エピローグ
ノイアス帝国、帝都ノイグラード。
宮殿で、静かなる狂騒が巻き起こっていた。
第一皇子、アーク・ノイアスの失踪である。
この衝撃的な事件は、瞬く間に王侯貴族たちに知れ渡り、貴族たちを混乱に陥れた。
誰もが口々に囁き合い、宮廷では「謀反か」「暗殺か」「あるいは亡命か」と、真実を知る者など誰ひとりいなかった。
ただ一人を除いて。
「……所詮、あれは、使い捨ての駒にすぎん」
帝国を支配する絶対的存在――現皇帝ヴァルゴ・ノイアスは、金色の玉座に胡坐をかきながら、ただ興味なさげに吐き捨てた。
彼にとって、第一皇子であるアークすら、あくまで『駒』程度の扱いだったのだ。
しかし、帝位継承権第一位の皇子の不在を好機と見た者が一人いた。
「父上。兄上が消えた今こそ、私が、ノイアスを――いえ、この大陸すべてを統べる帝国へと押し上げましょう!」
そう意気込んだのは、第二皇子ヴァルツ・ノイアス。
鋭く細められた銀色の瞳には、皇帝同様、異様な熱意と野心が渦巻いていた。
その叫びに、ヴァルゴ皇帝はただ、鼻で笑っただけだった。
「ふん……好きにしろ」
父の冷酷な言葉に一瞬だけ顔を歪めたヴァルツだったが、それでも一礼してその場を後にした。
そして、時は流れる――。
アーク失踪から数年後。
ノイアス帝国は水面下で、着々と侵攻準備を進めていた。
まず行われたのは、大規模な「スタンピード」の誘発。
魔物を魔法や魔法薬で強化し、王国領内で魔物の暴走を引き起こす工作だった。
これにより王国を疲弊させ、抵抗力を奪う算段だったのだ。
だが――。
「……報告いたします。王国軍の被害は、軽微とのこと。さらに……発生したSランク魔物二体、これも討伐された模様です」
報告に膝をつく黒装束の諜報官を、ヴァルツは信じられない思いで見下ろした。
「何だと……? あり得ん。Sランクが、二体だぞ? それを、たかが王国軍が討伐しただと?」
報告書を読み返しても、結果は変わらない。
計画は、大きく狂い始めていた。
「……王国には、“視える者”がいる。未来視の魔眼を持つ者がな」
ヴァルゴ皇帝が静かに呟いた。
エルヴァーリア王国第一王女――システィア・エルヴァーリア。
未来を視るその魔眼こそ、すべての計画を狂わせる厄災だった。
「ならば……消すまで」
皇帝の命により、帝国暗部《黒影》が動く。
選りすぐりの刺客たちが王国へ潜入し、システィアの暗殺を試みた――。
だが、それすらも失敗に終わる。
闇に紛れた暗殺者たちは、消息を絶ち、戻った者は一人もいなかった。
しかも、王国に勇者が現れたのだ。
苛立ちを募らせるヴァルツ。
「……クソが。なぜだ、なぜこうも王国は強固になっている……!」
呪詛のような怒声が部屋に響いた。
次なる手――。
ヴァルツは新たな侵攻計画を練り始めた。
だが、密偵からの報告が、さらに彼の心を冷たく締め上げる。
「……王国は現在、国境の防衛を大幅に強化している模様。新たに設立された防衛本部を中心に、国境線の要塞化が進んでおります。指揮官は――アルクス中佐。王国軍の間では、【虚構の怪物】と呼ばれているようです」
ヴァルツは、報告を続ける密偵に鋭い視線を向けた。
「……そのアルクスとやら、どれほどの存在だ?」
密偵は、わずかに顔を伏せながら答えた。
「情報は極めて限られております。出自は辺境の小村とされ、訓練学校では異例の成績を叩き出し、続く士官学校を首席で卒業。その後、第三師団に配属され、現れた勇者の育成に携わった後、わずか数ヶ月で中佐まで昇進したとのことです」
「……バケモノか。まさか、暗殺が失敗したのも……」
「恐らくは……」
「疫病神め。なぜそのような傑物が今現れる」
ヴァルツは思わず、吐き捨てるように呟いた。
全身を、得体の知れない悪寒が走る。
ありえない。そんな怪物のような成り上がりが、現実に存在するというのか――。
堪らず、彼は玉座の間へと向かった。
