ep19.雪解けの想い!!
過去編。
雪だ。
上空の雲はどんどんその層を厚くしていき、更なる雪を降らせていた。しんしんと降り積もっていく雪はアスファルトを覆い隠していき、真っ白に道路を染めゆく。
雪原となった道路の中央で、腫れぼったい顔をしたライカは泣きそうだった。
今にも瞳から溢れそうなものは、痛々しいと同時に綺麗さが同居していた。見ているだけで心が雪解けするかのような、ハッとするような美貌のライカは、心が消耗しきっているせいか、顔面蒼白となっている。それはきっと、この凍えるような寒さのせいだけじゃない。
はぁー、と息を吐く度に、ケトルの湯気のようなものがでる。かじかんできた手も、ポケットの中に入れて、寒さを誤魔化すのにも限界だ。なにより、追い込まれているライカの精神が一番の心配の種だった。
「そろそろ家に帰ろうか。寒くなってきたし」
「私はまだ帰りませんから、先輩一人で帰ってください」
「なんでだよ? 今のお前を一人にして帰れるわけないだろ。さっさと一緒に帰るぞ」
「いいですってば。あんまり……構わないでください」
「なんでだよ、」
――俺は、と続けようとして、自分の愚かしさに気がついてしまった。迂闊にも俺はライカの足の捻挫のことを失念していた。というより、ライカが俺に悟らせないようにしていただけだったのかもしれない。
足を、引き摺っていた。
アスファルトと足を平行にすることすらできずに、藻掻くようにしていた。一人で帰ろうと言いだしたのは、それを見た俺が気に病まないようにするための配慮。だったら俺も、見なかった振りをするしかない。
……もしもライカの心の機微に気づかずなかったら、俺はそのまま『なんだよあいつ、つんけんして、めんどくさいやつだな』とかマイナス方向に思考を舵取りしながら家に帰宅していたら、ライカはただの感じの悪いやつになっていた。ライカには、そうなることも当然予測できていたのにな。
「そうだな……」
そう言ってやると、自分から願ったことだというのにライカはしょんぼりとする。あまりにも露骨なその挙動が微笑ましい。そんなんだから、俺はお前を余計に見捨てるわけにはいかないんだ。
「――だったら、これならどうだ」
「……え?」
惚けたようにしているライカに肩を貸す。捻挫した片足の代わりの杖に、俺がなってやる。体育祭の、二人三脚のような体勢だ。ただでさえ不格好で、気恥ずかしい俺はライカの横顔をまともに見れない。何やら熱烈な視線を浴びているのを肌で感じているから、より見れるわけがない。
だから、互いの脚が折り重なるようにして縺れる。蹈鞴を踏みながらも、こけそうになる。それを見かねたのか、ライカは肩に回していた手を離す。
おい、と俺が振り返りそうになる前に、ドンッと背中に衝撃を受ける。んなっ、と屈伸するようにして膝が雪色のアスファルトに激突しそうになったが、歯噛みしながら堪える。なんとか、顔面から滑り込むなんて醜態を晒すには至らなかった。
「どうせだったら、私の家まで背負ってくれます?」
いけしゃあしゃあと、調子に乗ったことを言ってくれる。
気分が沈んだままだったらこっちもどうしていいか分からなくて困惑したが、元気になったらなったでこれだ。だから俺も、意地悪してやろうという心が首をもたげる。
「もうちょっとお前がダイエットしてくれたら、楽勝で持ち運びできるんだけどな」
「ひっ――どいですね。そんなんだからモテないんですよ、先輩は」
「都合のいい男としてモテるぐらいだったら、別に今のままでいいけどな。……まあ、モテないのは事実だけど」
「あれ、先輩傷ついちゃいましたか? そんなに拗ねないでくださいよ~」
「拗ねてない。拗ねてないからほっぺた差すな」
何が楽しいのか、弾力を確かめるようにしてぷにぷにと人差し指でつついてくる。こっちとしては、背負っているせいで大した抵抗もできない。
しかもライカがしっかりと俺の肩の辺りに手を乗せていないせいで、今にも背中からずり落ちそうになる。まったく、そんなふざけてて落としたらどうするんだと膝に引っ掛けるようしてしっかりと脚を持つ。
一つ下。中学生女子をおぶさっているというのは、悪いことをしている訳でもないのに、キョロキョロと目線を彷徨わせてしまう。誰かに見つかりでもしたら、どんな言い訳を講じても不毛となりそうだからだ。
スカート丈が短い。そのせいか、歩くたびに頭が上下するから、スカートに後ろ髪の先がちょんちょん当たって意識してしまう。生殺し状態。羞恥が脳裏にちら浮きながら、予感がザクザクと雪かきのように歩を進めるごとに増大していく。大体こういう悪い方向の予想は的中するものだ。
「……九……王……? と、あんたは」
はぁ、がっ! と、妙なところに食べ物が入ったような素っ頓狂な声がでると、ゲホゲホと咳き込む。寒さ対策のマフラーを巻き、俺達の前に立っていたのはこの場に最もいて欲しくない人物だった。
