第5話「ライの苦労②」
「……はぁ、はぁ」
ライと別れて約5分。
急ぎ足でその場からの離脱を図っていたシルク、ロイド、アリエスの3人だが、いかんせん10歳程度の少女にシルクとロイドのペースに付き合う体力はない。
「大丈夫?」
心配そうにその顔を覗きこむシルクに、アリエスは頷いて足を進めようとする。そのゆっくりとしたペースにあわせつつ、ロイドが口を開く。
「……さて、そろそろ教えてもらえるかい?」
「?」
ロイドの言葉の意図がわからないのか、アリエスは首を傾げて困ったような顔になる。その表情にシルクがロイドの言葉を補足する。
「だからね、最初マルガリータっていう人の使いの人に手を引っ張られてたでしょ? それにその後も私たち……というかあなたを狙って数十人単位の人間が襲ってきた。それに今ライが戦っているのを含めたら2回も。それだけの規模の人間を簡単に操れるマルガリータってそもそも何者? それに、そのマルガリータに執拗に狙われているあなたは一体マルガリータにとっての何なの?」
詰問する口調、というわけではないが先ほどまで見せていた人を心配するだけのシルクとは思えないほどに平坦な口調だ。そのせいかまるで責められているように錯覚すら感じてしまう。
徐々に困った顔になっていくアリエスを安心させるためか、ロイドがその小さな肩を叩いて快活な笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫、僕たちは敵じゃない……それは保証する。だから僕たちを信じて話してみてくれないか?」
「……うん」
若干に目をさまよわせた結果、それでもそのロイドの笑顔がアリエスにとって心強いものとなったらしく、おそるおそるといった様子で頷いた。
「マルガリータっていうのはとってもお金持ちで、いっつも悪いことばっかりしてお金を稼いでて悪い人たちをたくさん雇ってる最低な人なの。今の当主はグロッツ・マルガリータ。今までもマルガリータっていえばお金持ちで有名だったけどグロッツになってからはさらに悪いイメージになっちゃったの」
「……」
「……」
アリエスのとてもわかりやすい説明に対して急に黙り込んだ二人。その二人の表情を窺おうとするアリエスだったが、先にロイドが彼女の頭を撫でる。自分の頭を撫でる手に少しくすぐったげな顔をみせながらもどこか嬉しそうになったアリエスが言葉を続けようとして、すぐさま不安そうな顔になった。
「?」
目を見合わせて困惑するシルクとロイドには気付かず、アリエスが意を決して口を開く。
「……それで私はそのグロッツ・マルガリータの娘なの」
「え」
「私の名前はアリエス・マルガリータ。それが私の本名」
悲しげな顔で俯く少女に、シルクは合点がいったのか小さく頷く。
「娘だから取り戻そうとしてたのね」
「あれ、じゃあ僕たちがしてることって――」
「な、なに?」
すさまじく真面目な顔をして言葉を区切ったロイドに、シルクも嫌な予感を覚えて、若干の冷や汗をたらしながら尋ねる。
ロイドは一度大きく深呼吸をして、それから意を決してその言葉を吐き出した。
「――誘拐?」
ふわりと吐き出されたロイドの疑問に、アリエスを除いた二人がピシリと固まった。
「……?」
不思議そうに二人を見つめるアリエスが首を傾げてシルクの腕を引っ張る。
「あ、あぁ……犯罪、第二王女たるこの私が……国民の皆様、お父様ほんとうにごめんなさい……私は不出来な人間です」
何か独り言を呟いていてひどく恐い。ならばとロイドの腕を引っ張る。
「お、王族の血族であり常に誇り高くあれという家の教えに背いてしまうとは……光神隊というケイアンの絶対正義を守る立場にいながら、僕という人間は……一体、なんということを」
やっぱりぶちぶちと呟いていて反応がない。
「……」
「……」
「?」
