第六部
7
気がつけば、終業時刻を迎えていた。
私は思い出したように、机の書類を片付け始めた。
女子社員らは、いつの間にか私服姿に戻って、
「お先に失礼します」
と、揃って事務所を出て行った。
私には、残ってするような仕事は見当たらなかった。上司も気を遣っているのか、あの日以来、私に対して大きな仕事を任せなくなっていた。
今夜はこの事務所で、ミツコの電話を受けようと思う。それは私の義務だった。今の私には、それがまさしく残業と言ってもよかった。
ミツコが私を頼ってきているのだ。それにしっかり応えてやらなければならない。
私は一旦、何食わぬ顔で退社して、アパートに戻ってきた。食事と風呂を済ませてから、しばらく自室で時間を潰した。
夜十一時頃、再び会社に舞い戻った。
事務所に誰か社員が残っていたらどうしようか、と考えていたが、駐車場から見る事務所は真っ暗だった。
これでこちらの条件は整った。あとはミツコの電話を待つだけである。
事務所の鍵を開けて中に入る。敢えて電気は点けなかった。
こんな薄暗さでも、すぐに目が慣れてくる。私は迷うことなく室内を歩いていった。
廊下では、ジュースの自動販売機が眩しいばかりの光を放っていた。その明かりに誘引されるように、私は缶コーヒーを一本買った。
取出し口から爆発音ほどの大きな音がした。
誰かが飛んでこやしないかと、左右を見回した。昼間の先輩社員の話で、この密会に多少の後ろめたさを感じているのかもしれない。
しかし誰もいない事務所は、何事もなかったかのように、静寂さを取り戻していた。
私は次第に不思議な気分になっていた。
この会社に勤めてまだ三年足らずだが、これほど何度も、深夜まで会社に残ることはなかった。
辞める間際になってから、会社に長く居るようになった自分が滑稽に思われた。
それこそ最大の皮肉である。ミツコにそんなことを話したら、彼女はどう応えるだろうか。笑ってくれるだろうか。
窓から差し込む月明かりが、事務所内のあらゆる物を同じやり方で浮かび上がらせている。
私は缶コーヒーを片手に、椅子に腰掛けた。
時計を見ると、今十一時半になったばかりであった。
少々早く来すぎたようだ。
これまでミツコは十二時前に電話を掛けてきたことはなかった。日付が変われば、安心して電話ができる時間帯だと考えているのかもしれない。
果たして今夜、ミツコは私の元に現れるだろうか。
昨夜、何度もこの事務所の電話を鳴らしたことを考えると、余程大事な話があったと容易に想像がつく。そういうことなら、今夜も確実に掛けてくる筈である。
しかし一方で、違うことも考えられる。
人は本来の目的を達成する前に、その過程の中に充足感を見出してしまうことがある。つまり途中の段階で、全てのエネルギーを使い果たしてしまうという訳である。
もしミツコが、執拗に何度も電話をすることで、とりあえずの満足を得た状態にあるのなら、睡眠不足と相まって、今夜は電話してこないだろう。
さて、そのどちらになるのだろうか。
深夜に何度も叫び続けていたミツコ。彼女は一体何を伝えたかったのだろう。
私は机の上の電話機を見つめた。
それは今のところ眠ってはいるが、数十分後には激しい音とともに、目を覚ますような予感がした。
そう言えば、結局のところ、ミツコに会社をクビになったことをどう伝えるか、まるで決めていないのだった。
家族や友人には、余計な心配を掛けさせないように、適当な嘘でもつこうという気になるのだが、ミツコに対しては、どうにも小細工をする気になれない。
彼女には、全てを知ってもらいたい。例えそれが原因で、彼女に嫌われても、そして別れることになってもいいと思う。それが運命ならば、素直に受け入れよう。
そうだ、どうして今までこんなことに悩んでいたのだろうか。
今の私が、本当の私なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
どうしてミツコから逃げる必要があろうか。
何も恐れることはないのだ。ミツコの前では、自然体で居ればよい。
