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夜が終わり、朝が来て、また夜が始まる。

作者: 櫻井入文

よろしくお願いします。




 昼間の透き通った青に白い雲のコントラストが美しい空は、夕暮れ時、燃えるようなオレンジと柔らかな紫が混ざり合い息を呑むほど鮮烈な色彩に染まる。


 凪いだ海の水面は、まるで溶けた金が揺れているかのようにきらめき。街の喧騒は何処か遠く、光塔から響く礼拝を呼びかける声が街全体へと広がる。


 乾いた風に乗って、誰かが爪弾くウードの調べが耳に届いた。


 砂漠に面した海辺の都、シラヴェーン。

 ボスフォレア海峡の潮風が街を撫でるこの都市は、千年の時が垣間見えると訪れる者を魅了する。






 広告代理店の海外支社で働く鴻上(こうがみ)江里香(えりか)は、三年前、仕事の都合でシラヴェーンに移り住んだ。


 大陸の東と西、異なる文化で発展した国々のちょうど境目となる土地に生まれた国、サルハン。その首都となるシラヴェーンは、東西の歴史と文化が交錯し、異なる時代と宗教が幾重にも折り重なり融合した独特の美しさを持つ場所となった。

 色彩豊かな街並み、寺院、聖堂、教会と異なる信仰を包容し、容認し、当たり前に共存する。


 同じ街に暮らしながら異なる言語、異なる文化。で、あっても。それらは争い、競い合うことなく人々の暮らしに馴染んでいた。


 それこそが、この街が歩んだ長い歴史の記録。


 多宗教、多民族という善き渾沌(サラダボウル)に最初は戸惑った江里香だが、昼と夜では異なる風貌を見せるこの街に、徐々に魅了されていく。特に、夜のシラヴェーンには、どこか人を惑わす魔力が宿っていた。


 今、彼女は、この街の喧騒と静寂の両方を愛している。








 ◇








 その日、江里香は休日の午後を自室で過ごしていた。


 窓の外に見えるのは、遠くにそびえる石造りの細長い塔と、空を舞う鳩の群れ。


 休日のルーティンである掃除をしていた彼女だが、なんとなくの思い付きで模様替えを始め、半日かけて今に至る。


 最後の大物だとツーシーターのカウチを移動させようとして、元の場所から引っ張り出すと、ソファーの背と壁の間に挟まっていたらしい何かが落ちる音を聞いた。


「えっ、なに?」


 訝しみ、ずらした隙間に体を押し込んで床へと手を伸ばす。指先に何か硬いものが触れた。


「もぉ……す、こしっ。……取れた!」


 隙間に挟まっていたのは、くしゃっと潰れた煙草の空き箱だった。側面に描かれた銘柄のロゴが、陽光に照らされて鈍く光る。


「…………」


 それは見慣れたものであり、今は見ることのなくなったもの。


 彼女の胸に、ざらりとした記憶が蘇る。


 数ヶ月前まで、江里香の夜を彩った一人のフランテール人。


「…………リュカ」


 リュカ・ペレーズ。


 行きつけのバーで出会い、軽い挨拶から始まった関係は、まるでシラヴェーンの夜風のように、熱を帯びながらもどこか儚く過ぎ去っていった。


「……ゴミは、ゴミ箱に捨てなさいよ」


 窓の外、夕暮れに染まり始めた空は、程なく夜の色へと変わるだろう。








 □







 江里香がリュカと出会ったのは、ベヨル地区の小さなバー『サルタナ』でのことだった。ガラスランプから溢れる琥珀色の光と赤い照明が仄かに灯る店内は、ジャズのメロディと煙草の煙で満たされていた。カウンターに座り、グラスの中で揺れるジントニックを眺めていた江里香に、突然、男が話しかけてきた。