ぴたりと独り言が止まった。どうしたのだろうか、と未だに地面を向いている二人の顔を覗き込もうとした途端、バッと顔が上がった。
「で、でもほら! 私たちアリエスに助けを求められたわよね!?」
「そ、そうだとも! 僕たちは助けて欲しいといわれたから手を差し伸べただけであって、べ、別にこれは誘拐だとかいう犯罪には全く該当しないわけであって……」
今度はどこか白々しさを感じさせる口調だ。だが二人は必死らしく「うんうん」「そうそう」と無駄に大きいリアクションを取りながら頷いている。
やだ、この人たち恐い。
そう思ってしまうのが普通かもしれないが、アリエスはそういったことは思わなかったらしい。ただしそういった感情とは別の色、寂しさや悲しさの色を思わせる顔を見せ始めていた。
アリエスがそんな状態になってきているとは全く気付かずに、二人は二人でやっと自分たちを納得させることに成功したらしい。
「よ、よし! そういうわけで大丈夫だ……大丈夫だ!」
「そう、そうね! ……大丈夫よ!」
うんうんと何度も首を縦に振って、自分を安心させていた。
やっと帰ってきた二人だったが、アリエスは何を思ったのか、俯き、肩を震わせて二人に背を向けて歩き始めていた。
「ア、アリエス?」
ロイドが慌ててアリエスの肩を掴み、その歩みを止める。
「ど、どうしたの?」
とシルクが俯いているアリエスの顔を覗きこむ。
「……の」
「え?」
僅かに漏れたアリエスの声に、二人して耳を近づける。
「もう、いいの」
か細い声だった。
「マルガリータって聞いて助けてくれる人なんてこの都市にはいないんだもん」
震えた声だった。
「お兄ちゃんやお姉ちゃんも、凄い不安そうだったのは、マルガリータだからなんでしょ? ……ごめんなさいご迷惑をかけちゃって」
全てを諦めたような声だった。
このカンボット都市においてマルガリータの権力は絶対的なもの近い。ありとあらゆる悪事に手を染め、そこらの貴族など足元にも及ばぬほどの財産を手にしており、この都市にいるほとんどの冒険者をも抱き込んでいると言われている。
そのマルガリータに逆らえる人間が一体どれだけいるのだろうか。
シルクとロイドはグロッツとアリエスが親子だったから誘拐という犯罪をしてしまったと考えてあたふたしていた。表面だけ見ればマルガリータと聞いてあたふたしているのと全く同じ。アリエスからしてみれば二人の反応が今までの掌返しをしてきた人間たちと同じなのだ。
もちろん二人はマルガリータという人間を知らないし、そもそも知らないのだからマルガリータに怯えているわけじゃない。だからアリエスのこの考えは勘違いだ。
だがアリエスからしてみればこういうことが何度もあったのだろう。
善意で助けてくれた人もマルガリータと聞けば慌てて逃げる。逃げない人はグロッツへの媚を売る道具に使う。信じていたのに結局はグロッツの言うことしか聞かない。
そういうことが、何度も、何度も。
これがまだ10歳程度の少女にとってどれだけ傷が深くなるものだったか、どれだけの絶望を植えつけるものだったか。
それでも少女は、アリエスは諦めるわけでもなく、自棄になるでもなく、誰かに助けを求めてきた。
アリエスがなぜ何度も家を出ようとしていたのか、今回も家を出ようとしているのか。
シルクとロイドは何も知らない。まだ何も知らない二人だが、二人の表情は実に穏やかになっていた。
「こら、子供のくせに勝手に結論を出すんじゃないの」
メッと子供を叱り付ける大人のような態度をとってアリエスの手を握るシルク。
「え」
と困惑の表情を浮かべたアリエスをあえて無視してシルクが問いを発する。
「それで、どうしてそのマルガリータの家に連れ戻されようとしているの?」
「そうだな、僕たちが見た時には連れ戻されようとしていて、しかも通りがかりで見ず知らずでしかない僕たちに助けを求めるくらいだ。なにか事情があるんだろう?」
「え……え?」
――聞いてくれるの?
