20話:英雄の背中を見つめて
私の名はラティア・ヴァルグレイス。
氷魔法を自在に操り、剣を振るうこの身は、【白銀の戦姫】の異名で呼ばれ、人々には畏れと尊敬をもって語られてきた。
公爵家の令嬢であり、帝国第三師団を率いる師団長でもある。
誰よりも冷静で、誰よりも強く――そうあらねばならないと、ずっと信じていた。
それが、今、私の前で崩れかけている。
兵たちの士気を鼓舞し、自ら囮となって戦線を維持しようとした私の行動を、たった一人の若き少尉が、正面から否定した。
若き少尉の名はアルクス。
十九歳の若さで士官学校を首席で卒業し、数多の将校からの推薦で第三師団に配属されたばかりの男。
訓練学校、士官学校時代、正式に採用された作戦も多く、第七駐屯地でのスパイ摘発といった士官候補生でありながら、多くの実績を挙げていた。
その異常な指揮能力の高さは、参謀本部からも声がかかるほど。
すでに、彼を知らない者は軍部には存在しない。
信じがたいことを平然とやり遂げ、人間を逸脱した力と能力を兼ね備えた、稀代の天才。
そして、そんな彼を知る者たちは、口を揃えてこう呼んでいた。
――【虚構の怪物】。
最初は半ば興味本位で彼を観察していた。
態度は軽薄だが、命令には嫌々ながらも忠実にこなす。
その本性は、私でも見抜けていない。
しかし、演習などで彼は、その異名に違わぬ実力を発揮した。
そんな彼が、今回の作戦を立案し、あまつさえ自分が囮班を務めると言い出した。
そして私は、陣形が崩れはじめ、前線に出なければと判断し、アルクスを信じて指揮権を託すことにした。
他の将校たちからも、異論はでなかった。
誰もが、彼の指揮能力の高さを評価していたのだ。自分よりも、優秀だと。
実戦で彼の指揮を見るのはこれが初めてだった。
だが、アルクスは――見事だった。
冷静沈着に状況を把握し、的確な指示で部隊を動かす。
恐怖に呑まれかけた兵たちの心を、軽妙な言葉と確かな戦術で繋ぎ止めた。
そして私が、スタンピードの原因を作った、強力な魔物の攻撃を一身に引き受ける覚悟を決めたその瞬間。
後方で指揮を執っていたはずの彼は躊躇いもなく、私の前へと出た。
「命令。俺、意外と上下関係気にするタイプなんで」
精鋭班の言葉に軽口を叩きながらも、彼の背中は――まるで、戦場を駆けた英雄たちのように、大きく、頼もしく思えた。
それでも、心配してしまう。
「……アルクス少尉、何をしている?」
私はここで将来有望な若者を失いたくなく、言葉を続けた。
「勝手な行動だ。指揮系統を乱す気か? この状況で――」
私の言葉は途中で阻まれた。上官の発言を遮る。本来ならば、軍罰ものだが、何故か許してしまえた。
「ほとんど片付きましたよ、魔物。残りはこの二体。指揮権はジェイド准将に」
ジェイド准将は、アルクス同様に参謀本部からも声がかかるほど優秀な人物だ。
彼ならば、安心して任せられるだろう。
しかし、アルクスの言葉は続いた。
「で、師団長――死ぬ気でしたよね?」
私は、彼に見透かされていた。
思わず、目を見開いてしまう。
この身を捨ててでも部下を守ろうとする、愚かな覚悟を。
「自分が囮になって師団を守る――立派ですけど、それ、俺の指揮方針じゃないですから」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
気づかないうちに、私の中で「上官としての責務」が、「誰かが犠牲にならねばならない」という誤った信念に変わっていたのだ。
彼は、兵も、上官である私すらも見殺しにはしない。
それが、彼の「指揮官」としての在り方。
……情けない話だ。
私の方が年上で、階級も上で、実戦経験も長いはずなのに。
彼の背に、私は何かを託してしまった。
その瞬間から、私の中で、彼は「部下」ではなく「守るべき若者」ではなく――信じるに足る、真の指揮官となった。
「では師団長、後方でおとなしく治療でも受けててください。俺の華麗なる戦い、ぜひ特等席で」
