ep03.恋とチョコレート!!
夏休み明けの始業式。
長い休みで鈍りきった体を動かすのも億劫。生活のリズムが崩れている中、久々の早起きは堪える。そんな、ただでさえ、陰鬱となる日だった。
高校の通学路。
その遥か頭上に君臨する太陽は、惜しげもなくその実力を発揮していた。昨日までは雲にその身を隠すほどシャイだったというのに、気分屋のようにこの日は下々の人間たちを光で照らし、空気中の水分を蒸散させる。
途方もなく暑い。
秋の予兆なのか、微風が髪を撫でる。……が、生ぬるい。これならば、風がない方がまだマシだと思える、天候の余計な気遣いだ。
コンビニの室温調整されていた涼しい空間。
数秒前まで味わっていた人工的な風が、今や名残惜しい。
あの最高な楽園から抜け出した二人。
その片割れであるライカは、パキッと持っていたチョコを割る。そして、割れた片方のチョコを差し出してくる。
「この板チョコ、半分こにして食べません? 一枚丸々なんて一人じゃ一気に食べきれないので、先輩をこうして登下校に誘ったんですけど」
「だったら、後で食べれば良かったんじゃないのか?」
「今日がここまで暑くなかったら、それもアリだと思ったんですけどねー。チョコだと、お昼休みが来る前に溶けそうだったんで。どうせなら今のうちに食べておきたいじゃないですか。溶けちゃったチョコって食べる気失せません?」
「……もうそれは、買わない方が良かったんじゃないのか?」
「それが違うんですよ。これ、お金出して買ったんじゃないんですよ。……なんとですね! なにやらあのコンビニ、キャンペーン中だったみたいで、500円買うごとに、空くじなしのクジを引けたんです。タダでもらえるってことで試しにやってみたら、これが当たったんですよ」
「へえ、そんなキャンペーンやってたんだ。あのコンビニ」
コンビニで500円以上購入することなんて、俺には滅多にない。
そんなキャンペーンがあることすら知らなかった。
「だから、棚からぼた餅な、このラッキーをお裾分けします。このハッピーを先輩と共有できたら、きっとこの『嬉しい』が2倍になりますよね」
なんとも大仰な言い方だ。
こっちもそれなりの返しを要求されているような気がする。
「そうだな。そんな甘っちょろいことも、たまにはいいよな。……板チョコだけに」
「え゛っ゛? それ……ドヤ顔で……言うことじゃ……ない……と……思うんですけど」
切れ切れな声。
しかも、こちらが傷つかないような配慮が透けて見える。
……そういうのが逆に、一番傷つく反応だ。
「悪かったよッ! 俺も言っている間に、これマズイなって思ったよッ! でも、途中で堰止められなかったんだよ。絶対俺もウマくないって思ったよッ!」
「マ、『マズイ』? う、『ウマい』? ま、まさか。その後に続くのはまたもや恐怖の……『板チョコだ――』」
「だああああ。しつこいなッ!!」
「あはは、ジョーダンですよ! 本気にしないでください」
……なんだかなー、ライカは。
俺のことをからかって楽しむ節がある。でもまあ、そこまで悪い気もしないが。
「というか、前から密かに気になってたんだけどさ」
「私のスリーサイズですか?」
「それは違う」
即答。
スパッ、と日本刀のような切れ味で断ち切る。
「なーんだ。ようやく、先輩が私の魅力に気がついてくれたのかと思ったんですけどね」
「あのなあ、そんなの、とっくの昔から……」
言葉をなんとか途中で呑み込むことには成功したした。
だが、それも手遅れで、おおっと、も、もしかして、もしかしてぇえ? そ、その続きの言葉は何ですか、と期待に満ち満ちた声を出す。
そんなウザイぐらいのライカは身を乗り出すようにして、
「と、とっくの昔から?」
「まあ、それはどうでもいいとして」
「どうでもいいんですか!?」
うわあん、と結構マジなノリでライカは悲しみの声を上げる。
言いたくとも、こんなタイミングで、こんな道の往来で口にするのは憚られる。
こんな重くて大切な言葉は、ふとした拍子にさらっと口から滑ってしまった。しかも、二人きりの時に。……みたいなシチュエーションじゃきゃ、言ってはいけないんじゃないんだろうか。なんとなくそう思ってしまう。
