、義昭としては次の将軍は自分だという思いが強い。
幽閉先から脱出、各地の大名に御内書を送り、上洛を促している。
しかし、義昭を保護している朝倉義景は上洛の意志を示していない、…というよりは動ける状態ではなかった。
国内と加賀の一向一揆に悩まされ、畿内兵を出す余裕が無かったのだ。
そもそも義景に天下をとろうとか、義昭を奉じて上洛しようとかいう考えは無い。
自分の国、越前を守る為の戦しかしていない。
この頃の殆どの大名は自らの領国を守ることを第一に考えていた。
義景もそのうちの一人だということだ。
永禄壱拾壱年六月、織田信長は越前に滞在する足利義昭に使者を送った。
上洛の準備が整ったことの報告と、岐阜への移動を願い出る為である。
このとき、義昭と信長の間を取り持ったのが当時朝倉氏に仕えていた明智光秀だと言われているが定かではない。
義昭の決断は早かった、七月壱拾参日には義景の同意を得て一乗谷を発った。
信長が義昭を奉じて上洛するまでの経緯は様々な書籍にもあるのでここでは割愛する。
話は元亀元年に戻る。
信長は越前遠征にあたって勅命と上意を得ている。
朝廷と幕府から二重に大義名分を得、この私闘を公の戦としたのである。
しかし、そのどちらも朝倉氏攻略を目的にしたものではなかった。
出陣の目的は若狭の国人武藤友益を屈服させる為であり、そのことは書状としても残っているが、信長にとって事実は関係なかった。
武藤氏の背後に朝倉氏があると難癖をつけ、強引に朝倉氏攻略を正当化したのである。
そして四月弐拾日、近江和邇に着陣。
弐拾弐日には若狭熊川、弐拾参日には同佐柿へ移った。
この時点では畿内の人々は信長の目標は若狭だと思っていた。
盟友の浅井氏ですらそうであった。
【一乗谷館】
義景の前に配下の将が居並んでいる。
「景鏡、尾張のうつけが若狭に出陣した。そちはどう思う。」
声をかけられた男は朝倉景鏡、大野郡司で土橋城主、義景からみて従兄弟にあたり、同名衆の筆頭である。
一族の重鎮であり、朝倉軍の戦ではしばしば総大将を務めた。
その発言力は大きい。
「無視すればよいでしょう。越前に害はありますまい。」
「あいや待たれよ。」
そう発言したのは前波景当、前波家は直臣のなかで筆頭の家柄である。
「信長の目標はこの越前です。若狭が織田領になれば敦賀が窮地にたたされまする。」
「敦賀は簡単には落ちませぬ、北近江には浅井がおります。」
口を挟んだのは魚住景固といい、義景の奉行人である。
目を患っているが堀江景忠の反乱で大将格として出陣するなど戦でも活躍している。
「義景殿、心配はいりませぬ。万が一信長が越前に攻めこんだならば拙者が討ち果たしてみせましょう。」
そう言ったのは朝倉景健、朝倉氏七代目孝景の兄弟・経景の子孫であり、安居城主、同名衆では大野郡司、敦賀郡司に次ぐ家柄であり、戦では義景の代理として出陣する事が多い。
発言力も景鏡に次いで大きい。
ここまで重臣に出陣は必要ないと言われて出陣を強要できる力は義景にはない。
多くの大名は同じだろう。
例外なのは織田信長、これから朝倉氏の前に立ちはだかる相手である。
結局朝倉軍は積極的に動くことはなかった。