ep01.中二病と恋の病!!
涙を流したくないために、空を見上げた。
曇天から産み落とされる、白い結晶――雪。はらはらと、涙のように振りゆく。あまりに綺麗なそれに一瞬でも触れてしまえば、掌の中で無情にも溶けてしまう。
その儚さが、妙に寂しかった。
うぐっ、と瞳にじわじわと込み上げてくる痒みにも似た衝動に、少女はなんとか耐える。スン、スン、と洟をかみながら、漏れ出る嗚咽を噛み殺す。喉の輪郭が真っ直ぐになるほどに、そうやって永遠に天蓋を見上げていた。
そうしていたかった訳じゃない。ただ、そうすることしかできなかったから。
「……何やってんだよ、お前は。顔が雪で真っ白だぞ」
突如、瞳孔に微かなフィルターがかかる。
透明傘だ。
温もりに満ちた声に、少女の凍えた心が動いた。それに、寒くなってしまった体の芯が、熱を帯び始めた。
睫毛に積もっていた雪を振り落とす。水滴が、頬を掠めた気がするが、それは涙ではない。きっと、溶けた雪に過ぎない。
ずっと――できれば永遠にこのまま首を上向きにしておきたかった。
そのまま忘我のままでいたかった。
肌寒くとも、舞い降りる雪を眺めていたかった。
例えいくら胸中に闇がじわじわと浸透するかのように、寂しさが増すことになろうとも。光り輝くダイヤモンドのような銀色の世界に身を委ねていたかった。
――それなのに。
「なにか用ですか? 先輩。生憎、私は先輩みたいに暇人なんかじゃないんです。どうせナンパするなら、もっと暇そうな人に声をかけた方が、成功率は上がると思いますよ」
「ナンパじゃないし、暇人言うなーてぇの。……まあ、お前と違って帰宅部っていう立派な称号があるこの俺は、確かにお前と違って暇人なのかもしれないけどな」
「先輩、ソレ日本語としておかしいですから。『立派な称号』ってなんですか? 『立派な称号』って。純粋な日本人の癖にそんな貧弱な語彙力だから、一つ年下の私と勉強のできがほとんど同じなんですよ」
「そ、そこを突かれると痛いな……」
男のくせに。
……なんて言ったら性差別になるのだろうか。
こんなにも情けない先輩を見ていると、頭が痛くなってくる。鼻の頭辺りがムズムズする。先輩は背筋を伸ばしてシャキッとした方が、生意気な後輩からも嘗められないで済むのに、いつもどこかおどおどしている。異性と話す時は、視線を合わせることすらもあまりできてはいない。
それから、自分のことでさえしっかり管理できないくせに、こうして世話を焼こうとするところなんかも、マイナスポイントの対象だ。
ほんとに、気が効き過ぎて、頭が痛くなりそうだ。
そんな先輩がなんでこんなところにいるのか。それはきっと、たまたま通りかかったタイミングの出会い頭の事故だ。
思えば、ここは先輩の家の近くだった。
もっと目立たないところで、悲嘆していれば良かったと後悔する。それなら、こんなみっともない顔を先輩に見られなくて済んだのに。それとも、自分自身で無意識の内にフラフラとここまで彷徨ってきたのだとしたら、なんて情けない女なのだろう。
先輩に苦言を呈すことができない。
それでも言わせてもらうなら、この人はいつも本当にダメダメだ。その場にいて欲しくない時に限って、図ったかのように現れるのだから。精神が衰弱しきった時になんて、余裕で反則。そういうところが、分かってくれていない。そんなことをされれば、こちらがどう思うかなど、全然。
「……テニスの試合、惜しかったよな。あとちょっとのところで、ボールにラケットが届いたのに」
「観てたんですか?」
意外だった。
きっと先輩は観に来てくれないものだと思ったから。残酷というか、プライベートと仕事はしっかりと線引きするような会社員のような、そんな印象があったから。特に、少女と接する時は、それが顕著のように思えた。
「あのなあ、お前が観に来いって行ったんだろ。たまたま近くを通りかかったから、ついでだから観に行ったんだよ」
「あれだけ行かないって渋ってたのに? それに、先輩の家からあそこまで電車で3駅はありますよ。もしかして、先輩って二次元のキャラとか関係なしに、マヂのツンデレさんなんですか? 私に萌え萌えアピールをしようとしてるんですか?」
「そうじゃねぇえええよ! ただ! 純粋に! 応援したかっただけだって。そんな……取らないでいい揚げ足取るなよ」
「そう……ですか。そう率直に言ってもらえると、こちらとしても反応に困ってしまうんですけど」