声にならない声の問いかけにシルクとロイドが大きく頷き、それを確認したアリエスの目がぐっと濡れた。
ごしごしと服の袖でそれを拭き、口を開こうとして――
「――見つけたぞ、アリエス」
気付けば通り過ぎようとして黒塗りの馬車。
「っ!?」
そこから恰幅のいい男が顔を出していた。
「……さぁ帰ろう」
馬車から赤の鎧で身を固めた3人の護衛と共にアリエスたちの目の前に現れた男は特徴的な様相をしていた。
真っ赤な服装に、ある意味では似合っているくたびれた赤の髪にどこか暗さをもった赤い瞳。カエルのような潰れた顔としわがれていてかすれた声。お世辞にも一見の印象からして良いとはいえないだろう容貌をした40過ぎの男性、それこそがグロッツ・マルガリータその人だ。
「……」
アリエスはグロッツの言葉には答えずシルクとロイドに視線を送る。
シルクが穏やかに微笑み、ロイドがにっかりと歯を見せて笑む。その様子に少女も自信をもって頷き、答えた。
「いや、私はもうあんな酷いことしたくない。あんなこと手伝いたくないもの」
「……ほぅ?」
一瞬だけグロッツの目に残酷な光が宿る。
「うちのアリエスがこう強気な態度を見せるとは……ふむ、君たちのおかげかね?」
明らかに皮肉を込められた言葉だがロイドは持ち前の朗らかさというか天然さで純度100%の微笑みを向ける。
「いやー、この子がしっかりしてるからですよ」
はっはっは、と無駄に明るく笑うロイドだったがグロッツの護衛から急激に突き込まれた剣先に慌ててその身を翻した。ロイドの服をわずかに切り取るだけに終わったその剣先はゆっくりと護衛の鞘へと戻っていく。それをロイドは流石に険悪な視線で睨みつける。
「……どういうつもりだい?」
今のは危なかった。もちろんロイドが油断していたからというのも大きいが、それでも十分に鋭い一撃だった。シルクなら下手をすれば死んでいておかしくないものだ。
自然と口調が厳しくなるのも無理はないだろう。
「いやなに、アリエスが信を寄せるからにはどれほどの実力を持っているのかと思ってね……なるほどなるほど、彼の一撃を避けるとは金髪に金の瞳は伊達ではないといったところかな?」
全く悪びれもしないグロッツにロイドは困ったように笑う。
「ふむ、あの程度の一撃で僕の実力を測れるとは思えないけどね」
ロイドは良くも悪くも単純明快な人間だ。この言葉は嫌味でもなんでもなくただ事実。たしかに鋭い一撃で、シルクなら死んでもおかしくないほどの一撃だった。だがそれだけ。シルクは後衛の魔法使いで、ロイドからしてみれば警戒心0の状態だったのだ。それを咄嗟に避けて服一枚で済んだのならばまだまだロイドからしてみれば甘いと思わざるを得ない。
「……っ!」
ロイドの言葉に殺気をまきちらしたのはもちろんロイドに剣先を突き入れた護衛の人間だ。今にも襲い掛からんとばかりの殺気をまきちらす護衛をグロッツは手で制して笑う。
「これでもこの都市を拠点に動く冒険者の中では五指に入る実力者なんだがね」
「それにして、はっ……いえなんでもないです」
――弱いんだね。
といいかけて慌てて口をつぐんだ。本来のロイドならそれこそ無遠慮に言ってしまうところだがシルクに足を踏まれたからだ。
ジト目でシルクを睨むロイドに、シルクはもっと恐ろしい形相になってそれを睨み返す。反射的に視線をそらしたロイドにシルクはため息を吐いて口を開いた。
「グロッツ卿、今は私たちがこの子の身の安全を保証していますのでここはご遠慮いただきたいのですが」
遠まわしの『帰れ』通告にグロッツはその恰幅のいい体を揺すって笑う。
「ブハハハ、君達のようなどこの馬の骨ともわからない人間にアリエスを任せてかどわかされでもしたらどうするんだね、交渉術をしっかりと学んでから私に交渉をもってきなさい」
「……くっ」
正論過ぎて反論できない。悔しげに唇を噛み締めるシルクをわき目にロイドが口を挟む。
「まぁ、アリエスが帰りたいって言わない以上僕たちがアリエスを手放すことなんてありえないけどね」
挑戦的にグロッツを睨みつけるロイドに、やはり護衛がいきり立とうとして「ふむ」とグロッツが、自分の肉まみれの顎に手を置いた。
「あいつはお前に会えなくて寂しがっているぞ?」
「っ!?」
――あいつ?
