ep20.優先すべき想い!!
頭蓋を迸ったのは、過去の汚点。
記憶の中の俺は、どうしようもないほどに意気地なしだった。あれからだ。分相応に生きることを誓ったのは。そうすることが、正しいものだと思い込んでいた。人にはできることと、できないことがあると割り切っていた。
だけど、断ち切れない想いはあった。
どうにもできないことが、壁として立ち塞がっていたわけじゃない。ただ俺は何もしてこなっただけだ。立ち止まっているだけで、前を向くことを躊躇っていただけだ。
眼前の霧夜の足は速くて、とても追いつけそうにない。
水泳部は一日に何キロも泳ぐから、体力には自身があるだろう。ジリ貧で、きっと俺はこのまま自滅してしまう。あいつが速いのは水中だけじゃない。泳げない時期には他の部活動生と合同でマラソンもするから、やっぱり陸上も速い。
しかも水泳部の中でも霧夜は、トップクラスに陸上での徒競走は早かったはずだ。それを、俺ごときが競争することすら、おこがましいことだ。雲泥の差なのは、きっと持って生まれた運動センスだけじゃない。
積み重ねだ。
目先の苦難から背を向けずに、自分自身の限界がどこまでなのかと問い続けてきた人間。今まで目を瞑らずに自身と向き合って、積み重ねてきたものがあるからこそ、ここまで圧倒的な格差が生まれる。頑張ってきたものと、そうでないものと。
火を見るよりも明らかな経験の差に愕然とする。胸の内に残っている矮小なプライドとか大事なものがへし折れて、全ては無に帰す。絶望感に染まっていく。
俺という人間はやっぱり空虚だった。そんな程度の格だけど、まだ残っているものがある。
意地だ。
ずっと傍観者のまま、輝いている奴らを見てきたそんな俺だから、まだ走れる。どうしようもない人間だからこそ、自分を変えたいという想いは他の誰より強いはずだった。運動能力や経験値や体力的には劣っていても、心では負けたくない。負けたくないんだ。
「ク・ズ・を・な・め・ん・な~~~~~!!」
喉が枯れんばかりに、咆哮する。
ごっそりと脇腹が野犬に噛まれて空洞になっているかのように、めちゃくちゃな激痛が走る。べっとりと全身から噴き出し流れる汗を拭うほどの余裕はない。肩を振り回しすぎて、関節部分にはガタがきている。脚なんかは普段運動していないばっかりに、明日筋肉痛の餌食とばかりにギシギシ鳴っている気がする。
だけど、楽しい。
それはきっとただのランナーズハイに過ぎない。茶々な青春もどきに興じるためには、まだまだ頑張りが不足している。まだ到達していない。この手は光に届いてすらない。実りのない徒労で満足したくない。俺の得たいものは、きっとその先にある。
「待――て!」
やっと、掴まえた。
胃の中が灼熱の溶岩が、沸々と暴れ狂うかのようだった。痙攣するように震える膝に手を当てて、卒倒するのをなんとか未然に防ぐ。吐瀉物の気配を喉に感じながらも、ハー、ハーと荒ぶる息を抑えると、ようやく発汗だらけの顔を上げる。
肩を軸に振り向かせると、
「言い訳……させてくれ。誤解だ……。俺も……多分お前の立場だったら……信じられないと思うけっ――」
ゴホッ、ゴホッと咳き込む。無茶をしたツケが、ここに来て肉体に跳ね返ってくる。そして疑問に思う。霧夜は、自身の身体能力を存分に発揮したのかということを。
本来ならもっと突き放しているはずだ。
そもそもそれだけ霧夜との運動能力には差があり、遠く及ばなかった。女子相手にそこまで差がつくのは屈辱の極みではあるが、それは今は別問題。
もしかしたら、待っていてくれたのかも知れない。そう楽観視できるぐらい、頭の中は混乱していて冷静さを欠いていた。
「何が……誤解なのよ。そっちがどうなろうとどうでもいいわよ。……構わないでよ」
「だから、磯風とは何でもなくて。……って、なんでこんな変な言い訳してんの俺? ……そもそも、こんなことで誤解するか、普通」
「あんた達、普段から妙に仲がいいじゃない。だから……そ、そういうのがあってもおかしくないんじゃないの」
「……腐ってやがる」
「な、なによ。そうじゃないのなら、どういう意味だったの、あれは?」
「だから、あれはだなあ……あいつのことを言ったんじゃないんだ。磯風じゃなくて別の相手のことを。……勿論、女だぞ」
一応、付け足したが、効果は覿面のようだった。
霧夜の表情が柔らかくなった。
そ、そこまで俺がホモだと思っていたのか……。
「なるほどね。あんた達が誰かのことを話しているのを、たまたま私が聞いてたってわけ。そういえば、誰が好きって『クズ王』は言ってなかったもんね。なるほどね。まあ、人間生きていればそういうことも――あるわけないでしょ!?」
ノリツッコミの要領。
唾の飛沫が飛んできそうなぐらいの語尾の強さ。
「そんな偶然があるわけないでしょ? あんたはそうやって……。……あの時だって……そうだったでしょ……」
