表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/15

第七部

 私は受話器を握りしめたまま、しばらく放心していた。まったく予想していなかったことが起こってしまったからである。

 ミツコと私は一本の線だけでつながっていた。しかしそれが今、彼女の意志によって切断されたのだ。

 私にはひたすら敗北感が湧いていた。

 実は心のどこかで、ミツコに頼りにされている、という自信があった。現に彼女は振られた時、真っ先に私に電話を掛けてきているではないか。

 しかしそれは私の思い違いだった。

 このままミツコと別れることになるのだろうか。それは嫌だ。

 彼女が私の言葉に気分を害したのなら、謝らなければならない。

 彼女を非難するつもりはまるでなかったのだ。それは分かってほしいと思う。彼女は失恋後、まるで催眠術にかけられたかのように、魂をどこかへ置き忘れてしまっていた。そんな彼女の目を覚まそうとしただけなのである。

 ミツコは私を誤解している。彼女は私にとって大切なパートナーである。そんな気持ちを彼女に分かってもらいたいと思う。

 だが、こちらから連絡を取ることはできないのである。全ては彼女の意思に委ねられている。彼女からの電話を待つしかない。私は祈るような気持ちだった。

 腕時計を見た。秒針だけが何事もなかったように、冷静に動いていく。

 ミツコは本気で私をおいて飛び立っていったのだろうか。

 (頼む、一度だけでいい。せめてもう一度だけ話をさせてくれ)

