第九部
9
いよいよ最後の金曜日を迎えた。
私は朝から心の落ち着く暇がなかった。新聞を開いても、テレビを見ても、何も頭に入ってはこなかった。
果たして今夜、ミツコは電話をくれるだろうか。ただそればかりが頭の中を渦巻いていた。明日からは事務所で電話を取ることができなくなる。もし今晩ミツコから電話がなかったらどうなるのだろうか。
私の退社後、ミツコという女性から電話があったら、私の電話番号を伝えてくれ、と全社員に頼んでおこうか。そんなことを本気で考えてみた。
しかしそれは何とも期待できない方法なのである。ミツコはこれまで深夜に電話をくれていた。そんな時間に都合良く応対する社員がいるとは思えないし、ミツコの方で間違えました、と電話を切ってしまえばそれまでだ。
何よりも会社を辞めた人間の依頼が、きちんと履行されるのかどうか甚だ疑問でもあった。
最終日に、私には外回りの仕事はなかった。事務所で机や棚の整理をしているだけで、時は流れていった。
昼は上司から食事に誘われた。
中華料理屋で、彼は「今までありがとう」と言った。
今の私は彼に対して、恨みを持っていなかった。
素直な気持ちで、
「こちらこそ、お世話になりました」
と答えた。
「明日、明後日とヘルパーに行くのは本当なのか?」
「はい」
彼は箸を止めた。訳が分からないといった様子だった。
「どうして行くんだ?」
「自分でもよく分かりません。最後の思い出として、なのかもしれません」
夕方、女子社員が一人ひとり挨拶をして帰って行った。
どの社員も深々と頭を下げて、いつもとはまるで違う雰囲気だった。
「頑張ってくださいね」
その月並みな言葉に、苦笑させられた。
今の私に何をどう頑張れ、というのか。明日から最初の一歩をどちらへ踏み出せばよいのか、それすら見当がつかないのだ。まるで一匹の野良犬なのである。人生においてこれほど目的を失った瞬間は今回が初めてだった。
夜になって、営業マンたちも次々と事務所を去っていった。
みんなは温かい言葉を、私に投げかけていった。
そして私は、いつものように静かな事務所に一人取り残された。
いよいよ最後の夜である。今夜が正念場となった。
私は明日のヘルパー出勤に備えて、今夜は事務所に寝泊まりするつもりでいた。
そう、初めてミツコと出会った、あの夜と同じように。
果たして彼女は私のもとへ飛んできてくれるだろうか。
明かりのない事務所の中で、私は一人ぽつんとミツコの電話を待った。
窓から差し込む月の光が、事務所内の空間を青色に染め抜いていた。スチールの机やロッカーたちは昼間の疲れをとるかのように静かに眠っている。
十二時、一時、二時。
時間だけが着実に過ぎていく。
しかし机の電話も、すっかり仕事を忘れて眠りについているようだった。
私は思い立って、受話器を上げると耳に押し当ててみた。
発信音が聞こえる。
このままダイヤルすれば、日本のどこかにある電話を鳴らすことができる。しかし、ミツコの携帯を鳴らすことはできない。
三時、四時。
時間だけが無情にも流れていく。
私にはどうすることもできなかった。時間を止めることはできなかった。
そうか、これが結末なのか、と今やっと気がついた。
自分を嘲笑する気分だった。
ミツコは私が考えているほど、私のことを気に掛けてくれなかった。ただそれだけのことである。私は甘かった。
全ては私の独り相撲だった。心のどこかで、最後にミツコが自分を助けに来てくれるものだと固く信じていた。
滑稽である。見事に期待は裏切られたのだ。
そう言えば、もうどれほどミツコの声を聞いていないだろう。彼女の声がひどく懐かしく思われる。この先、二度と彼女の声を聞くことはできないのだろうか。
最後の最後でミツコとはすれ違ってしまったが、彼女はよきパートナーだった。会社を辞める数ヶ月の間、確実に彼女は私を支えてくれた。おかげで、いい仕事ができた。彼女には本当に感謝している。
外が明るくなってきた。
そう言えば、ミツコと初めて話した日もこんなふうだった。
あの日と違うのは、まるで心が満たされていないということである。
時計を確認した。まもなく五時になる。
私はゆっくりと立ち上がった。
背中と腰が、すっかり椅子に張り付いてしまった。引き剥がすのに少々苦労した。身体全体が鉛のように重く、目まいがする。
一つ大きく伸びをした。
寝不足のまま、身体の中は疲労感だけが充満している。こんな状態で、果たしてヘルパーの仕事を二日も耐えられるだろうか。
私はもうすっかり諦めた気持ちだった。今日と明日の仕事のことだけを考えていた。
幸い、仕事までに、まだ数時間ある。
私は仮眠を取るために、応接室のソファーに向かって歩き出した。
二、三歩進んだところで、反射的に電話機を見た。
なぜ今更そんなことをするのか、自分でも分からなかった。一瞬、電話機が自分を呼び止めたような気がしたのだ。
随分長い間、電話機は私を見つめていた。いや、実際はほんの数秒だったのかもしれない。
突然、事務所内の電話が一斉に鳴り始めた。
私は意外にもその音に驚きはしなかった。さっきから小さくベルの音がこちらに向かって来たのに感づいていたのだ。ようやく今、それはここへ到着したのだと思った。
倒れこむようにして受話器を取り上げた。
私は身体を事務机に打ちつけた。鈍い音が響いた。同時に胸の辺りに衝撃を感じた。しかし痛みを感じている暇はなかった。
(この電話はミツコからなのか?)
私には半信半疑であった。
もうこの時間なら、得意先からの緊急連絡ということも十分に考えられるからだ。
私は必死だった。
勢いよく持ち上げた受話器は、しっかり手の中に収まり切らず、まるで生き物のように飛び跳ねた。
落とさぬように、しっかりと持ち直す。
「もしもし?」