「き、霧夜。その、これは誤解なんだよ」
って、何でこんな、三文ドラマの浮気現場を目撃された男のような言い訳が咄嗟に出てくるのか。瞠目したままでいる霧夜は、手荷物を持っている。どこかに寄っていたのだろうか。
「それ、どうしたんだ?」
「九王のところのお姉さんにもらったの。うちの姉と九王のお姉さん仲いいから、それで……」
「ああ、そっか、なるほどな」
俺の家に遊びに来てたのか。姉妹同士が仲いいと、必然的にその下の兄弟姉妹も、顔を合わせる機会があれば何となく仲良くなる。それはきっと兄弟姉妹を持っている人間には共通のことだ。……だけど、俺の場合もっと仲良くなりたいと思ってしまった。
「そんなことより、なんなのその格好? 罰ゲームか何かの真っ最中?」
「そ、そう、それ――」
「あなたには関係のないことだと思うんですけど」
上から刺のある言葉が降ってくる。ライカがどんな表情なのかは見ることができないのが、本当に良かったと思える程に、厳しい語調だった。
「か、関係あるわよ。私には九王のことを知らないといけない理由があるんだから」
「それ、どんな理由ですか? 言ってみてください、今、ここで! 私が居る前で!」
おいおい。
顔面の血の気が引いていくのを感じる。何を言いだしているんだ、この後輩は。
「私には、九王のお姉さんから頼まれているの! 変なことしないように、ちゃんと見張っておいてくれって。だから、九王が変態の道に行かないかどうかが不安なだけ!」
俺、どんだけ姉ちゃんから信用されてないんだろう……。
「へー。そうなんですか。じゃあ、先輩のことはどうでもいいと?」
「どうでもって、どういう……?」
「だから、先輩のお姉さんに命令されて、嫌々先輩のことを心配している。そういうことでいいんですよね? 先輩に恋愛感情は持っていないんですよね?」
「れ、れ、れ、恋愛感情?」
頬を紅潮させながら、霧夜は激しく動揺する。
え、なんだこの反応……。
俺は動悸が高まるのを感じる。俺だって、今まで仄かに抱くだけだった想いに火が付くのを感じた。正直、そこまで想いが強いということはなかった。ただ、傍にいるといいなと、楽しいなと思っていた程度。その辺のクラスメイトとはちょっと違うその感覚。
それが、そういう感情だったのかと思うと、え、え、え? と頭の中で情報の洪水が氾濫する。どういう言葉をかければいいのか。ふわふわと無情力になったかのように、心が浮つく。ライカを背負っているということすら、一瞬忘れてしまう。
閃光のように頭に霧夜との思い出が駆け巡る。
ずっと昔から、楽しいことも苦難も一緒に過ごしてきた。姉ちゃんたちと一緒に遊んだことだってあった。公園や家の中でのそんな当たり前の出来事が、光を伴って瞬く。
そうか、俺は――
「そんなのないわよ! 当たり前でしょ!? 私達はそういう関係なんかじゃない。姉弟とかそういうのなの! そんなわけないでしょ!?」
――え?
なんだ、ろう。これは。目の前が闇に包まれていくようだった。さっきまで指の先まで燃え上がるようだったものが、なりを潜める。凍死しそうなぐらいに、全身が凍える。
今までの長い間、霧夜と邂逅してから、積み上げたものがあった。
小さな小さな思い出たちは、折り重なっていって、まるでそれは雪のように降り積もっていった。振り返ってみればその想いは、いつの間にか見上げるほどのものになっていた。
……つい、さっきまでは。
だけど、どれだけ大きな雪の山であろうと、いつかは崩れる時が必ず来る。溶けてしまって、まるで今まで堆積していたものが、丸ごと嘘だったかのように姿を消す。
きっと、人への想いもそんなものなんだ。
それはきっと、白昼夢のようなもので、人の想いなんて思い込みや勘違いに過ぎない。そのはずなのに、どうしてこんなにもしんどいのだろうか。
「……霧夜」
「な、なによ」
「悪いけど、俺こいつを送らないといけないんだ。だからもう行っていいよな」
「…………あ、うん」
その時、霧夜はどんな顔をしていたのだろうか。そのことは、きっと俺には一生分かりっこない。ただ目線を外に外していて、俺はヒクつく唇を抑えるの必死だったから。
濡れていく景観が、何より苦しくて。どうせなら、このまま視界に入るものすべてが消えてしまえばいいのにと思った。
苦しい。
締め付けられるように痛む胸を抱えたいけれど、負ぶさっているライカがいるからそれも叶わない。喘ぐみたいにハァッ、と気息がランダムになるが、なんとか噛み殺す。頬を持ち上げるようして、目蓋を接着する。
俺は項垂れたまま霧夜の横を通る。
ああ、そうか、これが人に振られるってことなんだ。無気力になって、全てを投げ出したくなって、どうでもよくなる。無駄な努力なんて、しようと思えなくなって、最初から全てを悟りきってしまうようになる。
「……じゃあな、霧夜」