今までもそうだった。お互い素直な気持ちで語り合った。それで十分だ。
もし彼女に軽蔑されても、電話を切られることがあっても、全てを受け入れよう。ほんの少しの間だったが、彼女の声が私を勇気づけてくれたことは事実である。
ミツコという女性に出会えたことを感謝しよう。
そして会社に、それから上司にも感謝しよう。
私があとひと月早く解雇されていたら、彼女とは知り合えなかった。そもそもこの会社に居なければ、ミツコから電話をもらうこともなかったのだ。
私には今の不幸さえも超越できる、大らかな気持ちが生まれていた。
解雇が何だ。この程度のことで、自分は落ち込んだりはしない。これからもしぶとく生きてやる。
こんな気持ちになれたのも、ミツコのおかげである。彼女は私にとって大切な人だと思う。
今夜はミツコを待とう。そして、これが最後になるかもしれないが、彼女の話をとことん聞いてやろう。
私の気持ちはようやく固まったのだった。
まもなく十二時を迎えようとしていた。
ミツコはきっと電話をしてくる、私には自信が湧いていた。
今、時計の針が全て一つに重なった。
それを待ち構えていたかのように、電話のベルが鳴り出した。予想していたにも関わらず、その正確さには少々驚かされた。
やはりミツコは慌てているのだ。少しの余裕も感じられない。
電話のベルは、そんな彼女の悲鳴のように聞こえた。
私は弾かれたように、受話器を持ち上げた。
「もしもし」
「もしもし」
暗く沈んだ声だった。とても若い女性には思えなかった。まるで病床からようやく声を出す老人のようだった。
「ミツコさんですか?」
私は思わず確認せずにはいられなかった。まるで自信が持てなかった。正直、他の誰かからの間違い電話ではないかと思った。
「ヒロシさんですね、よかった」
そうは言いながらも、ミツコにはまるで感情の起伏が感じられない。
やはり昨夜、私ではない誰かが電話口に出たので、今夜もそれを警戒していたのだろう。しかしそれにしても、ミツコの雰囲気はいつもとは違う。
「こんばんは。昨日は電話をくれたそうだね」
私はそんなふうに言ってみた。
「ごめんなさい、他の社員さんから聞いたのですね?」
「はい、何か緊急の用件だった?」
私はいつも通りに明るい調子で訊いた。
このままでは、ミツコの暗い雰囲気に飲み込まれてしまう。自分だって、おそらく彼女以上に辛い立場なのだ。ここで私がぐっと堪えなければ、彼女の支えになることは到底できない。この電話の最後には、お互い笑っていたいものだ。
「別に緊急という訳ではないのですが」
彼女は口を濁した。
では、深夜から明け方に至るまで、何度も私に電話をしてきたのは、何か他に理由があるとでもいうのか。
今日のミツコはいつもとどこか違う。彼女が正直でないことに、少々苛立ちを覚えた。
彼女は電話の向こうで、小さくため息をついたようだった。
しばらくの沈黙があった。
「私、やっぱりヘンな女なんでしょうか?」
「えっ?」
そんな突然の言葉に、私には適切な受け答えができなかった。
藪から棒に、一体何の話だ。
「私、仕事を辞めようか、って思ってます」
私は心臓がえぐられる思いだった。
もちろん彼女は私が解雇されることを知らない。だから他意はないにせよ、そんなことを軽々しく口にしてもらいたくなかった。
「どうしてそんなことを言うの?」
私は自然と厳しい口調になっていた。
それは、ちっともミツコらしい台詞ではない。もし私の気を惹こうと、冗談を言っているのならタチが悪い。今の私には、笑えない冗談である。
「だって今、仕事がどうでもよくなって、全然身が入らないんです」
「一体、どうしたの? いつもの君らしくない」
それは私の本心だった。
ミツコはしばらく黙り込んでしまった。どんな表現が私に対して最も効果的かを、必死に考えているようだった。
そしてついに意を決したように、
「実は、私、見事に振られました」
とぽつりと言った。
私は言葉を失った。
ミツコには恋人がいたのか。決して孤独な女ではなかった。それは私の勝手な思い込みだった。
