第七部
私は受話器を握りしめたまま、しばらく放心していた。まったく予想していなかったことが起こってしまったからである。
ミツコと私は一本の線だけでつながっていた。しかしそれが今、彼女の意志によって切断されたのだ。
私にはひたすら敗北感が湧いていた。
実は心のどこかで、ミツコに頼りにされている、という自信があった。現に彼女は振られた時、真っ先に私に電話を掛けてきているではないか。
しかしそれは私の思い違いだった。
このままミツコと別れることになるのだろうか。それは嫌だ。
彼女が私の言葉に気分を害したのなら、謝らなければならない。
彼女を非難するつもりはまるでなかったのだ。それは分かってほしいと思う。彼女は失恋後、まるで催眠術にかけられたかのように、魂をどこかへ置き忘れてしまっていた。そんな彼女の目を覚まそうとしただけなのである。
ミツコは私を誤解している。彼女は私にとって大切なパートナーである。そんな気持ちを彼女に分かってもらいたいと思う。
だが、こちらから連絡を取ることはできないのである。全ては彼女の意思に委ねられている。彼女からの電話を待つしかない。私は祈るような気持ちだった。
腕時計を見た。秒針だけが何事もなかったように、冷静に動いていく。
ミツコは本気で私をおいて飛び立っていったのだろうか。
(頼む、一度だけでいい。せめてもう一度だけ話をさせてくれ)
私はそう念じながら、受話器を見つめた。
突然、辺りの空気を揺さぶるようにして、電話のベルが鳴り出した。
私は最初の呼び出し音で、すかさず受話器を持ち上げた。
受話器にはまだ温もりが残っていた。この瞬間を随分と待たされたような気がする。しかし電話が切れてから、ほとんど時間は経っていないのだった。
「ミツコ」
私はいきなりそう呼んだ。
「はい?」
彼女は勢い込んだ私の声に圧倒された様子だった。
「ごめん」
受話器を持ったまま頭を下げた。
「いきなり、どうしたのですか?」
ミツコは訳が分からないといった調子で言った。
さっきまで戦いを挑んできた相手が、突然謝罪しているのである。戸惑うのも無理はない。
「さっきは言い過ぎた」
「もういいですよ」
ミツコは落ち着いた声で言った。それはいつもの彼女だった。
一度離れかけた彼女がこうして戻ってきてくれた。私は神に感謝した。
「本当に怒ってない?」
「大丈夫ですよ」
ミツコは少し笑って答えた。
すっかりいつも通りだった。安堵感が私を包み込んだ。
「急に電話が切れたから、ちょっと驚いたよ」
私は正直な気持ちを語った。
「えっ?」
ミツコはそんな声を上げてから、
「ああ、ごめんなさい、携帯を落っことしたら切れてしまって」
と言った。
「そうだったのか」
「はい。涙で濡れた手で触るものだから、滑ったみたい」
大げさな話だが、どうやら本当らしかった。
「そうしたら、ベッドの裏に落ち込んでしまって。取るのにちょっと苦労しました」
私は何だか可笑しくなった。
こちらが一生懸命に、電話の切れた訳を考えている一方で、ミツコはベッドの裏に手を伸ばして、必死に携帯を拾おうとしていたのだ。
私は、思わず笑い声を出してしまった。
「いえいえ、そこは笑うところじゃありませんよ」
ミツコがまじめな声で抗議した。
「でも、今、携帯が凄いことになってます。濡れるわ、埃まみれになるわで」
「今度、携帯を買う時は、防水のを買うといいね」
私はそう提案した。
「はい、そうします」
彼女はそう言ってから、吹き出すように笑い出した。
私もそれにつられるように笑った。こんな時間を大切にしたいと思った。
私はいつもと変わらぬミツコを前にして、冷静さを取り戻していた。さっきの喧嘩が遠い昔のことのように思える。
そう言えば、今日のミツコは自宅から電話を掛けているのか、と気がついた。
これまでは、深夜一人で事務所に残って仕事をしていた筈である。同じ境遇の男女が電話回線を通して、いわば密会をしていたのだ。
しかし、今日の彼女は違う。彼女は今、会社にいる訳ではない。
