ep17.君がいたから!!
光のない瞳をしながら、階段を下っていく。
さっきまで、男子トイレに行って顔を丁寧に洗っていた。どうしてそうしたのかというと、眼にせり上がってくるものがあったからだ。
こうして階段を踏みしめていると、ちょっと前に、霧夜に通せんぼされたことが頭に過る。今にして思えば、あんなくだらない思い出でも、ずっしりとした重量感を伴う。あの時、もっと話をしておけば、足取りはここまで重くなくてすんだかもしれない。
チャンスは何度もあったはずなのに、全てを棒に振ったのは自分自身だった。だけど、どうしても『もしかしたら』という期待は捨てられない。このまま自発的に何もしなくても、幸運が舞い込んでくるんじゃないかと思う。
と、目の前に誰かが立ち止まる。
死にかけの人間のように俯いていたから、足元だけがまず視界に入る。その白くて華奢な脚は、紛れもなく女子生徒のものだった。
まさか、まさか、と口の中だけで転がす。声にもならず、俺はゆっくりと視線を上げていく。もしかしたら、あいつが俺に話があるのではないかと思って、暗がりの中、灯台のような仄かな光明を見つけたみたいに、目を眇めながら、
「先輩、どうしたんですか?」
――だけど、そこにいたのはライカで。失望という瞳の色を隠せたのかどうかは、定かではない。なんだ、リアルなんてそんなものかと、脱力のあまり階段に腰を下ろしたくなる。
「なんでもないよ。じゃあな」
正直、今の心理状態でライカの話し相手になれるほど、俺は神経が太くない。
彼女には悪いけど、屍同然の今は、休息が必要だ。明日になってから、霧夜と磯風がどうなったかを教室で知ればいい。報告を聴かずとも、きっと二人の間に流れる空気で察することができるだろう。
甘酸っぱいような、アイコンタクトでなんでも把握できるような、そんな関係性になっていたら、俺はどうすればいいんだろうな。寝たふりでもして、ずっと教室の机に突っ伏していようかな。なんて、どうでもいいことを――
「――《行かないでください。お願いします》」
ギュッと、濡れ布巾を絞るみたいに、ライカは制服の裾を力強く掴んでくる。いつもと違った声音で、違和感を覚える。まるで、そこにいるのがライカじゃないみたいだ。
多分、どこかいつもと違うと思ったのは声だけじゃない。ライカが自分から俺のことに触れたということが、珍しい気がしたからだ。
あの雪の日。テニスの大会で敗北してしまった日から、ライカが他人に触ることは自重していた。以前は、ハーフの人間らしいく、もっと頻繁にハグをしていたから、どうしたのだと思っていた。
だけど、今は。
ごめん、と囁いて、振り切る。冷徹な態度を取るのは憚られたけど、こっちにだって余裕なんてないんだ。そうして階段を降ろうとすると、またもやグイッと引かれる。
「……なんで、でしょうね? 一番言うことを聞いて欲しい人に限って、効かないなんて……。ほんとに、なんで……」
はらはらと、雪が降ってくるみたいに柔らかな声が上から降ってくる。じんわりと湿っぽくて、ほろほろと涙を流しているようだった。
だけど、怖々と振り返ってみたら、ライカは泣いてなかった。涙は瞳から零していなかった。むしろ、流してしまっている方が楽になれるのにと思えるほどに、顔は引き攣っていたが。
涙は、感情を吐露するのに必要なもの。流すことができないのならば、どんどん心の中で黒ずんだものが堆積していく。そうすると、身動きがとれなくなってしまうから、そうなる前に泣くんだ。それなのに、ライカは我慢していた。
「愛澄先輩のところに行くんですか? ……どうしてですか? あの人は、先輩のことをずっと馬鹿にしているんですよ?」
「……行くつもりなんてないよ。今、家に帰るところなんだ」
自分でも驚く程に硬質な声が出た。
「磯風先輩に話を聞きました。放課後に告白なさることも、先輩なら、必ず告白場所に来るって」
「……後輩に何吹き込んでるんだろうな、あいつは」
どういうつもりなんだ、磯風。
だから俺は行かないって言ってるのに。
「私は先輩を止めに来ました。どうしても、愛澄先輩のところに行かせたくないからです」
「ライカにはどうでも――」
「私じゃ、だめですか?」
外そうとした視線は、失敗した。ただの一言だけだったが、言葉足らずになるはずがない。どういう意味なのかは詳細を晒されずとも、すぐに答えに結びついてしまった。
