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聖域

作者: 吸坂路庵
掲載日:2026/01/13

本作は異世界を舞台にした風刺短編です。

特定の個人・団体を貶める意図はありませんが、シニカルな表現を含みます。

 旗が増えると、景気が悪くなる。私の経験則だ。

 旗は燃えるし、燃えると片付けが必要で、片付けには金がかかる。金は税から出る。税は空から降ってこない。胃から出る。

 私はルカ。ルグリオ伯領の徴税官補佐で、つまり領内の不幸を数字に換算する係だ。人が怒っているか、泣いているか、あるいは騒いでいるか。そういうものは、最終的に帳簿に記録される。

 春先、庁舎の窓の外が妙に騒がしい日があった。

 暴動かと思ったが、暴動にしては太鼓のリズムが良い。窓辺に立つと、広場に蒼い外套が溢れていた。旗、太鼓、顔色まで蒼い。統一感があるのは救いだ。面倒が一色にまとまる。

 先頭の男が腕を振り上げて叫ぶ。

「我ら蒼詠民! 十二番目の戦士!」

 後ろの連中が唱和する。

「誇り! 魂! 文化!」

 私は窓を閉めた。音が半分になった。半分でも十分だった。

 ちょうどそのとき兵士が廊下を走ってきた。

「ルカさん! 例の……蒼詠民が……」

「分かってる。中に入れるなよ。机が壊れる」

「もう入ってます」

 私は深呼吸をした。

 机が壊れる程度ならまだいい。壊れるのが予算でないことを祈るばかりだった。

 会議室には伯爵と側近数名、そして蒼詠民が二十名ほどいた。椅子の数に合わせたのだろう。行政は公平だ。公平に迷惑を配分する。

 蒼詠民の中心に、教祖めいた男がいた。顔つきは商人で、声量は演説家。厄介な取り合わせだ。

「徴税官補佐殿。お初にお目にかかる。アオ=サポルと申す」

「ルカです」

 握手を求める手が伸びてきたが、私は書類を抱えたまま動かなかった。手のひらは信用できない。帳簿の方が信用できる。

 伯爵が疲れた声で言う。

「ルカ。蒼詠民の要望を聞いてくれ」

「要望は聞きます。予算は聞きません」

 蒼詠民が笑った。悪い予感がした。

 アオ=サポルが胸を叩く。

「スタディオンの改修を求める」

「……昨年完成したばかりですが」

「完成していない」

「設計上は完成してます」

 アオ=サポルは、まるでこちらが大切なことを理解していない子どもを見ているような顔をした。

「芝が弱っている。魂が宿っていない。屋根が必要だ。照明が必要だ。貴賓席が必要だ。世界基準が必要だ」

 世界基準と聞くと、私は財布を確認したくなる。世界は高い。

「順番に伺います。なぜ屋根が?」

「雨が降るからだ」

「雨は止められません」

「止める必要はない。覆えばいい」

 蒼詠民が一斉に頷いた。頷きは無料だ。だから濫用される。

 私は紙を一枚めくる。

「では改修費は誰が負担しますか」

 待ってましたとばかりに蒼詠民の一人が叫ぶ。

「税金だよ税金!」

 別の者が続く。

「俺たちがこの街を盛り上げてる!」

「経済効果!」

「巡礼者が来る!」

「飲む! 買う! 歌う!」

 私は伯爵の方を見た。

「閣下。現状確認をしてよろしいですか」

「……言え」

 私は別の書類を出した。施設利用規程だ。行政文章はたいてい退屈だが、退屈だからこそ嘘が混じらない。

「スタディオンは公費で建てた公共施設です」

 アオ=サポルが頷く。

「その通りだ。市民のための聖地だ」

 “聖地”と“公共”を同じ口で言えるのは才能だと思う。

「公共施設なので、一般利用枠を増やす必要があります。週末は少年団、平日は学校、夜は市民開放――」

「待て」

 アオ=サポルの声が硬くなった。

「ゴール裏は我らの場所だ」

「……公共施設ですが」

「我らの文化が壊れる」

 蒼詠民が一斉にざわついた。

「聖域だ!」

「俺たちの場所!」