どうやら、彼女は私を仕事の延長として捉えているのではないようだ。もしそうなら、それはどういう意味を持つのだろうか。
「ねえ、ミツコさん」
「はい、何でしょう?」
彼女は気安く答える。涙はもうすっかり乾いているようだった。
「今、自宅からですよね?」
「そうなんです。こんなことを言うと、ヒロシさんに怒られるかもしれないけど、今は会社に居残りしたくない気分なのです」
彼女は言葉を探すように、ゆっくりと語った。
「いえいえ、そんなことで怒ったりはしませんよ」
私は慌てて言った。
「仕事をしていないミツコさんから、電話を貰うのが初めてだな、と思って」
そうなのだ。今夜の彼女はプライベートな立場で電話をしてきている。
「あっ、言われてみれば、そうかもしれません」
ミツコは私に指摘されるまで、どうやらその意識はなかったようだ。
私は彼女の心情に思いを馳せた。
彼氏と別れて、まず最初に思い浮かべたのは、この私だった。そして、私の声が聞きたくなった。
いや、彼女の意志はそんな消極的なものではないだろう。
彼氏の言葉で、ミツコは会社を辞めようと思った。しかし彼女にそんな勇気があるはずもなく、私に引き留めてもらいたかった。
彼女は、私ならきっと制止してくれる、そう最初から分かっていたのだ。だから喧嘩になりながらも、彼女は電話を切ったりしなかった。泣きながらも、私の言葉を受け止めていたのだ。
きっとそうだ、今やミツコと私は、ただ電話で話し合うだけの仲ではない。お互いに相手の心を揺り動かすほどの影響力を持っている。
私が彼女に対して抱いている感情を、おそらく彼女もおぼろげに抱いているのではないだろうか。
私はミツコの心が知りたくなった。
自分の中に芽生えて、どんどん成長し続けるこの感情を、これ以上押さえつけることはできなかった。
どうしても彼女に確認しておきたい。
会社を辞める今、自分には時間は残されていないのだ。
「ミツコさん、ちょっと立ち入った話をしてもいいですか?」
私は恐る恐る切り出した。
「別れた彼氏のことですか?」
ミツコは、すぐにそう応えた。
明らかに心の準備をしていた素早さだった。いつか私の興味がここへ辿り着くことを知っていたようだった。
「うん。聞かせてもらえるかな?」
「いいですよ、もう吹っ切れてますから」
ミツコはわざと明るい声で言った。
「彼氏とは長かったの?」
「高校時代の先輩なんです」
「へえ」
自然とそんな声が出た。
ミツコは私と知り合う遙か前に、彼氏と出会っていた。
それなら、どうやっても私に勝ち目はない。私は嫉妬する他なかった。
「文芸部の部長なんです。ほら、前にお話しましたよね。私、高校時代は文学少女だった、って」
忘れる筈がない。それは私にとって、大切な情報の一つであった。
私はミツコの言葉の断片をつなぎ合わせていくことで、彼女のイメージを作り上げようとしていた。新しい話が出る度に、心に描くキャンバス上の彼女の姿は、何度も修正を繰り返している。
「結構長い付き合いでした」
その言葉は私の心を刺すようだった。
「どんな人だったの?」
「優しい人でしたよ。それに博識っていうのかな、いろんな事を知っている人でした」
そこまで言うと、ミツコは楽しかった日々を思い出したのか、言葉を詰まらせた。また涙が湧いてきたようだった。
これ以上聞くのは、さすがに酷というものである。
「ごめん、もういいよ。ありがとう」
私は慌ててそう言った。
別に彼氏のことなど、どうでもよかった。私が知りたかったのは、ミツコがどんな男性に心を奪われていたかということだった。そして私自身がどれほどその資質を持っているかであった。
彼女は私の意志に関係なく、話を止めようとはしなかった。そのまま涙声で続けた。
「私、本を読むのも好きだけど、人とじっくり話をするのも好きなんです」
私は言葉を挟まずに、黙って聞いていた。全神経を集中させていた。
「私の知らないことを教えてくれたり、ユーモアで心を和ませてくれたり、辛い時には悩みを聞いてくれて、行き詰まった時には、思いっきり叱ってくれるような人が、私は好きなんです」