「先輩は昔、私にいっぱい言ってくださいました。私のことを信じてくれるって! 見限らないって! ――だから、私も先輩のことを信じてます! 見限りません! 先輩はきっと、どんなことだってできますから。……だって、こんな私を救ってくれたから。こんな私でも、恋ができるってことを教えてくれたから! ……だからっ!」
喚くようにして言うライカは、どこまでも真っ直ぐだった。俺のことを想ってくれて、こうして心を剥き出しにしてくれていた。
それなのに、俺はどうすればいいのかと、未だに悩んでいた。終止符を自らの手でつければいけないのだろうか。――彼女の目の前で。
「私だったら、先輩のことを悪く言いませんから」
「……そうだよな。ライカとならきっとうまくいくと思う。俺のことをきっと否定しないでいてくれて、どんなことだって、一緒にいれば楽しめるだろうな。趣味は一緒だし、話していてもたくさんの表情を見せてくれて全然飽きない。それに俺のことをよく知っているから、例え意見が食い違った時があっても、ライカはちゃんと合わせてくれるよな」
「そ、そうですよ。私は、だから――」
「――だから、ごめん」
な、んで――、と口パクになりながら、ライカの瞳からとうとう透明な水滴が零れる。
あの雪の日ですら見せなかったのに、儚い涙は中空に溶けそうだった。
ライカの顔を悲しみに彩ってしまったのは、俺の言葉だ。だから、最後まで突き進むしかない。その悲哀が、中途半端なものになってしまわないように。想いを残してしまったら辛くなることは、身に刻まれている。
「ライカは優しすぎるんだよ。きっと俺はその優しさに甘えてしまう。だめになってしまう。辛いことがあっても、別にいいやって記憶の隅に置いてしまうんだ。今もそうだけど、きっとライカの隣にいれば、もっとそうなる」
「それの、何がいけないんですか? それって、いいことじゃないですか。悲しみが消せるのなら、辛いことが薄まるのなら、それに越したことはないじゃないですか」
「だめなんだよ、それじゃ。辛いことから目を逸らして逃げ続けたところで、きっと、逃げた後悔からは一生逃げられない。そうして、どんどん苦しくなる。自分の手で首を絞めることになる。俺はもう、逃げたくない。だから――」
明るいライカの隣にいれば、俺も心が浮き立つ。
それは悪いことじゃない。だけど、いい事ばかりでもない。彼女と一緒い続ければ、俺は悩むことを辞めてしまう。考えることを停止してしまったその先には、『俺』という人格はない。
「ライカ。昔はさ、お前も俺のことをかなり批判してたよな。……キツかったよ、ほんとに。だけど、あの時のお前は今のお前よりも、ずっと本音で喋っていてくれた気がする。今より俺に遠慮していなかった気がするんだ」
他人のことを想いやることは、大切なことだ。無くしてはならないことだ。
だけど、行き過ぎれば、それはただの遠慮だ。地雷を踏んではいけないと思っていては、本当の意味で他人を信用することなんてできない。
遠慮のある関係は、あまりに遠い。遠すぎて、すれ違うばかりだ。だから今度こそ、至近距離で殴り合うしかない。地が吹き出しても、それでも衝突しないといけない時が必ずある。
それが今だ。どうしてそこまでできるのかというと、俺にとってライカが特別な存在だから。本気で口喧嘩しても、それでもライカとまた隣になって歩けると思うから。信頼しているから、俺はきっと悪役になれることができる。
「何ですか、それ……。今より、昔の方が良かったっていうんですか? あの人みたいに汚い喋り方の方がいいって言うんですか?」
「そうだ。俺は、本当のお前と喋りたかったよ。どこか嘘っぽい、装いのある言葉なんかじゃなくて、本物の言葉で」
なあ、ライカ。
俺は本当に霧夜と磯風の邪魔なんてするつもりなんてなかったんだ。もしも、ここでお前が勇気を出して俺を引き止めさえしなければ……。
……なんて、これから先を想像するのは意味ないよな。
お前は泣きじゃくってでも、自分の心に立ち向かった。それを見ていたら、俺だってできることがあると思えた。俺なんかの可能性を信頼してくれた。だから、俺は行くよ。今度こそ、自分が後悔しないための道を選ぶ。お前がいてくれたから、俺は自分を見失わないですんだんだ。
――そして、三度目の引き止めは、なかった。