それにしても、意外な事実だった。てっきりミツコは、私がそうであるように、私を電話の中の恋人と見なしているのだと信じて疑わなかった。
しかし実際には、それは私の妄想に過ぎなかった。彼女には、れっきとした彼氏がいたのだ。
だが恋人がいたのなら、どうして何度も私に電話を掛けてきたのだ。私なんかではなく、身近な彼氏を頼りにすればよかったではないか。
私の中には、理不尽な怒りが生まれ、見る見るうちに大きな形になっていった。
ひょっとすると、そんな彼女の浮気心が、知らず知らず彼氏の心を傷つけていたかもしれないではないか。
「もしもし、ヒロシさん、聞いてます?」
言葉を失っている私に、ミツコは気がついたようだった。
「ちゃんと聞いてますよ」
私はぶっきらぼうに言った。
自分の不快な気持ちを、余すことなく上手に伝えるやり方だった。まるでいつかの上司と一緒だった。こんなことだけは誰よりも絶妙にできるものだと、自分がひどく薄汚く思えてきた。
「別れる時、彼は何て言ったと思います?」
私に答えはなかった。ミツコもそのまま言葉を続けた。
「お前は、仕事人間で女性らしさのかけらもない。付き合っていてもつまらない、だそうです」
彼女はまるで他人事のように淡々と語った。
なるほど、だから仕事を辞めたい、か。
しかし彼氏と別れるのなら、今の仕事を辞める必要はないのではないか。
それに、そもそも他人の言葉によって、職業が左右されるというのもどこか変である。人生はそんないい加減なものではない。
何とも拍子抜けだった。
これが今まで私を勇気づけてくれた、ミツコの悩みだというのか。
今の私にとっては、何とも生ぬるい話である。こんなのは悩みのうちに入らない。
「それで、君はどうするつもりなんだ?」
「えっ?」
まるで尋問のようだった。私の強い口調に、彼女は言葉を詰まらせた。
私は重ねて攻撃した。
「そんな程度のことで、仕事を辞めちまうのかい? 君の仕事にかける情熱は、その程度のものだったのか?」
ミツコは黙ってしまった。
しかしその間に体勢を立て直しているようだった。すごい剣幕で反撃を開始した。
「私のこと知らないくせに、よくもそんなことが言えますね。私は深く傷ついているんです。あなたにはそれが分からないんだわ」
「ああ、全然分からないね。そもそも仕事なんてのは、自分の意志でやってることなんだよ。他人にどう言われようと関係ない」
「それは男性の発想です。恋人に振られてまで、どうして仕事にしがみつく必要があるんですか?」
「だから、そんなことを言うヤツは、こっちから願い下げにすればいいんだよ」
私は吐き捨てるように言った。
恋人とか仕事とか、同じ土俵で語ることではない。ミツコは何を言っているのか。
要するに今の仕事が辛いから、恋人を引き合いに出して、辞めるのを正当化しているだけではないか。
そんなに辛いのだったら、さっさと辞めてしまえばいい。
働きたくても、職場を追われる人間だっているのだ。そんな甘ったれたヤツに、仕事を語る資格などない。
「そんなこと言って、あなたには恋人いるんですか?」
ミツコの怒りはどうにも収まらないようだった。
「いや、いませんね」
「それなら、偉そうに言わないでください。そんな人に、振られた女の気持ちが分かる筈ありません」
「そうですね、ちっとも分かりませんね。分かりたくもない。仕事に誇りが持てないのなら、さっさと辞めてしまえばどうです。それで恋人とよりが戻せるなら、ぜひ辞めるべきだ」
「ええ、あなたに言われなくても、辞めますよ。辞めたからって恋人は戻っては来ませんけどね」
ミツコの口調はあくまで強かったが、所々声が上ずっていた。どうやら電話の向こうで泣いているようだった。
ミツコはそれ以上何も言わなかった。すすり泣きをすることが、今や彼女の主張のようだった。
気まずい時間が流れていく。
もうお互い話すことはないのに、電話回線はつながったままだった。
今はミツコの泣き声を届けるためだけに、この電話は存在していた。
どうしてミツコは、電話を切ろうとしないのか。
どうして黙ったままでいる?