しゅんとしているライカが手に持っているビニール袋から、コンビニ弁当がチラリと顔を出す。
「どうして、ライカの昼飯いっつもコンビニ弁当なんだよ。親とかが朝に作ってくれないのか?」
「アッハハ。うちの親がそんな殊勝な、親っぽいことするはずがないですよ。……そういえば、先輩の家は、お弁当誰が作ってるんですか?」
はぐらかされた。
そのふと気がついた発見を、一々口に出すほど自慢家じゃない。それに、わかっていても、踏み込んじゃいけない地雷原というものが誰にだってある。
それに、まだまだ、あどけない切り返し方。
相手が年下だから、そう思ってしまうのか。幼さが見えながらも――だが――それは大人の対応にも思えた。
触れて欲しくなそうだったから、こちらもライカに調子を合わせる。
「姉ちゃんだよ。俺の家には親がいないからな」
「ご、ごめんなさい。その、私聞いちゃいけないことを……」
「ちゃんと! 生きてるよ! なに勝手にひとの家の家庭状況ドロドロにしてんだよ!?」
「……でも、そうですか。料理が得意なお姉さんですか。厄介な小姑になりそうですね」
「……何の話だよ」
「そのままの意味ですよ。……私は、先輩みたいにややこしく考えたり、言ったりするの苦手なんですよ。勝手に自分でハードル上げて、それで飛び越えられなくて悔やんでしまう。そういうとこ、ありませんか? 先輩ってば」
「……さあ……な。自分の話し方とか考え方は、そこまで深く考えたことないから……。そんなこといきなり訊かれても、よく、分からないってのが本音だよ」
そう言いながらも、なんとなくライカの言う通りなのかも知れないとも思った。
物事を小難しく考え過ぎてるとか、もっと頭を真っ白にした方がいいとか、他人にはよく指摘されたり、アドバイスされたりする。
自分ではそんな性格だという自覚はない。
だけど、多数決の原理? と言えばいいのだろうか。なんか微妙に違う気がするが。……とにかく友達からそう評価されると、そうなのかなあと頭に刷り込まれてしまう。
俺は残念ながら、頭の回転が早い方じゃない。……って、こんなこと、自分で言いながら悲しくなってきたが……。
なんだかグダグダになってきたが、ともかく馬鹿な俺は、自分なりの解答とやらを打ち出すのが遅い。結論を出せないことがあれば、先送りにする。
その性格がたたってか、こういう時に、気の利いた返しが思いつかない。家に帰ってから会話を反芻してから、ようやく自身の言葉を限定できる。
――だから、今の俺の精一杯の答えはこんなものだ。
んー、でもまあ、こんなところまで考えたりするのって、もしかして俺ぐらいなもんか。
あー、やめよ、やめよ。
確かに、これは考えすぎな奴だと揶揄されても仕方ない。
きっと、みんなそこまで考えて生きてはいない。
いつだって、その場しのぎだ。
だったら、俺もみんなみたいな生き方を選びたい。それがいいことなのかどうかなんて、ぶっちゃけどうだっていい。
これは、仲間外れになるのが俺には到底無理なだけって話。
「――先輩、憑いてますよ」
黙っていたら、ライカの声が思考を八つ裂きにした。
マズッ、話聴いてなかった。
「え? 何が? 幽霊が?」
ブッ、とライカが小さく噴き出す。
「――っ違いますよ、チョコです、チョコ。口の横についちゃってます。」
「え、ほんとに?」
は、恥ずかしいな。
よりにもよって後輩のライカに醜態を晒すなんて。
「あー、そこじゃなくて、もっと横です。右、です。……じゃなくて、先輩から見て右じゃなくて、逆です、逆。あー、もう……」
悪戦苦闘している俺を見かねたライカ。
ポケットから取り出したハンカチを押し付けてきた。
うわっ、いいよ、そんなの、と俺は飛び退く。が、それでも強引にライカの手は追いかけてきて、グイッと口元を拭われる。
今の俺は、まるで手のかかる子どもだ。
羞恥による熱が、頬に帯びる。
「そのハンカチ、洗濯するよ」
俺は、渡してくれるように、ジェスチャーをする。