軽口を言う彼の背中は、偉大なる英雄のように、大きかった。
そんな彼を失いたくないから、つい声をかけてしまった。
「……死ぬなよ、アルクス少尉」
すると彼は肩越しに振り返り、いつもの笑みを浮かべた。
「危険手当、期待してますよ。あ、できれば師団長の手料理付きで」
「……は?」
予想外の言葉に、思わず変な声が出てしまった。
「いやいや、まさか料理できないなんてことは……ないですよね? 白銀の戦姫が、フライパンの魔獣に負けるなんて、まさか」
「……君、後で覚えていろよ」
睨みを利かせてそう言ったつもりだったが、彼は笑って躱すばかり。
「その『後で』があるってことは、俺が生きて帰るって信じてるってことですね。感激です!」
まったく、こいつは。
「ふん。それに私の手料理とは、高くつくよ?」
軽く肩を竦めながらそう告げると、彼はさらに調子に乗った。
「今ここでそれを言います? 俺、師団長を助けるために、本来は目立ちたくないのにここに来たんですから。それでもお釣りはまだ来ますよ?」
屁理屈ばかり並べるが、その根底にあるものは――真っすぐな優しさだと、なぜか私は知っていた。
「屁理屈を。……感謝する。生きろよ」
最後にそう告げた言葉は、上官としての命令ではなく、一人の人間としての願いだった。
アルクスは、ひらりと片手を挙げ、背を向けた。
その背中を、私は――ただ、祈るような思いで下がって行った。
私は後方の野戦治療テントに身を預けながら、遠く戦場の空を見上げていた。
雷光と氷刃が交差し、地を焼き尽くす炎の残滓が空を染める。
その中心にいるのは、たった一人の青年。アルクス少尉――いや、もはや彼を「少尉」などと呼ぶのも、どこか場違いに思えるほどだ。
「……まさか、ここまでとはな」
思わず、そう呟いてしまった。
隣の兵士が驚いた顔でこちらを見るが、私は構わず前を見据える。
あれは、英雄の戦いだ。
彼の背に翻る軍用コート、揺れる髪、魔法陣を纏う姿。
まるで絵画のように美しく、そして何より、恐ろしく強い。
私の部下たちがざわついていた。
「な、なんだあれ……」
「本当に同じ人間かよ……」
「指揮も戦闘もあれだけ完璧に……いや、これはもう怪物ってレベルじゃ……」
誰もが言葉を失い、ただ見惚れていた。
そんな中、アルクスの友人であるライナスとミナが私のもとへ駆け寄ってきた。
ふたりとも息を切らしながらも、目を輝かせていた。
「師団長、見ました!? アルクス、めっちゃ本気出してますよ!」
「やっぱり隠してても無理があるって。あの性格じゃ、いつか絶対バレるって思ってたよ」
ミナは笑いながら言う。ライナスは肩を竦め言葉を続ける。
「それにしても、ここまでとは思わなかったな。俺たち、まだまだ追いつけそうにないや……やっぱりあいつの秘書官でいいか」
ふたりの声に、私も思わず微笑を漏らす。
「そうだな。……だが、彼の背を追い続ける者がいる限り、あの怪物も孤独にはならないだろう」
ふと、空が静まり返る。
戦いが、終わったのだ。
炎の中から、彼の影がゆっくりと現れる。
ゆったりと歩きながら、手を軽く振ってこちらに向かってくるその姿に――私は、言葉を失った。
彼は、まるで何事もなかったかのような顔で、私の前に立つ。
「……戻ったか。色々言いたいことはあるが、まずは無事で何よりだ」
そう言った私の声は、少しだけ震えていた。
それに気づいてか気づかずか、アルクスは軽く苦笑しながら言った。
「気分は最悪ですよ。やり過ぎた……」
そして、満面の笑みで言った。
「でも、俺、約束は覚えてますからね? 危険手当と、手料理の件」
その言葉に、私は、思わず笑ってしまった。
「……ふん。仕方ない。生きて帰ってきたご褒美だ。手料理くらい、振る舞ってやるさ」
この命が、確かに救われた。
それは彼の力によるものだと、誰よりも私が知っている。
だから私は、この胸の内に深く刻む。
彼こそが――信じるに足る、真の英雄だと。