私は彼女の言葉の続きをじっと待っていた。
今電話を切ってしまえば、私と別れることになる、ミツコはそう考えているのではないか。それは私の自惚れだろうか。
やはり彼女は心のどこかで、私を必要としている。恋人に振られた今、頼りにできる人間は私しかいないのだ。
お互い受話器を手にしたまま、何も語ろうとはしなかった。
どちらか先に口を開いた方が、相手に謝ることになる。しかしそれは負けを認めることになるからである。
ひょっとして私は間違っていなかったか、後から不安が募った。
失恋した若い女性を捕まえて、言葉に配慮が足りなかったのではないか、私は思いを巡らせた。
いや、間違ってはいないと思う。
やや言葉がきつかったもしれないが、彼女に仕事を辞めてもらいたくなかった。こうでも言わなければ、暴れ始めた彼女の心を制止することができなかったのだ。
もし電話ではなく、目の前でミツコとやり合っていたなら、おそらく頬の一つでも打っていただろう。こんな時、表情が窺えない電話では、もどかしい気分だけが高まる。
果たして彼女には、私の素直な気持ちが届いたのだろうか。
しかし責められるは、何もミツコばかりではない。
実は私も冷静さを失っていた。
ミツコに彼氏がいたと知った辺りから、どうにもいつもの自分でなくなっていた。
ミツコを奪っておきながら、いとも簡単に彼女を振った、無神経な彼氏とやらに腹が立った。本来、その男に向けるはずの怒りの矛先が、ミツコに向いてしまったのだ。
私は鋭く尖った言葉を、被害者であるはずのミツコに突きつけてしまった。
やはり少々、言い過ぎだったかも知れない。
後味が悪かった。
二人の間にできた深い溝を埋めるために、彼女に何と言ったらよいだろうか。
考えがまとまらなかった。
無理もない。彼女との戦いは、まだ決着がついていないのだ。
今は一時休戦中で、お互い距離を保ったまま、睨み合っている状況である。急に相手が起き上がって、次なる攻撃を仕掛けてこないとも限らない。
私は緊張を解く訳にはいかない。
しかしこのままではラチがあかないのも事実である。
私は思い切って、電話の向こうに話し掛けた。
「本当に会社を辞めるつもりか?」
私には、戦う兵士の気分が宿っていた。ここで攻めの姿勢を崩しては、彼女に負けるような気がした。
私の声に彼女は無反応だった。
例えどんな答えが返ってきても、たじろがないことを決め込んでいた。わざと落ち着き払っている自分を見せる気だった。
「あなたには関係ないでしょ」
突然かすれた声が言った。語尾がよく聞き取れなかった。
私はその反応に少しほっとした。
ミツコの声には明らかに先程までの力強さは感じられなかった。言葉に勢いがない。
彼氏の悪口の一つでも言ってやれば、彼女の気持ちはどれだけ紛れることだろう。
確かにミツコに落ち度はないのだ。憎むべきは、ミツコの情緒をこれほど不安定にさせた彼氏の言動なのである。
しかし今それを説明するのは面倒に思われた。敢えて口には出さずにおいた。
「仕事は辞めないでほしいんだ」
私は穏やかな声で言った。
決して優しさの片鱗は見せないつもりだった。そんな安易なやり方で、自分の気持ちを後退させたくはなかった。
「あなたに、そんなこと言う権利はないわ」
ミツコはわざと強い調子で言った。
(いや、それが立派にあるんだ)
私は口元に笑みをもらした。
(ミツコ、君は仕事を突然クビになった人間の気持ちを考えたことがあるかい?)
私は心の中で語りかける。
(仕事をする君はいつも輝いていた。一時の感情で自分を見失うな。これからもずっと輝く女性であってほしい)
「何よ、黙り込んじゃって。都合が悪くなるとそうするのね、ずるいわ」
ミツコは涙混じりに言った。すっかり声が変わっていた。
私はミツコが可哀想に思えてきた。とっくに勝負はついている。彼女は結局、泣くことしかできない。自分に勝ち目がないことを、彼女は最初から解っていたのだ。
(ミツコ、泣かなくてもいいんだ。君は決して悪くない。いつもの君でいればいい)
私はしばらく無言だった。
すると突然、電話回線が切れてしまった。
私は思いがけない出来事に気が動転した。
受話器を強く耳に押し当てた。しかしそこに彼女の声はなかった。あるのは、断続する電子音だけであった。