第1話 隣の猛獣
「ピロン」
無機質な通知音が、深夜二時の静寂を鋭く切り裂いた。
俺、赤坂湊は、せんべい布団の上で跳ね起きる。反射的に枕元のスマホを掴み、ブルーライトに目を細めながら画面を確認した。
そこには、俺が利用している小説投稿サイト『ノベル・ユニバース』の通知が表示されていた。
『LUNAさんが、あなたの作品「君と透明なサイダー」に10,000ptのギフトを贈りました』
「……またかよ」
俺は深く、重たい溜息を吐いた。
10,000ポイント。円換算でおよそ1万円。
高校生にとって、それは遊びで使える額じゃない。新作のフルプライスゲームを買って、ファミレスで豪遊してもお釣りが来る。
それを、たった数分で読み終わるテキストデータなんかに。
送り主の名前は『LUNA』。
アイコンは初期設定のままのグレーの人型。プロフィール欄は白紙。
分かっているのは、このユーザーが俺の小説――『白兎』というペンネームで書いている、甘ったるい純愛小説の熱狂的なファンであるということだけだ。
「今月だけで、もう三万だぞ……」
俺は天井のシミを見つめながら呟く。まだ月半ばだというのに、更新するたびに万札が飛んでくる計算だ。
俺の小説は、書籍化もしていない底辺作品だ。内容は、恋愛経験ゼロの俺が妄想だけで組み上げた、触れたら壊れそうなほど繊細で、現実味のない純愛ストーリー。
クラスの奴らが読んだら、「寒気がする」「童貞の妄想乙」と鼻で笑うような代物だ。
だが、この『LUNA』という読者だけは違った。
更新するたびに、長文の感想とともに、上限額のポイントを投げ銭してくる。
『更新お疲れ様です。主人公の心の動きが尊すぎて、涙で画面が見えません。暖房費の足しにしてください』
そんなコメントと共に添えられた一万円。
俺は震える指で、『ありがとうございます。大切に使わせていただきます』と定型文のような返信を打った。
LUNAさん。あなたは一体、何者なんですか。
深夜にネット小説を読み漁り、無名の高校生作家にポンと万金を投じる富豪。
俺の脳内では、ワイングラスを片手にバスローブを羽織った、孤独なIT社長か何かが想像されていた。
まさかその正体が、俺の生活圏内にいるとは夢にも思わずに。
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翌朝。
県立鏡花高校、二年三組の教室は、いつものように騒がしかった。
俺は教室の後ろの扉から、誰にも気づかれないようにそっと入室する。空気のように席に着き、カバンから教科書を取り出す。これが俺の処世術だ。
だが、俺の平穏は、右隣の席から放たれる圧倒的なプレッシャーによって常に脅かされている。
「あー、マジだりぃ。なんで一限から古文なわけ? 平安貴族とか全員暇人だろ」
気怠げな声と共に、甘いバニラの香水の匂いが漂ってくる。
隣の席の主、月島瑠奈。
長く巻かれた明るい金髪。スカート丈は校則違反ギリギリの短さ。耳にはピアスが揺れ、指先にはネイルアートが施されている。
スクールカースト最上位に君臨する、正真正銘のギャルだ。
地味で陰キャな俺とは、住む世界どころか、吸っている酸素の成分すら違う気がする。
「……」
俺は極力、彼女の方を見ないようにして視線を黒板に固定した。
関わったら死ぬ。野生の勘がそう告げている。
月島は机の上に足を投げ出し、教師の目など気にも留めずにスマホをいじっていた。長いネイルが画面を叩く音が、カチカチとリズミカルに響く。
(授業中だぞ……よくやるよな)
内心で毒づきながら、俺はシャーペンを走らせる。
その時だった。
不意に、月島が「ッ……!」と小さく息を呑む音が聞こえた。
カチカチ、というタップ音が止まる。代わりに、貧乏揺すりのように机が揺れ始めた。
何事かと思い、俺は恐る恐る横目で彼女を盗み見た。
彼女は、スマホを両手で拝むように持ち、画面に顔を近づけていた。
その表情は、普段の威圧的なそれとは違った。頬を紅潮させ、眉をハの字に下げ、今にも泣き出しそうなほど切実な顔つきだ。
そして、そのスマホの画面が、俺の視界に入ってしまった。
――え?