「こんな素敵な女性が一人で飲んでるなんて、シラヴェーンも罪な街だな」


 江里香は顔を上げ、隣に滑り込んできた男に視線を向ける。


 彫りの深い顔立ち、軽くウェーブした金髪、そして少しハスキーな声。どこか遊び心のある笑みには、軽やかな自信が見え隠れする。

 フランテール訛りの英語が、耳に心地よかった。


「罪なのは街じゃなくて、あなたの口じゃない?」


 シラヴェーンの夜は出会いに満ちているが、だからこそ軽薄な男も多い。


 江里香が軽く笑って返すと、彼は軽くグラスを掲げ、微笑んだ。


「ハハ、なら罪深い迷える子羊の告悔を聞いてくれるかい。聖女さま」

「内容によるわね」

「厳しいな。俺はリュカ。よろしく、レディ……」

「エリカ。よろしく、リュカ」


 その夜、二人はカウンターで肩を並べ、グラスを傾けながら話を続けた。リュカはフランテールの小さな町出身で、貿易会社の仕事でシラヴェーンに駐在していると言う。


 江里香も似たようなものだ。異国の地に訪れた者同士、どこか気が合ったのかもしれない。

 彼の語るボスフォレアの夕暮れの美しさ、砂漠の星空、家族や仲間同士でテーブルを囲むと披露される情熱的な民族舞踊。どれもが共感を呼び、彼の話に引き込まれていく。


「シラヴェーンは、恋の街だよ。東と西が出会う場所だから、どんな心も交錯する。ここでは誰もが、ちょっとだけ大胆になれるんだ」


 それまで、楽しげにリュカの話を聞いていた江里香の視線がふいに左へと流れる。


 彼女は日本にいた頃、恋愛に慎重だった。

 だが、シラヴェーンの夜が、同僚たちが語る『一夜限りの恋』や『刹那の情熱』が、彼女に一時の気の迷いという甘く、熱く、ほろ苦い選択肢をチラつかせる。


 熱に浮かされたような甘い夜というものに、江里香もどこか憧れていたのかもしれない。


「大胆、ね。あなたはいつも、こんな風に女の人を口説くの?」

「いつも? まさか」


 彼は笑い、彼女の目を見つめた。


「君が特別だからさ。君の瞳は、星を飲み込んだ夜の海みたいだ。少し寂しげで、でも穏やかに凪いでいる」

「なにそれ」


 江里香は笑ってかわしたが、心のどこかでくすぐったい感覚が広がった。つかみどころがなく、どこか遠くへ消えてしまいそうな男。


 彼との出会いは、江里香の心に小さなキッカケを与えた。





 その夜から、リュカは江里香の生活に滑り込んできた。

 週末の夜、サルタナで待ち合わせ、時にはボスフォレア沿いのレストランで食事をし、あるいは江里香の小さなアパートでワインを飲みながら夜を過ごす。リュカは、江里香の想像を超えるほど女性に優しかった。彼女の髪を褒め、笑顔を愛らしいと言い、さりげなく肩に触れるその仕草で、江里香の心を甘く揺さぶる。リュカの存在は、シラヴェーンの夜をさらに鮮やかにした。


「本当に、君の瞳……いや、眼差しは神秘的だね。見ていると惹き込まれる」


 ある夜、江里香のアパートで、リュカがそんな言葉を囁いた。窓の外では、街の灯りが瞬き、遠くで船の汽笛が響いている。


「大袈裟ね」


 軽く笑い受け流す江里香に気を悪くした風もなく、リュカはソファに深く凭れ、煙草に火をつけた。


「大袈裟なんかじゃないさ。これが東洋の美というやつなのかと目が離せない」


 紫煙がゆらりと立ち上り、部屋に甘い香りを漂わせる。


「フランテール人はね、心で感じたことをそのまま口にするんだ。君を美しいと思うなら、黙ってるなんて失礼だろう?」


 彼の言葉は、どんなときも江里香の心を揺らす。


 彼と過ごす時間は甘く、刺激的だ。


 熱に浮かされ、揺蕩うような関係。


 大人びた恋愛。


 けれど、――――。


 江里香はリュカの隣に座り、彼の肩にそっと頭を預けた。


 この男の甘い言葉や仕草は、本物なのだろうか?


 彼に甘える江里香の髪を撫でながら、リュカは慰めるようにフランテールの古い歌を口ずさむ。


『永遠なんて信じない。刹那の美しさ、それだけが本物さ』


 彼が好きだと言ったフレーズに差し掛かると江里香はゆっくり瞳を閉じた。






 ◆






 女の勘としかいいようのない気配の話だが、リュカの周りには、いつもどこか不確かな影がちらついていた。


 リュカは自由な男だ。江里香もまた、束縛を嫌う女だった。この関係は、最初から軽やかなものだったはず。なのに、なぜか胸がざわつく。


 どこかで警告の鐘が鳴っていた。





 ある夜、サルタナのバーメイドであるアイシェが、カウンターに一人座る江里香に躊躇いがちに声をかけた。


「エリカ、あのね。昨日、バウムスズルク通りでリュカを見たんだ」


 バウムスズルク通りには、リュカの行きつけの居酒屋(メイハーネ)がある。江里香も何度か連れて行ってもらったことがあるが、上質なサルハンワインを扱うムジュヴェルが美味しい店だった。


「それで、その……なんというか……気をつけた方がいいと思う」


 何をとは言わないが、それだけで江里香には十分伝わった。


「そう」


 サルタナでも、彼が他の女性と親しげに話す姿を何度か目にしている。つまりは、そういうことなのだろう。


「ありがとう、アイシェ」


 明けない夜がないように、彼の甘い言葉は、彼女だけのものではなかったということだ。


 リュカは、江里香にとって特別な存在だったが、彼にとっての江里香はどうだったのか。


 互いに相手を干渉しないのは、都合がいい時だけ寄り添いあいたいからではない。そこに確固たる信頼があるからこそ、縛り合う必要がないからだ。


「でも、大丈夫。リュカはそういう男なのよ、私もわかってる」


 シラヴェーンの夜は、刹那の情熱を許してくれる。


 彼の恋は、永遠を求めるものではなく。ただ、夜の街で輝く一瞬を共有するだけのものだった。


 すれ違う価値観でも、歯車が合い続ければ問題はない。


 だが、今は?