「旗が立つ!」

 私はしばらく黙ってから言った。

「つまり、公費で建てた公共施設を、蒼詠民が優先的に独占する、という理解でよろしいですか」

 アオ=サポルは一拍置いて、胸を張った。

「当然だ。我らが十二番目の戦士なのだから」

 私は頷いた。

「分かりました」

 伯爵が不穏な顔をした。

「分かったのか……?」

「はい。なら、十二番目だけで負担していただきます」

 会議室に沈黙が落ちた。

 理解が遅れたのではない。理解したくないのだ。

 私は一度、スタディオンの利用予定表を見せた。

 空白が目立つ。正確に言えば空白しかない。

 蒼詠民の“フットの儀”は月に二回。多い月でも三回。

 それ以外の二十八日は、芝のためだけに存在している。

 芝は生き物だ。生き物は使われるかどうかとは無関係に腹を空かせる。

 用水路の維持。害虫駆除。芝の霊薬。清掃。警備。結界術師の賃金。

 生きているのは芝だけで、金だけが毎日死んでいく。

 月に二回のために、毎日払う。

 私はその構造を見たとき、ようやく理解した。

 蒼詠民が本当に愛しているのは儀式ではない。

 儀式へ向かう自分たちの姿だ。

 だから月に二回で足りる。

 足りるくせに、金だけは毎日必要になる。

 私は会議室の机に向き直った。

「新税を創設します」

 アオ=サポルが目を細めた。

「新税?」

「はい。《誇り税》です」

 蒼詠民がざわついた。

 “誇り”という言葉に、彼らは反射的に反応する。犬笛に似ている。

「対象はスタディオン入場者。蒼詠民登録者。蒼詠民組合員。旗・外套・印章の購入者。チャント参加者」

 沈黙が降りた。

 アオ=サポルが、ゆっくり言った。

「……我らだけに払わせるのか」

「あなた方が欲しいと言ったものです。あなた方が使うものです。あなた方が誇りと言ったものです」

「文化は皆のものだ!」

「では皆が使えるようにします。一般開放枠を増やし、占有区画を廃止し――」

「待て!」

 蒼詠民が同時に叫んだ。

 理想の共有は好きだが、実利の共有は嫌いらしい。

「公共施設なんだろ!」

「はい」

「なら、俺たちの席は守れ!」

 私は頷いた。

「席は守ります。税は増えます」

 蒼詠民の顔が歪んだ。魂が課税対象になったとき、人は歪む。

 伯爵が深く息を吐いた。

「制定しよう」

 蒼詠民は机を叩き、椅子を蹴り、旗を振った。

 伯爵家の机は頑丈だが、心はそうでもない。

 誇り税の公布から一月。

 スタディオンの入口には掲示板があり、税率表が貼られている。

 それを見た蒼詠民は、黙って踵を返す。

 口では何か言う。

「政治が悪い」

「腐ってる」

「文化を殺すな」

 殺しているのは政治ではない。請求書だ。

 ただ、誇り税の前から蒼詠民は減り始めていた。

 税は引き金に過ぎない。

 彼らは「仲間を増やす」と言う。実際に増えていたのは仲間ではなく敵だった。

 たとえば、町の仕立て屋。

 彼女は蒼詠民ではない。興味がないというだけで、悪意も敵意もない。

 それを蒼詠民は許さなかった。

 ある日、庁舎に苦情が届いた。私は仕事として本人から話を聞いた。

「蒼詠民に絡まれました」

「どう絡まれました?」

「青い外套を着ろって。仕事中に」

「断った?」

「断りました。そしたら『誇りがない』って」

 彼女は泣きもしなかった。泣くほどの価値もないという顔をしていた。たぶんそれが一番効く。

 別の日にはパン屋の主人が来た。

「チャントを覚えろって言われた」

「覚えないと?」

「敵扱い」

 敵扱い。便利な言葉だ。相手が何もしていなくても敵にしてしまえば叩ける。

 彼らはライト層が必要だと言いながら、軽さを憎んでいた。

「ニワカは消えろ」

「本気じゃない奴はいらない」

「魂がない」

 そう言って追い出し、追い出した後で叫ぶ。