先輩は照れたように、蹈鞴を踏む。自分でも、失言だったらしい。言わなくてもいい台詞を言ってしまった先輩は、あっ、と一言漏らすと、そのまま押し黙る。なんと言えばいいのか、分からないように。
なんだかとてもいい雰囲気になりそうだった。気まずいというわけではない、その黙考。ただ思考せずに上っ面だけの意味の為さない言葉を積み重ねる人よりは、よっぽど仲睦まじい人間同士にしか許されないようなだんまり。
ただ黙視できることができることが、何よりも親密だということの証のようなそれは、いつまでも続いて欲しいと思えるぐらいだった。でも、どんなことにも終焉というものがある。それが、幸福であればあるほどに、無残にも引き裂かれるように。
緩和しそうだったこの場を、少女自らの一言が引き裂く。
「でも、私のせいで負けたのは事実なんですよね」
敢えて、空気を読まない。読みたくない。
このっま、ラブコメチックな流れになるのだけは願い下げだった。
運命だとか、どこぞの夢見がちな、少女趣味のある女のような妄想に縛られたりはしない。かぼちゃの馬車なんて存在しない。ガラスの靴も、眠りから覚まさせてくれる王子様もこの世にいない。
だが、もしも運命があるとするならば、自分はいつまでも掃き溜めにいなければならないということぐらいだ。
……どうせ、手放しで誰かに恋をすることなんて一生できない。色恋沙汰に花を咲かせる同級生たちを羨ましげに遠目から見ていることしかしてこなかった。腐敗していくことを感じながらも、自分の力ではどうすることもできないこの身を、変えることなんてできなかった。
だったら、最初からそんな展開はこちらからカットしてしまえばいい。伏線とかフラグとかそんな思わせぶりなものはまとめて圧殺したい。
「中学三年の、最後の全国大会行きの切符がかかった団体戦で。しかも、部長としてシングルスを務めたのに……。最後の最後で足を滑らして、それで、私のせいで敗退なんて、どんだけカッコ悪いんでしょうね。どれだけ私は最低なんだろうって感じですよね。……こんなことなら、バカみたいに『全国行き確定ですよ!』って、先輩の前ではしゃがなければ良かったです」
大会前に、先輩の前で豪語したことが、顔から火が出るほどに恥ずべきことだったと今にして思う。誰もが勝利を予感していた。中学校全体で沸き返り、横断幕が自分の学校の観客席を埋めるほどに、期待をしていた。
プレッシャーが足を絡めとったなんて、言い訳なんてできるはずもない。結果が全ての勝負事。過程に価値なんてなくて、結論として出たのは、全てが終末を迎えたということだけ。
毎日汗だくになって、深夜になるまでやった練習も、軋轢のあった先輩後輩の仲を取り持って、中間管理職のように奮闘した部長としての頑張り。
そんな努力は、一瞬にして泡となった。
「……そんなことだってあるだろ。誰にだってコケたくない時に、何かに躓いてコケる時だってあるよ。みんなそんなんだろ。……そんなもんなんだよ。それに、同級生のみんなだって泣きながらも、お前を慰めてくれてただろ」
ギュ、と掌に付着していた雪を抹殺するかのように握り潰す。
「先輩にッ! 部活に入っていない先輩に、いったい何がわかるって言うんですか! ……あんなの、慰めとか、そんな上品なやつとかじゃなくて、私のことを心の中で悪態ついてただけですよ」
「分から――ないよ。それゃあ、俺には部活がどんなものなんか分からないけどさ、そんな言い方しなくたっていいだろ。そんなことないだろ、きっとみんな健闘を称えたりしてくれたよ」
「あの子達は、みんながいる場所では嘘泣きして、部員しかいないロッカールームでは、戦犯の私を取り囲んでも……ですか。女子部員全員から、『お前のせいで負けた』って、ずっと! 何時間も責められてもッ! それでも、私に我慢しろって言うんですかッ! こうしてッ! 愚痴の一つもこぼしちゃいけないんですかッ!!」
「…………ごめん」
そう言ったきり、先輩は重く口を閉ざす。それから訪れたのはもう、果てのない痛みしか伴わないような、今度こそ居た堪れない空気が漂う沈黙だった。
こんな酷いこと言うつもりなんてなかった。先輩の傷ついた表情を見たい訳じゃなかった。
だから、だから今だけは会いたくなかったのに。馬鹿だ。こんな八つ当たりなんてするつもりなんてなかったのに。先輩の前に立つと、奥底にあるものがいとも容易く引き出されてしまう。厳重な鍵なんて錠前ごと破壊してしまうかのように、汚いものを吐き出してしまう。
今は、そんなこと嬉しくない。