私は何も言えなかった。
それは彼氏のことを言っているのか、それとも私のことなのだろうか。受話器を耳から少し離して考えてみた。事務所の暗闇が私を飲み込んでしまいそうだった。
考えれば考えるほど、自分がちっぽけな人物であるという結論にしか至らなかった。
ミツコには会社を辞めるな、と言っておきながら、自分はまもなくこの会社をクビになる。
まるで説得力のかけらもなかった。彼女を励ます資格など私にはない。
それでも何も知らないミツコは黙って私の話を聞いていた。私を救世主か何かのように錯覚しているのかもしれない。
電話の中の付き合いで、彼女は私のイメージをどんどん美化しているのかもしれない。もうブレーキを掛けることはできない。実際、別れた彼氏と比べても、おそらく私は何もかもが劣っているだろう。彼に代わって、ミツコを満足させられるとは到底思えない。
そんな事実を知ったら、果たして彼女はどう思うだろうか。
空が白んできた。
日の出にはまだ時間があるものの、この時期の朝は早い。照明なしでも、机のカレンダーの文字は読めるほどだった。
今日は平日である。二人とも仕事が待っている。
もう電話を切らなければならない。
「ミツコさん、仕事は辞めませんよね?」
私は最後に、そう念を押した。
おそらく彼女は本気で辞める気はないと思うのだが、やはり気がかりだった。
「まだ心配してくれていたんですか?」
ミツコは感慨深げに言った。
その言葉には、苦しみを乗り越えた者だけが持つ、静かな強さが感じられた。
もうミツコには微塵の迷いもないようだった。
これなら大丈夫だ、という安心感に包まれた。彼女はきっと仕事を続けることだろう。
こうなると、問題は私の方である。
私は激しく迷っていた。
今夜、ミツコに会社をクビになったと伝えるべきだろうか。しかし物事には、タイミングというものがある。今夜の電話は、ミツコが失恋から立ち直るきっかけを作ったことで、その役割を十分に果たしていた。それを私の退職話でぶち壊す訳にはいかない。
「それを聞いて安心したよ」
私は何事もなかったかのように、そう言った。
「今夜は、本当にありがとうございました」
ミツコが言う。
もう私がこの会社に居られるのもあとわずかである。
こんなふうにミツコの電話を受けるのも、おそらく次が最後になりそうだ。
私は、ミツコの電話番号を聞いておくべきかどうか、考えた。しかしそれは彼女次第だと思う。彼女が自ら教えたいと判断すれば、彼女の口から聞かされるだろう。それに今の私には、そこまで積極的な気分が湧かなかった。
「それじゃ、ミツコさん、お休み。元気出してね」
「さようなら、ヒロシさん」
彼女の何のためらいもなく、電話を切った。
私は静かに受話器を置いた。
結局、彼女に真実を伝える勇気がなかった。
元気を出して、か。笑わせる台詞である。元気を出さなければならないのは、私の方だった。励ましてほしいのは、むしろこの私だったのだ。
外はすっかり明るくなっていた。
しかし私だけは、暗い事務所の中に一人取り残されていた。
電話を切った後も、ミツコの声がいつまでも耳に残っていた。
時には、真面目な話をしたり、冗談を言い合ったり、怒ったり、泣いたりと、彼女は様々な感情を見せてくれた。
電話の中でしか接することのできない相手と言うのに、まるで身近にいる知り合いのような気がしてならない。
私はぼんやりと電話機を眺めながら、そんなことを考えた。
この機械は、昼間は顧客の声を、深夜はこうしてミツコの声を私に届けてくれる。
しかし、もうしばらくすると、そのどちらも届けてくれなくなるのだ、そんなことが頭をよぎった。
もし今、もう一度電話のベルが鳴って、ミツコと話す機会を得たなら、今度こそ私は自分の悩みを話すだろう。
ミツコの話は十分聞いた。今度は私の話を聞いてもらう番だ。
しかしどんなふうに自分の退職話を伝えるべきか、頭の中はまだ整理できていなかった。
いずれにせよ、彼女との別れが迫っているような予感だけが確かにあった。