「人気がないのは政治のせいだ」

 政治は万能ではないが、言い訳としては優秀だ。

 私は来場者統計を見た。減り方は綺麗だった。

 まず家族連れが消え、次に恋人連れが消え、最後に残ったのは怒っている男だけだった。怒っている男が残ったというより、怒っている男しか残れなかった。

 アオ=サポルは言う。

「我らは選ばれし者だけでいい」

 そう言い出した瞬間、公共施設は終わる。公共とは選ばれない者のためにあるはずだからだ。

 私は帳簿を閉じて庁舎を出る。

 丘を越えると、別の場所の歓声が聞こえる。

 赤土の庭――棒で球を打つ、蒼詠民が「下品」と笑った遊戯の球場だ。

 彼らは昔、ここを指差して言った。

「棒で叩くのは野蛮」

「老人の遊び」

「商売の匂い」

 なるほど。商売の匂いはする。

 焼き団子の匂い。麦酒の匂い。炭火の匂い。子どもの汗の匂い。

 生きている匂いだ。

 赤土の庭は、だいたい毎日使われている。

 日が沈む前に一試合。

 仕事終わりに一試合。

 負けたら悔しい。勝てば酒がうまい。

 それだけで回る。

 ここには「月二回の尊さ」はない。

 その代わり「毎日の当たり前」がある。

 当たり前は地味だが強い。地味だから続く。

 入口の木札には利用予定が書かれていた。

「本日:昼 少年団/夕方 町内戦」

「明日:学校利用/夜 市民開放」

「道具貸出あり」

 市民開放。私はその四文字を見て少しだけ安心した。公共とは本来そういうものだ。

 税で建てたなら、税を払う人間が使う。

 驚くほど単純な理屈だ。

 蒼詠民のスタディオンには、それがなかった。

 税で建てて、税で維持して、税で警備して、税で掃除して。

 それでも「ここは我らの聖域だ」と言う。

 公共の看板を掲げたまま鍵だけは握る。器用だ。

 打者が球を捉えた。

 乾いた音。

 カァン――。

 歓声が上がる。

 その歓声はどこか間抜けで、どこか優しい。整っていないぶん嘘が少ない。

 隣の髭面の男が私に酒を差し出してきた。

「ルカ、飲め。今日は打つぞ」

「仕事中です」

「仕事なんか明日でいい」

 私は断りながら少しだけ笑った。明日でいい仕事など、この世にはほとんどない。けれど、こういう場所ではそういう嘘が許される。

 男が丘の向こうを指差す。

「あの青い連中、最近見ねえな」

「税がね」

「税かぁ」

 男は少し考えて、当然のことのように言った。

「愛ってのは、金を出すことだろ」

 私は団子を噛んで飲み込み、頷いた。

 蒼詠民は愛を叫んだ。誇りを叫んだ。魂を叫んだ。

 そして支払いを叫ばなかった。

 ここにいる者たちは愛を叫ばない。

 ただ団子を買う。酒を買う。寄付をする。掃除もする。

 だから続く。

 掲示板には紙が貼ってある。

「外野フェンス修繕 寄付のお願い」

「今季の道具代 協力者募集」

「来週:草むしり」

 署名欄はもう埋まっていた。私は最後の空白に名前を書く。

 丘の向こうのスタディオンを見た。

 世界基準の芝は今日も青い。完璧に整っている。

 ただ、誰も踏まない。

 公共とは、誰のものでもないという意味ではない。

 誰のものでもあるという意味だ。

 公費で建てた施設を旗で囲んで「聖域」と呼ぶ連中がいる。

 あれは文化ではない。単なる独占だ。

 私は帳簿の端に小さくメモをした。

 ――文化は叫ぶものではない。

 ――払えるものだけが残す。

 丘の下からまた乾いた音が聞こえる。誰かが打ったらしい。歓声が上がる。

 その歓声は、この街に残り続けるだろう。

 スタディオンの芝は嘘をつかない。

 嘘をつくのは、いつだって人間の方だ。

 そして、聖域は今日も静かだった。

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