霧夜は沈んでいく。何を指して言っているのか分からないが、自分の言葉に蝕まれるようにして、次第に表情は翳っていく。闇の中に呑み込まれるようにしている彼女は、それを霧散させるようにして、
「とにかく、そんなバカみたいな奴がいるわけが――」
「――そんなバカな奴、ここにいるよ!」
しゃにむに叫ぶしかなくて、そうすることしかできない自分がちっぽけだった。叩きつけるようにして、そのまま言葉を継ぐ。
「ちゃんと伝えることができなくて、また想いを残すのは嫌だから。……だから何度でも、届くまで言う。違うんだよ、全部。あれは、本当に好きなやつのために言ったんだ。それだけは信じてくれ」
「………………好きな奴って…………誰?」
「それは――」
がっ、と口から出てこない言葉は、それだけ重いってこと。今からでも誤魔化したい。今までのは冗談でした、と茶化すように言えば、全ては終わる。血を出さずに、不戦敗でいい。そうすれば、今まで通りでいれる。なかったことにできる。
でも、それはもう嫌だ。
過去を振り返った時に、後悔したくない。自分のことを許せる自分でいたい。しがらみに囚われて、挑戦することを諦めたくない。自分の未来は無限大の広がりがあるのだと信じ込みたい。だから今は――
「――それは、」
本当に、言おうと思った。これは俺だけの問題じゃなくて、きっと周囲の人間の関係すら一変するかもしれない。その覚悟はあった。どんな結果を突きつけられようとも、それを享受しようと。
「――だめ、やっぱりだめ! 今のなし。言わないでいいから」
なのに、ブンブンと両手を振って、耳までトマトのように赤くしながら、霧夜はそんなことを言ってきた。
ふ、ふざけんな。今更そんなことできるわけがない。引っ込みなんてつかない。突き進むしかない。
というかここまできて退いたら、めちゃくちゃカッコ悪い。
「は、はあ? 何言っているんだよ。だから、俺が好きなのは――」
「や、だめ、ほんとにだめ。聞きたくない! 聞くだけの勇気は今の私にはない。…………だから、もう少しだけ待ってくれない?」
霧夜は指の先を微かに震わせていた。
何について恐れているのか分からない。
俺たちの関係が、今までのことが瓦解することを恐怖しているのか。
それは俺も同じで、なあなあにしたい。そう思ってしまうのは、成長していない証拠だろう。人はそんな容易に変わることなどできない。根本の部分はやっぱりクズなんだと思う。いつだって大切な局面で逃避したいと思っているのだから。
だけど、自分の大切だと思っている想いを告げることよりも、霧夜の想いを大切にしたいと思うから。だから、これでいいんだ。
「…………分か…………った。それでいいよ」
こんな、締りのない終わり方は俺らしいと思う。結局のところ、他人の考えに流されただけだ。それだけじゃなくて、踏みにじった想いもあった。
プラスどころか、ゼロどころか、むしろマイナスだった。
徒労感に満ちたため息がでる。
どうしてこんなにも、俺には何もできないのか涙がでそうになる。
「……ねえ、『クズ王』。あんたは、あの子と付き合ってるの?」
「……あの子?」
「胡桃来鹿のことよ」
「……なんでみんな、ライカの俺のことについてそういう類のことを訊くんだよ。一々、答えるのがいい加減めんどくさくなってきたんだけど」
「いいから、ちゃんと答えてよ。……お願いだから」
ここまで譲歩するのは何でだろうか。今までだったら、霧夜がここまで謙って頼むことなどなかった。いつもなら、もっと不躾に言葉を投げかける。
凄くわかりづらいけど、そこまでして知りたいことなら、俺は真実を告げるだけだった。
「付き合ってないよ」
「そっか……」
俺の言葉を噛み締めるみたいにして俯く。光沢のある髪の毛は、そろそろ乾いてきていた。もう、そんなに時間が経っていたのか。あっという間だった。
霧夜はザッザッと足先で地面を蹴ると、
「それじゃあ、帰ろうかな。部活も今日は早めに切り上げたし。――あんたは?」
「俺も帰るよ。今更学校に帰ってもすることないし」
というか帰りづらい。
どのツラ下げて戻ればいいのやら。
これからも問題が山積みで、後処理とか全然考えてなかった。なにやら恥ずかしいセリフを色々な奴に言った気がする。
明日学校で会ったら、開口一番にどんな話をすればいいのやら。
猛烈に後悔してきた。
なにを馬鹿なことをしたのかと、いらだち混じりに足元にあった石を軽く蹴る。それは転がっていき、コンと小さな音を立てて霧夜の靴に当たる。
やばい、また暴言が飛来してくると、目を瞑っていた。だが、なにやってんの? と不審な人間を見るかのような発言に俺は、閉じていた眼蓋をこじ開ける。
「……それじゃあ、久しぶりに一緒に帰ろうか? 九王」
そこには、見たこともないような明るい笑顔で、前へと歩く霧夜がいた。スカートを翻すようにして、可愛く振り返って見せていた。
そんな霧夜に対する俺の答えは、きっと言うまでもないことだった。




