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月の落ちる夜に

作者: 黒猫喫茶
掲載日:2026/01/30


屋上のフェンスが月光を反射して、銀の輪郭を帯びている。

屋上のコンクリートを蹴る。足裏に、硬い手応え。


地面を離れる刹那、砂がこぼれるような心許なさが足を掠めた。

目の前に浮いた埃の粒が、踏み出した足先の動きをなぞるように揺れ、そのまま動きを止める。

その様子を、少年は呆然と見ていた。


肺を満たす空気は薄く、吸い込むたびに胸の奥が冷える。

フェンスの根元に絡まったビニールの断片が、浮き上がろうとしてはコンクリートに叩きつけられている。

上昇から取り残されたその破片だけが、色彩を剥ぎ取られた世界のなかで乾いた音を繰り返していた。


記憶の底には、絶えず国道を走る車の音や、誰かの話し声が残っている。

いまはそれらすべてが遠く、代わりに熱を奪われた輝きが周囲を満たしていた。


「月が、綺麗ですね」


少年の声は思ったよりも軽く、夜気の中にほどけて消えた。

隣に立つ少女は、その言葉を共犯者のような沈黙で受け止める。

答えの代わりに、彼女は天を仰いだ。


風もないのに制服の裾が上向きに捲れ上がる。

少女は細い指で、その布を押さえた。



二人は階段を一段ずつ、夜の底へ沈むように降りていく。

誰もいない昇降口を抜け、校舎を背にして街路樹の続く道へ足を踏み出した。


かつては重く湿っていたアスファルトが、今は靴底に確かな感触を返さない。

街路樹からこぼれた枯葉が地表に触れることなく、少年の目の高さで滞留していた。


足はときおり不自然な軽さを帯び、忘れた頃に遅れて着地する。

一歩ごとに浮き上がりそうになる身体を、少女は靴先を擦らせ、地面を確かめるように歩いていた。


「どこまでも、どこまでも、一緒に行こう」


少女の声はわずかな重みを残して夜気に溶けた。

彼女のローファーの踵は、コンクリートを叩くはずの音をもう返さない。


「ああ、どこまでも行こう」


少年の言葉とともに、身体を縛っていた重さが少しずつほどけていく。

少女の足元では、路面から剥がれた小さな礫が数センチ宙に浮いたまま揺れていた。

彼女はそれを爪先で軽く弾き、ゆっくりと遠ざかる影を見送った。



公園の入り口に辿り着く頃には、足はもはや地表をなぞるだけの存在になっていた。

砂場の砂は、誰かが波紋を描いたその形のまま動きを止める。


少年は腰の高さまで浮き上がっていた公園のベンチを無理に引き寄せ、重さを失った座面へ少女を促した。

かつては二人の体重を受け止めていた四本の脚は、今はどこにも触れることなく宙に向かって頼りなく伸びている。


ベンチは支えを失ったまま、それでも物であろうとして空気の中に留まっていた。

いまやこの街は、動くことを忘れた標本のように、地面の側に置き去りにされている。


空気はさらに薄くなり、輪郭だけが異様なほどはっきりと見えた。

誰の気配もなく、ただ淡く発光する粒子だけが視覚を静かに満たしていく。


「月夜の晩に、ボタンが一つ」


少年の声は肺に残ったわずかな熱とともに放たれ、途中で行き場を失った。


「どうしてそれが、捨てられようか?」


少女の言葉に、世界に溜まっていた濁りがゆっくりと薄まっていく。



ふっと、ベンチが物であることを諦めた。


世界が、底を抜いた。


張り巡らされた高圧電線の網が、白く細い線となって二人の足下から急速に遠ざかっていく。

もはや、浮遊ではなかった。


二人は巨大な空洞に吸い込まれる塵のように、天頂へ向かって落ち始めた。

肺が薄い空気を求めて軋み、喉の奥で鉄の味がした。


激しく脈打つ鼓動が視界の端を断続的に明滅させる。

砕け散った街灯の硝子片が二人を追い越し、夜の底へと零れ落ちていく。


見慣れた街が足の下へ、恐ろしい速度で沈んでいった。

二人はただ、その遠ざかる残光を瞳に焼き付けていた。


「百年待っていて下さい」


少女の囁きは意味を伴わないまま、耳朶を震わせた。

二人のあいだで、その言葉だけが取り残される。


「百年はもう、来ていたんだな」


少年の声から絞り出すような震えは消え、言葉はただの音として宙に抜けていった。

彼女の傍らを、世界との繋がりを断たれた礫が弾丸のような速度で追い越していく。



視界のすべてが影のない白に占められていた。

逃れようのない白が、圧倒的な速度で二人を塗り潰していく。


少年は落下する少女を力強く引き寄せた。

砕けそうなほど、その細い肩を抱きしめる。


腕の中で骨がきしむ。

首筋を、汗が、濡らす。


布越しに伝わる激しい鼓動が、少年の胸を何度も打った。

衝突にも似た加速のなかで、二人の体温だけが互いの存在を確かめる唯一の手触りだった。


肺の奥で最後の吐息が凍りつく。

その静かな終わりに、少年は意識を沈める。


「月が、綺麗だ」


少年の声は密着した体温と混ざり合い、少女の内側へと溶けていく。

抱きしめた腕の中で、彼女の熱だけが白を押し返すように残っていた。


少女が少年の背に腕を回す。

視界いっぱいに迫る、白。


「死んでもいいわ」


少女は笑い、

すべてが、白に。


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