明らかにアリエスの背が震えた。あいつとは誰だろうと首を傾げるシルクとロイドを傍目にグロッツが言葉を続ける。
「あいつにとって今やお前だけが信頼できる人間なのだ、それはお前もわかっているだろう」
「ぅ」
青い顔になっておろおろとするアリエスの態度の意味がわからないが彼女にとって大切ななにかなのだろうということは二人には容易に想像できた。
顔を見合わせて意思疎通。アリエスがなにかを言う前にロイドが先手を打った。
「わかった……アリエスもその『あいつ』とやらが気になるようだし、僕たちもついていこう」
「え!?」
流石に驚いた表情で固まるアリエスに、今度はシルクが笑いかける。
「そうね、私たちがいればアリエスも辛いことなんかないでしょうし」
「最悪の場合は僕たちが強引にでも屋敷から連れ出す……これでいいかい?」
明らかにグロッツにも聞こえる声量だがグロッツたちは何の反応もみせずにいる。彼らからしてもたった二人の人間の戯言なのだ。真面目に聞くのも馬鹿らしい発言だろう……もちろんロイドは真面目に言っているのだが。
「……うん、ありがとう!!」
「話はまとまったかね? 君たちを我が屋敷に連れて行くのは少しばかり心外だがこれも娘のためだ……よかろう、着いて来たまえ」
そのままグロッツとその護衛たちは馬車に入らずに歩き出した。
どこか不安そうなアリエスの背をぽんぽんと叩き、ロイドとシルクは警戒心を高めつつもその後をついていくのだった。
大の男が一人、地面と平行に吹き飛ばされた。
それを皮切りに襲い掛かる男たち、その間隙を縫って放たれる様々な魔法。それら全てを潜り抜け、時には敵の体そのものを盾として相手の攻撃をやり過ごしていた。
一撃必倒。
すれ違いざまに首筋に手刀を打ち込んで意識を奪う。相手の剣を紙一重でかわすついでにそっと進行方向をかえてやる。それだけでその振られていた剣が別の人間に突き刺さる。相手が殴りかかってきたならその懐の潜り込んで魔法攻撃の壁になってもらう。徐々に警戒心を高めていく敵たちの中、四方からの一斉攻撃。いや、上空からの魔法も含めて五方からの一斉攻撃。
ただし、一斉攻撃といってもコンマ数秒のズレはある。そのズレを利用して一人一人殴り倒していく。
これはそう……相手には少し失礼な言い方をするならば作業。
淡々とその作業をこなすことによってあらかたの雑魚は気絶させた。残りは4人。全員が全員とも腕利きといっても過言ではないレベル。
「お前、強ぇな……だが俺たちを今転がってる雑魚どもと一緒にするなよ?」
そういって不敵に笑うのは4人の中でもおそらくリーダー役なのだろう
「……」
――雑魚じゃないことくらいはわかってる。
と、心の中では返事をしておく。
別に無視してるとかそういうわけじゃない。隙を見せる余裕がないだけだ。というか後ろで後衛がなんらかの詠唱をしている。リーダー役の男が話しかけてきたのは少しでも俺の隙を作りたいとかそういった理由も兼ねているはずだ。
「け、愛想のねぇやろうだ」
ツバを吐き捨ててわざとらしく戦闘態勢に入る。高まる緊張感にこちらも警戒を高めていく。
「さぁ、いくぜ!」
二人が前に出て二人が後ろに下がった。
――前衛二人に後衛二人……いや、後衛一人と後衛の護衛に一人か。
後衛が魔法を解き放つ。
魔法でもあらゆる応用が利くとされる水系の魔法。
視界一杯に広がる青の景色に、だがこの程度で怯む必要はない。
「消失」
魔法を消す魔法を小さく唱え、そのまま突き進む。相変わらずの猪戦法だが残念なことに俺に許される戦闘は近接のみだ、仕方ない。
ただ相手は相手でまさか魔法の中を突き進んでくるとは思っていなかったのだろう。驚きの表情と隙だらけのその仕草。
簡単に懐に潜り込めた。
慌てて剣を振るおうとしているその男の腹に拳を入れようとして、ふと影を感じた。
「!」
なにかに気付いて、だがその影のせいで後退するのも面倒なのでとりあえずはそのまま拳を目の前で剣を振るおうとしている男の顔面に叩き込んでこれで残り3人。そのまま上から降ってくるリーダー役の男の斧が俺の頭へと振り下ろされた。
今までの俺の動きから決して避けられないタイミングと読んでいるのだろう。顔には仕留めた、という表情がありありとうかんでいる……が、それは罠。
一つギアを上げて動く。
相手からすればもう俺にはどうしようもないタイミングだったはずのその斧の柄へと手を添え、一歩前進すると共に、後衛がいる場所へと振るう。その動作で、斧が面白いくらいの勢いで弾き飛ばされた。
「ひっ!?」
そのまま後衛の杖を両断して壁に突き刺さる。なにが起こったかわかっていない様子のリーダーの足を払い、僅かに浮いた体に拳を振り下ろして彼の体を大地にたたきつけた。
「……が」