できることならばこのまま、透明人間みたいにスーッと、どこかに消え去りたい。先輩のいないどこかに。
「だけど――」
先輩の切り出した言葉に、耳を傾ける。
「そういうのだけじゃないだろ。きっと、それだけじゃない。お前が頑張ったって認めてくれる奴はきっといるよ。努力を見てくれている人間はどこかに……必ず。だから、そんなに腐るなよ」
「……そんな人、どこにもいませんよ」
素っ気ない返答の仕方であっても、先輩が脆弱な自分を庇ってくれる。どんな弱気な発言だって蹴散らしてくれる。
心の奥底でそう期待していることが、とても醜悪に思えた。こんな自分を好きになるのには、どれだけのものが必要になるのかと頭を抱えるほどだ。
「俺だよ。少なくとも、お前がずっと努力してきたのをこの眼で見てきた人間がここに一人いる。いいか、これだけはどれだけお前が突っぱねようが譲れない。どれだけお前がお前自身を見限っても、俺はお前の可能性をずっと信じてる」
先輩は、自嘲するように拳を、膝あたりに押し付けると、
「……なんてさあ、スゲー自己中なことしか俺言えてないよな。だめだよな、全然説得力なんてないよな。だけど――それでも、諦めてやるなよ。お前がそうやって俯いてちゃ、成功の尻尾はいつまで経っても掴めやしないだろ。……俺は、お前ができるやつだって心の底から思ってるよ」
「そんな言葉……信じられるはずないじゃないですか」
「じゃあ……いったいどうすれば納得するんだよ」
「そう、ですね」
破れかぶれだ。
こうなったら、墓穴だろうがなんだろうが掘ってやる。
「私が今から質問します。本当にそんなことを、先輩が心の底から考えてくれているのか」
「……なんだ、そんなことでいいのか?」
「ええ。どうせ私が本気を出して強制したら、それがどんな理不尽な命令であっても、先輩は包み隠さず本心を曝け出すことになるんですから」
「め、命令? ……そりゃあ、お前が頼むなら、俺だってできる限りのことはするけどな」
「そういうことじゃないんです。先輩は私の命令には絶対に逆らうことはできないんです」
「……どういう意味なのか分からないんだけど」
「私には、他人の言動を強制させる力があるんです」
「そ、そんなのがあったら、試合にだって勝てるだろ」
流石に、先輩も狼狽する。
あまりにも衝撃的な言葉に慄いている。というより、完全に少女の凄まじい超能力にビビっているようだった。
ふふん、とちょっとばかり元気とを取り戻した少女は調子に乗る。
「ちゃんとした条件があるんです。相手が異性であるということがまず絶対で。それから、服従対象である人の、体のどこかを触っている時に命令を下さないと効かないんです」
「そ、そうなのか。なんかライトノベルみたいな設定だな」
こ、こいつやべぇえええ、みたいな。救急車を呼ぶときの番号ってなんだったかな? あれって、いざとなるとあまりのパニックにど忘れするよな、みたいなたじろぎをする。
少女はムッとすると、
「信じてくれなくたっていいですよーだ。どーせ私がこうして懇切丁寧に説明した話だって、先輩は忘れることになるんですから……」
そこまで言ってから、一旦言葉を区切る。この葛藤している姿も、先輩は忘れることになる。それは分かっているのだが、体はついていかない。
不審げに先輩が見てくるので、意を決す。
少女はどもりながら、
「……その……だから、私の……手……握ってください」
「あ、ああ……」
なんだか妙に気恥ずかしくなってきた。
自ら申し出たこととはいえ、ハレンチな女だと思われていないだろうか。
ブンブン、と頭を振って思考を切り替える。
今更後悔したって詮無きことだ。こうしなければ、術はかけられない。正確には、手を握らなくても強制できるのだが、せっかくだから触っておきたい。
先輩の手は思っていたよりも骨ばっていて、ゴツゴツしていた。男の人はみんなそうなのだろうか。初めてのことだからそんなことも分からないでいた。周囲からは、遊んでいると勘違いされているが、そうではない。顔と比例せず、心は全くもって垢抜けていない。だから、今は物凄く羞恥心に苛まれていたりする。
「いきますよ。覚悟はいいですね」
「分かってるって」
「そ、それじゃあ、いきます。……《先輩、私に思う存分カミングアウトしてください。私のことをどう思っているのかを》」
「………………いい、後輩だと思っているよ」
……………………………………。
…………………………。
…………それだけ?