 私はそう念じながら、受話器を見つめた。

 突然、辺りの空気を揺さぶるようにして、電話のベルが鳴り出した。

 私は最初の呼び出し音で、すかさず受話器を持ち上げた。

 受話器にはまだ温もりが残っていた。この瞬間を随分と待たされたような気がする。しかし電話が切れてから、ほとんど時間は経っていないのだった。

「ミツコ」

 私はいきなりそう呼んだ。

「はい?」

 彼女は勢い込んだ私の声に圧倒された様子だった。

「ごめん」

 受話器を持ったまま頭を下げた。

「いきなり、どうしたのですか?」

 ミツコは訳が分からないといった調子で言った。

 さっきまで戦いを挑んできた相手が、突然謝罪しているのである。戸惑うのも無理はない。

「さっきは言い過ぎた」

「もういいですよ」

 ミツコは落ち着いた声で言った。それはいつもの彼女だった。

 一度離れかけた彼女がこうして戻ってきてくれた。私は神に感謝した。

「本当に怒ってない?」

「大丈夫ですよ」

 ミツコは少し笑って答えた。

 すっかりいつも通りだった。安堵感が私を包み込んだ。

「急に電話が切れたから、ちょっと驚いたよ」

 私は正直な気持ちを語った。

「えっ?」

 ミツコはそんな声を上げてから、

「ああ、ごめんなさい、携帯を落っことしたら切れてしまって」

 と言った。

「そうだったのか」

「はい。涙で濡れた手で触るものだから、滑ったみたい」

 大げさな話だが、どうやら本当らしかった。

「そうしたら、ベッドの裏に落ち込んでしまって。取るのにちょっと苦労しました」

 私は何だか可笑しくなった。

 こちらが一生懸命に、電話の切れた訳を考えている一方で、ミツコはベッドの裏に手を伸ばして、必死に携帯を拾おうとしていたのだ。

 私は、思わず笑い声を出してしまった。

「いえいえ、そこは笑うところじゃありませんよ」

 ミツコがまじめな声で抗議した。

「でも、今、携帯が凄いことになってます。濡れるわ、埃まみれになるわで」

「今度、携帯を買う時は、防水のを買うといいね」

 私はそう提案した。

「はい、そうします」

 彼女はそう言ってから、吹き出すように笑い出した。

 私もそれにつられるように笑った。こんな時間を大切にしたいと思った。


 私はいつもと変わらぬミツコを前にして、冷静さを取り戻していた。さっきの喧嘩が遠い昔のことのように思える。

 そう言えば、今日のミツコは自宅から電話を掛けているのか、と気がついた。

 これまでは、深夜一人で事務所に残って仕事をしていた筈である。同じ境遇の男女が電話回線を通して、いわば密会をしていたのだ。

 しかし、今日の彼女は違う。彼女は今、会社にいる訳ではない。

 どうやら、彼女は私を仕事の延長として捉えているのではないようだ。もしそうなら、それはどういう意味を持つのだろうか。

「ねえ、ミツコさん」

「はい、何でしょう?」

 彼女は気安く答える。涙はもうすっかり乾いているようだった。

「今、自宅からですよね?」

「そうなんです。こんなことを言うと、ヒロシさんに怒られるかもしれないけど、今は会社に居残りしたくない気分なのです」

 彼女は言葉を探すように、ゆっくりと語った。

「いえいえ、そんなことで怒ったりはしませんよ」

 私は慌てて言った。

「仕事をしていないミツコさんから、電話を貰うのが初めてだな、と思って」

 そうなのだ。今夜の彼女はプライベートな立場で電話をしてきている。

「あっ、言われてみれば、そうかもしれません」

 ミツコは私に指摘されるまで、どうやらその意識はなかったようだ。

 私は彼女の心情に思いを馳せた。

 彼氏と別れて、まず最初に思い浮かべたのは、この私だった。そして、私の声が聞きたくなった。

 いや、彼女の意志はそんな消極的なものではないだろう。

 彼氏の言葉で、ミツコは会社を辞めようと思った。しかし彼女にそんな勇気があるはずもなく、私に引き留めてもらいたかった。

 彼女は、私ならきっと制止してくれる、そう最初から分かっていたのだ。だから喧嘩になりながらも、彼女は電話を切ったりしなかった。泣きながらも、私の言葉を受け止めていたのだ。

 きっとそうだ、今やミツコと私は、ただ電話で話し合うだけの仲ではない。お互いに相手の心を揺り動かすほどの影響力を持っている。

 私が彼女に対して抱いている感情を、おそらく彼女もおぼろげに抱いているのではないだろうか。

 私はミツコの心が知りたくなった。

 自分の中に芽生えて、どんどん成長し続けるこの感情を、これ以上押さえつけることはできなかった。

 どうしても彼女に確認しておきたい。

 会社を辞める今、自分には時間は残されていないのだ。


「ミツコさん、ちょっと立ち入った話をしてもいいですか?」

 私は恐る恐る切り出した。

「別れた彼氏のことですか?」

 ミツコは、すぐにそう応えた。

 明らかに心の準備をしていた素早さだった。いつか私の興味がここへ辿り着くことを知っていたようだった。

「うん。聞かせてもらえるかな?」

「いいですよ、もう吹っ切れてますから」

 ミツコはわざと明るい声で言った。

「彼氏とは長かったの?」

「高校時代の先輩なんです」

「へえ」

 自然とそんな声が出た。

 ミツコは私と知り合う遙か前に、彼氏と出会っていた。

 それなら、どうやっても私に勝ち目はない。私は嫉妬する他なかった。

「文芸部の部長なんです。ほら、前にお話しましたよね。私、高校時代は文学少女だった、って」

 忘れる筈がない。それは私にとって、大切な情報の一つであった。

 私はミツコの言葉の断片をつなぎ合わせていくことで、彼女のイメージを作り上げようとしていた。新しい話が出る度に、心に描くキャンバス上の彼女の姿は、何度も修正を繰り返している。

「結構長い付き合いでした」

 その言葉は私の心を刺すようだった。

「どんな人だったの?」

「優しい人でしたよ。それに博識っていうのかな、いろんな事を知っている人でした」

 そこまで言うと、ミツコは楽しかった日々を思い出したのか、言葉を詰まらせた。また涙が湧いてきたようだった。

 これ以上聞くのは、さすがに酷というものである。

「ごめん、もういいよ。ありがとう」

 私は慌ててそう言った。

 別に彼氏のことなど、どうでもよかった。私が知りたかったのは、ミツコがどんな男性に心を奪われていたかということだった。そして私自身がどれほどその資質を持っているかであった。

 彼女は私の意志に関係なく、話を止めようとはしなかった。そのまま涙声で続けた。

「私、本を読むのも好きだけど、人とじっくり話をするのも好きなんです」

 私は言葉を挟まずに、黙って聞いていた。全神経を集中させていた。

「私の知らないことを教えてくれたり、ユーモアで心を和ませてくれたり、辛い時には悩みを聞いてくれて、行き詰まった時には、思いっきり叱ってくれるような人が、私は好きなんです」

