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アメリカ合衆国大統領の憂鬱

 記者会見直前:大統領執務室/準備室にて

 


 アッシュ・タイムフィールドは、

 ホワイトハウス執務室の窓辺に立ったまま、

 しばらく動かなかった。


 昨夜――

 国家がどこかへ移動した瞬間から、

 十数時間経っている。


 机の上には紙の資料が山積みだが、

 どれも断片に過ぎない。

 衛星は沈黙し、国境は消え、

 国家の外側に何があるのかすら分からない。


 大統領としてこれ以上に情報不足の朝を迎えたことは一度もなかった。


 だが、その表情には焦りはなかった。

 むしろ静かで、冷たく、計算された思考だけがあった。


 ――「合理王。」


 かつてメディアが揶揄混じりにそう呼んだ渾名を、

 彼自身は嫌ってはいない。


 状況が混乱すればするほど、

 「合理性」だけが唯一の武器になる。

 感情は国家を救わない。

 論理だけが国を守る。


 それを最も理解しているのが、

 アッシュ・タイムフィールドという男だった。


 扉がノックされ、

 国家安全保障問題担当補佐官(NSA)が入室する。


「大統領……会見の準備が整いました。

 報道陣はすでに全員揃っています」


「……そうか」


 アッシュはゆっくりと振り返った。

 目は疲れている。だが決断の色は濁っていない。


「念のためもう一度、発表内容の最終確認だ」


 補佐官は頷き、タブレットを差し出す。


「国民向けメッセージは完全に抽象的に統一しました。

 ――衛星通信の広域障害

 ――国際回線の断絶

 ――国内の安全は確保

 ――軍は機能している

 ――誤情報に注意

 以上のみです」


 アッシュは一言も挟まずに聞いた。

 表情には微かな影すら浮かばない。


「……異世界については?」


「当然、触れません。

 U-2で確認した大陸も、人工構造物らしき影も、

 レーダー照射も――

 すべてトップシークレット扱いです」


「よろしい」


 アッシュは手にしていた資料を一枚、ぽんと机に置いた。


「国民を守る方法は二つだ。

 1つは「真実を伝えること」。

 もう1つは「真実を隠すこと」だ」


 言葉は静かだった。

 だがそこには確かな信念があった。


「アメリカ合衆国に必要なのは基本的には後者だ。

 不安は伝染する。

 混乱も伝染する。

 最悪、国家そのものが伝染で崩壊する」


 補佐官は深く頷いた。

 タイムフィールドの判断は、

 誰よりも冷静で、誰よりも重い。


 アッシュは再び窓の外を見た。


 ワシントンの空は青く澄んでいる。

 まるで昨日と何も変わらないように。


 だが分かっていた。

 この空の下にいる3億人は、もう“地球の住民”ではない。

 そしてその事実を知るのは、

 今はまだ政府の一握りだけだ。


「……国民に知られるのは、我々が対処を終えてからでいい」


 その言葉は、

 人々から神の手と呼ばれる国家運営の合理性が伺える瞬間だった。


 補佐官が言う。


「大統領、そろそろお時間です。

 報道陣が待っています」


 アッシュは深く息を吸い込んだ。


「行こう。

 いま必要なのは秩序を保つ言葉だ。

 真実はその後でいい」


 合理王は歩き出した。


 世界が崩れていこうとも、

 彼の歩みは揺らがなかった。

 


  *     *

 


 ホワイトハウス西棟から東館へ続く廊下は、

 いつもより数度、空気の温度が低く感じられた。


 足音が静かに響く。

 アッシュ・タイムフィールドは、警護のSPと補佐官を伴って歩いていた。


 廊下の壁には歴代大統領の肖像画が並ぶ。

 ワシントン、リンカーン、ルーズベルト、ケネディ、レーガン――

 誰も経験したことのない危機が、今この男の足元にある。


 廊下の先に記者が詰めかけているのが見えた。


 イーストルーム前では、

 各局の記者たちが押し合いながらマイクやカメラを準備している。

 焦燥、緊張、そして恐怖が空気に混ざっていた。


「大統領! 大統領!」

「情報は出せないんですか!?」

「昨夜起きた現象について一言だけでも!」


 SPが静かに手を上げ、

 記者たちを押し止める。

 アッシュは足を止めない。

 ただ一瞬だけ、記者たちの目を見た。


 ――国民は恐れている。

 ――だが彼らには、まだ真実を告げられない。


 その事実が胸にひりつくように残ったが、

 彼の表情はまったく揺れなかった。


「ご退避をお願いします。大統領が通過します」


 SPの声とともに、廊下のざわめきは大きく波立つ。

 カメラのフラッシュがいくつも焚かれる。


 アッシュは歩き続けた。

 ホワイトハウスの床が、今この瞬間だけ重く沈むように感じられた。


 合理王は歩く。

 ――彼は知っている、国民の恐怖を背負った、国家を背負う重さを。


 イーストルーム横の小さな控室。

 薄いクリーム色の壁、古い木目のテーブル、

 大統領専用の簡易姿見。


 ここで、歴代の大統領たちは

 戦争、テロ、金融危機、災害――

 国家を揺るがす危機に直面した“言葉”を整えてきた。


 アッシュはネクタイを軽く締め直し、

 胸ポケットの小さなメモを一度だけ確認する。


 そこにはたった三行だけが書かれていた。


『国民の不安を抑えること』

『政府は機能していると伝えること』

『真実は、まだ早い』


 大統領報道官がドア越しに声をかけた。


「大統領、マイクチェックに入ります。

 壇上までご案内します」


「……分かった」


 アッシュは姿見に映る自分をじっと見つめた。


 目の下に薄い隈。

 極度の疲労が滲んでいる。

 だが眼光だけは鋭く、曇っていない。


 合理王アッシュ・タイムフィールドは、

 合理性の化身でありながら決して冷酷ではない。


 国民に真実を告げない罪悪感もある。

 だがそれでも――

 最悪から国民を守るなら、今は真実を引き延ばすことが合理だ。


(パニックは敵だ。

 混乱は国家を壊す。

 いま必要なのは秩序だ。

 真実は後でいい。

 後からいくらでも説明すればいい。

 国が壊れていなければ……)


 自分の内心に言い聞かせるように、

 アッシュは深く息を吸い込んだ。


「ready?」


 報道官の確認に、アッシュは頷いた。


 イーストルームの扉がわずかに開き――

 眩しいライトと、押し殺したざわめきが流れ込む。


 アッシュは一歩、壇上へ向かって歩き出した。


 合理王の表情に、一切の迷いはなかった。


 いま世界で唯一、国家を導くことのできる男

 ――その覚悟が、背中に宿っていた。


 


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