すぐにでも、父――ヴァルゴ皇帝に報告せねばならないと直感したからだ。
そして、厳かなる扉をくぐり、再び帝の前に膝をつく。
「父上……王国に、怪物がいます。名はアルクス。国境の防衛を強化している中心人物です。並の将ではありません。歴史に名を残す傑物でしょう」
ヴァルゴは、金色の瞳を細めたまま、しばし無言だった。
やがて、静かに呟く。
「……王国にいるその傑物が、我ら帝国が動いていると、結論づけたのだろう。ならば、計画を急がねばならぬ」
金色の玉座に胡坐をかいたまま、皇帝は命じた。
「軍備を、急ぎ整えよ」
冷たく、重い声が玉座の間に響き渡った。
この皇帝の言葉に従い、帝国は水面下で軍事力の増強を加速させる。
そして、数日後。
帝国の中心、黒の塔にて、ノイアス帝国参謀本部が招集された。
集まったのは、帝国軍を束ねる高官たち。
その中央に立つのは、新たに参謀長に就任した男――。
一見して凡庸に見える中年の男だったが、その黒々とした瞳だけは、底知れぬ不気味さを湛えていた。
「……状況を鑑みるに、最も警戒すべきは勇者の存在です」
彼は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
その口調は落ち着いていたが、彼の影に潜む何かに、場にいた誰もが無意識に背筋を強張らせた。
不気味。
それがこの場の誰もが抱いた感想だった。
その男から告げられたのは勇者の存在。
本来、王国において絶対的な希望とされる存在。
だが、それがアルクスという傑物によって鍛え上げられているとなれば、今後の侵攻にとって大きな障害となる。
「まずは、周辺諸国への使節団を派遣する。周辺諸国と協力関係を築く」
ヴァルゴ皇帝が冷徹に語りかけた。
その声は、命令のようであり、決して譲歩の余地を感じさせない。皇帝の目は、広大な地図の上に広がる無数の国々をじっと見据えていた。
参謀長は、しばらくの沈黙の後、淡々と答えた。
「了解しました、陛下。使者には、『協力せねば、攻める』という大国ならではの脅しを伝えるようにいたします」
その言葉は、何気ない一言のように聞こえるが、その背後には冷徹な意図が込められていた。
将校たちの表情は一変した。一人の将校が立ち上がり、異議を唱える。
「陛下、そのような脅しでは、他国との関係が悪化する可能性があります。我々の力を誇示するのは良いが、協力を呼びかけるのではなく、敵を作る結果になるのではないかと心配です!」
その言葉に、他の将校たちも賛同し、微かなざわめきが広がった。
しかし、参謀長はその場の空気を無視し、静かに皇帝に視線を送る。
ヴァルゴ皇帝はわずかに目を細め、その冷徹な視線を将校に向ける。
「何を心配する必要がある? 大陸を支配するためには、時には力を示すことが必要。協力関係を築くためには、相手に対して我々の強さを知らしめなければならない」
その声は、あまりにも冷たく、どこか遠くから響いてくるようだった。
参謀長は静かに頭を下げる。
その背後に立つ姿は、どこか不気味で、周囲の空気を重くする。
だが、誰もその異常さに触れることはなかった。参謀長の存在そのものが、皇帝の意図をさらに強調しているかのようだった。
将校たちは一様に黙り込み、口を閉ざす。反対意見を出す者もあったが、最終的には皇帝の命令が下された以上、従うしかない。
冷徹な決断が下された後、部屋の中には、ただ沈黙だけが支配する時間が流れた。
皇帝はゆっくりと立ち上がり、背後の大陸図を一瞥した。
「我が全てを支配するのだ」
その呟かれた言葉は、ただの予言ではなく、彼の冷徹な野望そのものであった。
参謀長が一歩踏み出す。
「陛下の野望、素晴らしい限りです」
彼の目には、皇帝の命令を果たすための冷徹な決意が宿っていた。
しかし、その目に宿るものの正体を、誰も知ることはなかった。
それから半年後、ノイアス帝国はエルヴァーリア王国へと宣戦布告をしたのだった。
第一章 ―完結―