 それを認めたとき、江里香の心に訪れたのは虚無だった。


『永遠なんて信じない。刹那の美しさ、それだけが本物さ』


 彼は何故、あの歌の、あのフレーズが好きだったのか。


 それは、リュカ自身の生き方に似ていたからなのかもしれない。





 ◆





 一時帰国(ホームリーヴ)で十日ほど留守にしていた江里香が、シラヴェーンに戻って来た翌日、待っていたかのように携帯が鳴った。


「どうしたの、リュカ。何かあった?」


 ディスプレイにリュカの名前を見つけた江里香が軽い気持ちで電話に出ると、何時もならすぐに返ってくるはずの声が聞かれない。


「リュカ?」


< エリカ、話があるんだ >


 彼の声はいつもより低く、不安や緊張といったマイナスの感情が滲んでいた。


 だからだろうか、気づいてしまった。


「何? 急に改まって」


 リュカが話す内容を分かってしまった。


< ……他に好きな人ができた。悪いけど、別れてほしい >


 最初に浮かんだのは、やっぱりという感情。


 一時帰国の準備に追われていた江里香は、帰っていた期間を含め、二週間ほどリュカと会えていなかった。


 その二週間という会わない時間は、彼にとって永遠の別れに等しかったらしい。


 ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。


「そう。わかった」


< エリカ、……その……本当に悪いと思ってる。君は素晴らしい女性だよ >


「リュカ、いいのよ。シラヴェーンは、恋の街……なのでしょう?」


 彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。リュカは何か言いたげだったが、結局、言葉を飲み込んだ。彼は最後まで、そういう男だった。


< じゃあ…… >


「うん、じゃあね」


 電話を切った瞬間、江里香から小さな笑みがこぼれた。

 諦めとか、呆れとか、悲しみよりも、むしろ清々しい気持ちが胸を満たして出た微笑みだった。


 ――――お疲れ様。


 リュカとの恋は、夏の夜の花火のようだった。美しく、熱く、しかし一瞬で消える。


 胸の奥にあったモヤモヤが、ようやく晴れた気がした。


 恋が愛に変われば、その重さに耐えられず脱ぎ捨てていく。リュカはそういう男だった。


 そして『彼』は、それでいい(・・・・・)と、それがいい(・・・・・)と彼女は思った。





 □





 江里香はソファの隙間から見つけた煙草の空き箱を手にゴミ箱の前に立っていた。


 半分くしゃっと潰れたその箱は、まるでリュカとの恋の残骸のようだ。甘い言葉、熱い夜、そして呆気ない別れ。この小さな箱が、リュカとの全てを象徴している。


 彼女は箱を指で弄びながら、窓の外を見た。


 シラヴェーンの夜が、ゆっくりと街を包み始めている。


「よくないわね」


 彼女は箱を完全に握り潰し、ゴミ箱に放り込んだ。


 リュカとの恋は、確かに彼女の心を熱くした。だが、それは繰り返される夜の中で、たまたま重なった一部でしかなかったのだろう。


 カサリと音をたて、ゴミ箱の中に消えたソレを見届けた江里香の瞳には、新しいシラヴェーンの夜が映っていた。


 この街には、まだ無数の夜が待っている。


 新しい出会い、新しい情熱。

 新しい物語が、すぐそこにあるかもしれない。




 その夜、江里香はサルタナに足を運んだ。赤い照明の下、ジャズが流れ、グラスが軽やかに響き合う。彼女はカウンターに座り、ジントニックを注文した。


「エリカ、久しぶりね。今夜は、いいことありそう?」


 アイシェが微笑みながらグラスを差し出す。


「さあね。でも、この街なら、きっと楽しいことが起こるわ」


 シラヴェーンの夜は、いつも忙しい。何処かで恋が咲き、愛が破れている。


 アイシェと話す江里香に、カウンターの端にいたひとりの男が視線を投げてきた。浅黒い肌、高い鼻梁、黒い大きな瞳。エキゾチックな顔立ちの男性だ。

 視線に気づいた江里香が軽くグラスを掲げると、彼もまた、グラスを掲げて応える。


 二人のやり取りに、アイシェがとっておきのひそひそ話をするようにカウンター越しに顔を近づけてきた。


「彼はオススメよ。この店の裏のアパートに住んでいるんだけど、世界を旅しながら写真を撮ってるカメラマンなの。今日、八ヶ月ぶりに帰ってきたんだよ」

「あら、詳しいのね」

「実は、兄なの」


 いたずらっぽくウインクされて、江里香は笑った。


 シラヴェーンの夜は、終わることなく続いていく。


 煙草の煙のように、儚く、熱く、そしていつしか消えていく恋を乗せて。











お時間頂きありがとうございました。




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