血を吐き出して動かなくなったそのリーダーの男を放置して、後衛の護衛役へと全力で踏み込む。後衛の護衛役がそれに合わせてカウンターの要領で振り下ろそうとしていたショートサーベルを手刀で叩き割り、掌底をぶちこんだ。
そのまま地面と平行に吹き飛び、慌てて詠唱に入っていた後衛を巻き込んで壁に叩きつけられる。
これで終了。
時間にして10分弱だろうか。あとは彼らを追いかけるだけだ。この分ならそこまで時間もかからずにあの3人を見つけられるかもしれない。
人目がなくなった路地でオープンフィンガーグローブと仮面を懐に隠してシルクたちの後を追う。
「人に聞いたらわかるかな?」
金髪二人と赤髪一人だ。自然と目立つ組み合わせだろう。そう思ってその辺の人に尋ねてみた。と、予想通りにすぐさま知ってる人間に出会った。
「マルガリータ様と一緒に歩いていたな、そういえば」
「……え?」
耳を疑った。
「ど、どこへ行ったかとかは?」
「ああ、あの方向だとマルガリータ様の家だろ」
「そ、そうか……ありがとう」
どうにか教えてくれた人にお礼をいって別れる。
マルガリータ邸に殴りこまないっていっただろうが! っていう文句が頭の中に浮かんだけどその瞬間にロイドの言いそうな言葉が浮かんできた。
――殴りこんだわけじゃない、招待されたんだ。
「うううぅぅおおおおおおおおぉぉ」
任務中なのにこんな声を出したのはいつ以来だろうか。
ああ、もう。ほんとにどうしようか。
カンボット都市の中では圧倒的な大きさを誇るマルガリータ邸。
大きなその敷地内はあらゆる豪奢な施しがなされていて、見ているだけで荘厳さを感じさせる。趣味のいい金持ちがその財力を駆使して集めた金銀財宝あめあられ。金持ちであり過ぎることと当主の人相以外は悪事に手を染めていなさそうなその敷地内、光の差さぬ秘密の地下室。
そこにドラゴンが横たわっていた。
サイズはまだ小さい。体長は人間でいう子供程度だろうか。
どこか神性を漂わせている黒い鱗は傷だらけで見ているだけで痛々しい。時折漏れる吐息は生きているのを疑いたくなるほどに弱弱しい。
どうにか暴れてやろうと体を揺するたびに足元の魔法陣が光を発して、ドラゴンの体を麻痺させる。
「グゥ」
諦めたような声が息と共に漏れ、それでもそのドラゴンは心の底ではもうとっくに諦めているのか悔しさすら滲ませない。
ドラゴンを閉じ込めてある地下室の隣室。ドラゴン側からは単なる壁だが隣室側から見ればくっきりとドラゴンの姿が見えている。マジックミラーならぬマジックウォールといったところか。
その一室でドラゴンを見ながらにやけている老人がいた。白衣に青髪、青の瞳。顔だけみればくたびれているだけだがその瞳に宿るものは決して尋常とは思えない感情のそれを秘めていた。
「ふむ、さすがはドラゴンだ。まだ生まれたてとは思えないほどにしぶとい生命力。あれだけ痛めつけられておきながらもまだあの最高クラスの魔法陣でも体を揺らすことが出来るほどの強靭な筋力と魔法力……く、ふふ。素晴らしい、素晴らしいな……これならあのお方へもいい結果が報告できそうだ」
一人でぶつぶつと呟きながらも手元の書類へ計算式をずらずらと書き並べていく。
――と。
コンコンと部屋にノック音が響いた。
「どうぞ」
入ってきた男――グロッツ・マルガリータ――は、見向きもせずに手を動かす彼の後ろ姿に苦笑した。
「相変わらずだな、クドシス……調子はどうだ?」
グロッツに声をかけられ、やっと白衣の男――クドシスは手を止めた。
「おや、グロッツ様。ええ順調ですよ。滞りなく、すべからく……全てが私の予測を超える数値をたたき出しております」
「うむ、それなら成功報酬も期待出来そうだな」
「えぇ、えぇ。まず間違いなく前金程度などはした金と思えるほどの金額になるでしょうな」
「ほ……あれがはした金になるとな……一体クドシスはどこの人間なのだ?」
その期待できる額面の大きさに想いを馳せ、愉快そうに目を細めはするもののふと湧いた疑問に首を傾げる。クドシスは首を横に振ってその答えをやんわりと拒否。
「おぉ、そうだったな……聞かないことも契約だったな」
一人で頷くグロッツの様子にクドシスはどこかほっとした様子を見せつつも「それより」と若干困った様相を示す。
「あと調べたいことは2項目ですが――」
「――わかっておる。感情爆発時による数値の変化、それに魔法レベルと肉体レベルが極めて高い男女の人間への生体実験だろう」
グロッツの即答にクドシスも嬉しそうに笑みを浮かべる。
「と、いうことは?」
「うむ、感情起爆剤を連れて帰るときに上手い具合に引っ付いてきおったわ」
「それはそれは……さすがはグロッツ様ですな、運すらも味方に引き入れるとは」
「なに、商人とはそういうものよ」
愉快そうに顔を見合わせて笑う。どこか狂気が混ざった彼らの笑い声に呼応する人間はいない。彼らの笑い声がどこか虚しく室内に響くのであった。