「あ、あれ? お、おかしいですね。どうしてでしょうか。あれ? も、もしかして。いや、もしかしなくても……先輩、ちゃんと意識を持って言葉を発していますよね」
「当たり前だろ、そんなの」
少女は、よろよろと、横にあったザラついた壁に手をつく。
今にも卒倒しそうだった。
「……そん、な。私の言霊が効けば、とろーんって胡乱な表情になって、自我の意識を喪うと同時に、私のどんな理不尽な命令も首肯する忠実な犬に成り下がるはずなんですが……。一体、どうして……」
「『一体、どうして……』じゃないだろ。『一体どうして』……じゃ! この俺に、いったいどんな危険な催眠術施そうとしてたんだよ。あ――っぶないな」
やれやれと言いたげな先輩は、困惑したように、
「……あのな、ライカ。疲れている時は家に帰って休んだ方がいいって」
「私は極めて正常です。はっ! やっ! とうっ!」
いつもならば、不可視のエネルギー波みたいなものが出るはずだ。
えいやっ! と何度もポーズを変えて、離してしまった手を握り返すと、先輩へビビビ(自分で効果音を口で発した)と得体の知れない何かを放出する。だが、何度繰り返しても固有の異能力は発動しない。
というか、やる度に、先輩の瞳が翳っていく。
憐れんでいるような、もうこいつ処置なしだ。どうしてしまおうか。もしもここで誰か通行人が通りかかったら、全力で他人の振りをしよう。……みたいなドン引き具合だった。
少女の肩に手を置くと、嫌なぐらいに真摯な双眸になって、
「俺は、さ。お前にとっちゃあ、やっぱり頼りにならない先輩だよな。お前がどんな悩みを持っていても、それを打ち明けられることもなくて、実際俺にはお前が求めているようなアドバイスできるほど、人生経験豊富っていうわけでもないからな……」
「いえ、違うんですよ。なんで……ッかな! お、おかしいですねぇ? もしかして、今日はたまたま調子が悪いんですかね。いつもだったら、シュバババババン!! って感じで、先輩のことを、私の好き放題にできるんですが」
「俺は……お前がどれだけ悩んでいても、袋小路にいるお前の考えに答えを導き出すことなんてできない。だけどな、俺は――お前と一緒に、思考の迷路の中で一緒にいることはできる。……そりゃあ、俺だって迷うことになるけど、迷路の出口を見つけられる時が、きっといつかくるんだ」
「……そん、なこといきなり言われても。っていうか、聞いてませんね。信じてませんね。なんで私が重度の鬱病患者みたいな対応されてるんですか……。地味にショックなんですけど」
なんだろうか。
凄くコレジャナイ感があるのだが、先輩があまりにひたむきに話してくるので、このまま流されてしまいそうになる。
「どれだけ入り組んでいたって、終着点に到達するまでにいくら時間がかかったって、俺はお前を見捨てたりしない。それは絶対中の絶対なんだ」
「ほんと……ですか」
少女はつい、先輩の顔をじっと眺めてしまった。
こんなにも優しい言葉を、異性の人間に生まれてこのかた言われたことなかったから、聞き間違いとさえ思った。
この力を持っている少女は、男というものを信用することなんてなかった。どれだけ上辺だけの言葉を重ねていても、人知を超えたこの力を使えば、一瞬で吹き飛んでしまう。どす黒い本心しか持っていないことを、嫌というほど見てきた。
だから異性を信用することなんてできなくて、心は枯渇していった。誰かを想って潤うことなんて、有り得ないものだと今の今まで思い込んでいた。
「……ほんとうに、先輩を信じてもいいんですか?」
「ああ。――絶対だ」
なんだ、そういうことなんだ。
生まれつき持ってしまった超常の力。それがどうして突如として使用できなくなったのか、皆目見当がつかなかった。
だけど、その答えは、何も難しいことなんてなかった。
昔から使い古された、古い童話なんかでよくある、ベタベタな、ちょっと頭を捻れば誰にだって思いつく真実の答えだ。
魔法をかけられない対象。その相手が、自分と同じ魔法使いなどではなく、ただの一般人。それなのに魔法を無効化できる。そこに小難しい理屈を挟みこむ余地などない。あるのは、たった一つの、誰もが持っている感情が原因だったというだけ。
それは――とても簡単な結論。
ずっと、宿命という名の呪縛のせいで、少女は素直に異性に対して好意を抱けなかった。だが、眼前の先輩にだけは心を開くことができた。
結局は、そういう理由だっただけのことだった。