 私は何も言えなかった。

 それは彼氏のことを言っているのか、それとも私のことなのだろうか。受話器を耳から少し離して考えてみた。事務所の暗闇が私を飲み込んでしまいそうだった。

 考えれば考えるほど、自分がちっぽけな人物であるという結論にしか至らなかった。

 ミツコには会社を辞めるな、と言っておきながら、自分はまもなくこの会社をクビになる。

 まるで説得力のかけらもなかった。彼女を励ます資格など私にはない。

 それでも何も知らないミツコは黙って私の話を聞いていた。私を救世主か何かのように錯覚しているのかもしれない。

 電話の中の付き合いで、彼女は私のイメージをどんどん美化しているのかもしれない。もうブレーキを掛けることはできない。実際、別れた彼氏と比べても、おそらく私は何もかもが劣っているだろう。彼に代わって、ミツコを満足させられるとは到底思えない。

 そんな事実を知ったら、果たして彼女はどう思うだろうか。


 空が白んできた。

 日の出にはまだ時間があるものの、この時期の朝は早い。照明なしでも、机のカレンダーの文字は読めるほどだった。

 今日は平日である。二人とも仕事が待っている。

 もう電話を切らなければならない。

「ミツコさん、仕事は辞めませんよね?」

 私は最後に、そう念を押した。

 おそらく彼女は本気で辞める気はないと思うのだが、やはり気がかりだった。

「まだ心配してくれていたんですか?」

 ミツコは感慨深げに言った。

 その言葉には、苦しみを乗り越えた者だけが持つ、静かな強さが感じられた。

 もうミツコには微塵の迷いもないようだった。

 これなら大丈夫だ、という安心感に包まれた。彼女はきっと仕事を続けることだろう。

 こうなると、問題は私の方である。 

 私は激しく迷っていた。

 今夜、ミツコに会社をクビになったと伝えるべきだろうか。しかし物事には、タイミングというものがある。今夜の電話は、ミツコが失恋から立ち直るきっかけを作ったことで、その役割を十分に果たしていた。それを私の退職話でぶち壊す訳にはいかない。

「それを聞いて安心したよ」

 私は何事もなかったかのように、そう言った。

「今夜は、本当にありがとうございました」

 ミツコが言う。

 もう私がこの会社に居られるのもあとわずかである。

 こんなふうにミツコの電話を受けるのも、おそらく次が最後になりそうだ。

 私は、ミツコの電話番号を聞いておくべきかどうか、考えた。しかしそれは彼女次第だと思う。彼女が自ら教えたいと判断すれば、彼女の口から聞かされるだろう。それに今の私には、そこまで積極的な気分が湧かなかった。

「それじゃ、ミツコさん、お休み。元気出してね」

「さようなら、ヒロシさん」

 彼女の何のためらいもなく、電話を切った。

 私は静かに受話器を置いた。

 結局、彼女に真実を伝える勇気がなかった。

 元気を出して、か。笑わせる台詞である。元気を出さなければならないのは、私の方だった。励ましてほしいのは、むしろこの私だったのだ。

 外はすっかり明るくなっていた。

 しかし私だけは、暗い事務所の中に一人取り残されていた。

 電話を切った後も、ミツコの声がいつまでも耳に残っていた。

 時には、真面目な話をしたり、冗談を言い合ったり、怒ったり、泣いたりと、彼女は様々な感情を見せてくれた。

 電話の中でしか接することのできない相手と言うのに、まるで身近にいる知り合いのような気がしてならない。

 私はぼんやりと電話機を眺めながら、そんなことを考えた。

 この機械は、昼間は顧客の声を、深夜はこうしてミツコの声を私に届けてくれる。

 しかし、もうしばらくすると、そのどちらも届けてくれなくなるのだ、そんなことが頭をよぎった。

 もし今、もう一度電話のベルが鳴って、ミツコと話す機会を得たなら、今度こそ私は自分の悩みを話すだろう。

 ミツコの話は十分聞いた。今度は私の話を聞いてもらう番だ。

 しかしどんなふうに自分の退職話を伝えるべきか、頭の中はまだ整理できていなかった。

 いずれにせよ、彼女との別れが迫っているような予感だけが確かにあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