「いいですよ、そんなの」
「よくないって。俺がちゃんと洗濯して、それから明日にはちゃんと持って行くから」
「そう……ですか? でも、持ってこなくてもいいですよ。というか、そのハンカチ取りに行ってもいいですか」
手渡しすると、ライカはそんな提案をしてくる。
つまりは、家を訪問したいという申し出ということだろうな、これは。断る理由も見つけることができないので、
「まあ、別にいいけどな……」
「やった! 言いましたからね! 久しぶりに先輩の家に行けますっ! それじゃあ、週末ぐらいに伺いますからね」
「分かったよ」
うーん。本当は嫌だったんだけど、そうも言えない。
特別、断る理由という理由も見つからないが、パーソナルな領域に、他人が土足で踏み込んでくるというのが苦手というだけだ。
それが親しい人間だろうが、そうでなかろうが関係ないことだ。
「あっ、小梶部長だー!!」
ライカが唐突に声を上げる。
指差した先には、野球部のエースがいた。俺と同級生というのに、俺とは全く違って、流石に風格が漂ってくる。
制服の上からでも隆起する筋肉のおかげで、他の生徒よりも一回り大きく見える。
そして、あちらも二人組で徒歩。
こちらと違って、男二人という普通な登校風景なのが羨ましい。こちらといえば、ライカの通る声のおかげで、グサグサと衆人の視線がこの身を貫通している。
「すいません、先輩。ちょっとご挨拶に行ってきますね。また、先輩の家で会いましょう。……それと、少しぐらいなら嫉妬してもいいですよ」
「しないから、さっさと行ってこい」
「はーい」
何やら妙に嬉しそうな顔をすると、そのまま小走りになって、小梶の元へ。そして、おはようございます、小梶先輩と、マネージャーの鑑のような挨拶をする。
それに小梶とやらも答える。
あまり笑顔というものを作るのが得意ではないのか、ちょっと不器用な形の笑い方で。
「おはよう、胡――」
「なになに、小梶くん、小梶くん。もしかして朝から後輩と……」
横から小梶とは違ったもう一人の男が割り込んでくる。噂話やこういった類のものが大好物のようだった。あまりいい趣味とは言えない。
迷惑がっているのを隠そうともしない小梶は、引っ付いていくる男を押しのけるようにして、怒号を飛ばす。
「そんなわけねぇだろ、馬鹿か。ただのマネージャーだよ、マネージャー」
「えー。俺は特に何も言ってないんだけどなー。ほっほ――う? 小梶はいったいどんな妄想を膨らませていたのか気になりますな」
「おい、胡桃。こんな馬鹿は放っておいて、さっさと行くぞ」
「はい! 分かりました!」
「ええ!? その対応、ひどくないかな? というか、何で俺と絡みが一度もない胡桃さんとやらも、小梶と息ピッタリで俺を責めてくるの? なんで、そこだけ息ピッタリ? そして、このまま、ドSコンビ結成したりするのかな? …………って、ナチュラルに無視しないでくれる!?」
軽く涙目になりながら、追いすがる小梶の傍にいた男子。若干垂れている目元が優しいというよりは、頼りなさそうな人間という印象を与える。
羊の体毛みたいに、跳ねている髪の毛には見覚えがある。
この高校では、かなりの有名人だった。
……いや、正確にはあの男が有名というわけではなく、彼が忠誠を誓っている女が問題児として学校内に噂が轟いていた。
その名も、綾城彩華。
入学以来、ありとあらゆる逸話を残しまくっているアンタッチャブルな女だ。
完全なる肉食系。
喰らいついた獲物は決してはなさない、餓狼のような女。屍の山を背景にして高笑いする心象風景が浮かぶ。
一年前に起こった『バイクで校門突撃事件』はあまりにも有名だ。あの事件を皮切りに、さらに凶暴性を増したらしい。俺は関わり合いになるのを恐れて、綾城彩華は近づいたことすらないが……。
それにしても、ライカは相変わらず交友関係が広い。初めて絡んだと思えるあの男とも、仲良く話ができている。それが、なんだか面白くない。自分には到底あんな真似ができないからだろうか。
一人きりになってしまった俺は、チャイムが鳴る前に、なんとか校門を通り抜けた。