俺は目を疑った。
彼女が見ていたのは、インスタグラムでもTikTokでもない。
白地に明朝体の文字が並ぶ、見慣れた画面。
俺が昨日更新した、『君と透明なサイダー』の最新話ページだった。
(は……? うそだろ?)
心臓が早鐘を打つ。
月島瑠奈が? あのギャルが?
俺の書いた、「図書室で指先が触れ合って赤面する」みたいなベタ甘な小説を読んでいる?
いや、偶然だ。たまたまリンクを踏んだだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせようとした瞬間、彼女の親指が動いた。
画面の下部にある『ギフトを贈る』ボタンを迷いなくタップする。
表示された金額選択画面で、彼女は一番右端にある最高額ボタンを一回、力強く押し込んだ。
『10,000ptのギフトを送信しました』
画面にポップアップが表示される。
同時に、俺のポケットに入っていたスマホが「ブブッ」と重たく震えた。
「…………尊い。無理。しんど」
月島が、消え入りそうな声で呟いた。
その声は、普段のドスの効いた声とは似ても似つかない、熱に浮かされたような甘い響きを含んでいた。
彼女は画面に向かって、祈るように、あるいは懺悔するように続ける。
「白兎先生……生きててくれてありがとう。マジ神。同じ時代に生まれてこれてよかった……」
俺の手から、カランとシャーペンが滑り落ちた。
乾いた音が、教室に響く。
その音に反応して、月島がバッとこちらを向いた。
泣きそうな顔は一瞬で消え失せ、いつもの鋭い眼光が俺を射抜く。
「あ? 何見てんの?」
低い声。睨みつける瞳。
俺は全身の血の気が引くのを感じた。
バレたか? いや、まさか俺が作者だとは思うまい。
だが、見てしまった。
彼女の「秘密」を。そして、俺の「パトロン」の正体を。
「い、いえ……シャーペン、落としちゃって……」
「チッ。うっせーな。ジロジロ見てんじゃねーよ」
月島は舌打ちをして、再びスマホに視線を戻した。
そしてまた、うっとりとした表情で画面をスクロールし始める。
「はぁ……ここの改行が天才なんだよなぁ……」
俺は震える手でシャーペンを拾った。
どうする。どうすればいい。
俺の生活を支えてくれている「LUNAさん」は、隣の席の、一番苦手なギャルだった。
しかも、俺の書くポエムみたいな心理描写を「天才」と崇めている。
もし。
もし万が一、俺が『白兎』だとバレたら?
『は? お前みたいな根暗が書いてたの? キモすぎ。金返せ』
そんな罵倒が飛んでくる未来しか見えない。
幻滅される。確実に社会的に死ぬ。
俺は心に誓った。
墓場まで持っていこう。俺が白兎であることは、絶対に、何があっても、彼女にだけは悟られてはいけないのだ。
「……ねえ」
不意に、横から声が掛かった。
ビクリと肩を震わせて振り返ると、月島が頬杖をつきながら、探るような目で俺を見ていた。
「赤坂、だっけ」
「は、はい」
「あんさぁ、現代文の成績、良かったよな」
「え……まあ、それなりには」
「ふーん……」
彼女は長いネイルで、トントンと自分の唇を叩いた。
何かを値踏みするような視線。
そして、爆弾のような一言を投下した。
「あたしにさ、国語教えろよ」
「……はい?」
「赤点ヤバいんだわ。留年したらバイト禁止になんの。そしたら……推しに貢げなくなる」
最後の一言は、自分に言い聞かせるように小声で呟かれた。
「放課後、図書室な。バックレたら殺す」
拒否権はなかった。
俺は引きつった笑顔で頷くしかなかった。
こうして、俺と、俺の太客との、地獄のような放課後が幕を開けることになったのだ。




