第五部
6
私の日々の生活は、表面上何も変わることはなかった。仕事場においても、同僚たちは何も知らされていないのか、私に接する態度は今まで通りだった。
本当に私はこの会社を去ることになるのだろうか。誰か止める者はいないのか。
誰にも届くことのない魂の叫びだけが、空しく事務所にこだまする。
正直、今でも信じられない気分だった。
週末が近づいてきた。
最近ミツコは、金曜日の深夜に決まって電話を掛けてきていた。
その時が刻一刻と近づいている。逃げ出したくなる衝動にかられる。身体が飲み込まれてしまいそうな恐怖を感じる。
いっその事、ここは開き直って、堂々とミツコと向かい合ってはどうだろうか。
しかし、自分にはそんな勇気はないのである。元来、私は弱い人間なのだ。それに今、ミツコと対峙するための武器を何一つ持っていない。これでは、負けるのは目に見えている。
ミツコはこれまで私を頼ってきた。その私が、実は見掛け倒しの取るに足らない存在と分かった時、彼女はどう思うだろうか。
おそらく愛想を尽かすに違いない。もう二度と電話をしてくることはないだろう。
それは即ちミツコとの別れを意味している。
しかし、それでもいいのかもしれない、そう私は思い直した。
私がビジネスマンでなくなれば、もはや彼女と対等の立場ではない。お互いが別々の道を行くのも当然の帰結と思われた。
ミツコ。本名も顔も知らない女性。
このまま別れることになっても、何のためらいがあろうか。
そうである。例え彼女にどう思われようと、私が頭を悩ます必要がどこにあるというのか。ミツコは単なる通りすがりの女性である。偶然、袖が触れ合った仲に過ぎない。
目の前にお茶が出された。
事務所での昼下がりだった。女性事務員が一人ひとりの席を回って、一番最後に私の所へやって来た。
「お客様からの頂き物です」
そう言って、丁寧に包装された和菓子を一つ置いた。
「ありがとうございます」
私はかしこまって、深く頭を下げた。
彼女は少し笑って、奥に消えていった。
この会社に初めてやって来た日のことを思い出した。
何をするにも、周りの目を気にしていた。常に不安がつきまとっていた。
端から見れば、それはまさに借りてきた猫のようだっただろう。
今日もあの日と同じ気分だった。まもなくここは、私の居場所ではなくなるのだ。そんな感傷的な気持ちが湧いた。
今頃ミツコも昼休みを迎えていることだろう。のんびりお茶でも飲んで、女子社員との話に花を咲かせているだろうか。それとも休む間もなく、次の見積りに取り掛かっているだろうか。
電話が鳴った。すかさず事務員が応対する。私はそんなやり取りを遠くに聞いていた。
本当にミツコは通りすがりの女性なのだろうか。
彼女は不思議な存在だった。つい最近出会ったばかりなのに、昔から知っていたような気がする。ついこの間まで苦楽を共にした友人がどこかへ引っ越して、電話で近況を報告するような感じなのだ。
そう、私は彼女のことをよく知っている。今はたまたま離れ離れでいるけれど、いつかまた再会できる日を待ち望んでいる。
果たしてそんな大切な人を簡単に手放していいのだろうか。私にとってミツコは友達も同然なのである。
やはり彼女に嫌われないように、自分を飾りたい。最後の力を振り絞って、せめて彼女の前では格好良くありたいと思う。
今はまだ彼女と同じ土俵に上がっていないだけのことだ。幸い彼女は電話の中の存在である。彼女に気づかれないうちに、こちらの体勢を立て直せればそれでいい。
少し時間が掛かるかもしれないが、きっと自信は取り戻せる。ミツコとは今のままの関係を維持しよう。私は一旦そんな結論を出してみた。
そして、ついに金曜日の夕方を迎えていた。
ここへ来て、私は激しく迷っていた。やはりミツコの電話は怖いのだ。今までみたいに彼女と話をする自信が持てない。
今夜はどうすればよいだろうか。
私は、意を決して、席を立った。そして逃げ出すように、事務所を後にした。
この場所に居なければ、電話のベルを聞かなくて済む。ミツコと向き合わなくても済むではないか。
アパートに帰ってきて、暗い部屋で一人考えた。
これまで、ミツコの電話が何よりも嬉しかった。彼女と共有できる時間こそが、心に安らぎを与えていた。
ところが今はどうだろう。見えない不安が日々増幅し、身体を押し潰すまでに膨れ上がっている。
彼女からの電話が怖い。
会社を解雇されたという、たった一つの事実が人の心をこれほどねじ曲げてしまうものなのだろうか。
週明けは、いつもと変わらぬ仕事が待ち受けていた。
気持ちが安定しないまま、時だけが無情に流れていく。
私がこの事務所に居られるのも、いよいよ一ヶ月足らずとなった。何をしても心が満たされない。まるで心に穴が開いたような感覚。どんな仕事もまるで偽善のように思われた。会社内に自分の存在意義を探そうにも、それはどこにもありはしない。
私はそんな思いを、一人抱え込んでいた。
ある平日の昼、私は自分の机で弁当を広げていた。
今事務所には、営業社員が数人、食事に戻ってきていた。
斜め後ろの席で、先輩二人が話し始めた。
「昨日の晩、変な電話が掛かってきたんだ」
私は雷に打たれたように、身体を硬直させた。全身の血液が凍りついた。
「変な電話?」
相手がすかさず声を上げた。
「昨夜は会議の資料作りで残業してたんだよ。そしたら十二時半頃だったかな、突然電話が掛かってきてさ」
私は身体全体が耳になっていた。一言も聞き漏らさないよう、神経を集中させた。
「そんな時間に誰から?」
「若い女の声で、間違えました、って」
「それのどこが変なんだ? ただの間違い電話だったんだろ?」
「いや、それが違うんだ。夜遅い電話だったから、会社名も名乗らずに、もしもし、って言っただけなんだ」
相手は黙って聞いている。
「それなのにその女はいきなり、間違えましたって言うんだぜ。おかしいだろう?」
相手はしばらく何も言わなかった。
そして、
「そうかなあ」
とのんびりした声で言った。
ミツコに間違いなかった。彼女は電話に出たのが私ではないと、一瞬で判別したのだ。
彼女と私にとって普通の電話も、他人からすれば、それは奇妙なものだと言わざるを得ない。これは会社の事務所で深夜に行われている、いわば密会である。お互いにそんな背徳感がすっかり薄れていた。
確かに名前も名乗らないのに、間違いもあったものではない。先輩が不思議がるのも無理はない。
二人の話はまだ続いていた。
「だって考えてもみろよ、『もしもし』だけで、どうして間違いだと判断できるんだ?」
相手はじっと黙り込んで、この謎を解明しようと考えを巡らせているようだった。
そして次のように言った。
「いや、それほど変ではないかもしれんよ。例えば女に電話を掛けたつもりで、お前みたいなのが出てきたら、すぐに間違いだと気づくだろう」
「なるほど、確かにそうかもな。だが、この電話はそれだけで終わらないんだよ」
「えっ?」
相手は知らずそんな声を上げた。
私も身構える。
「三十分ほど経ったら、また掛かってきたんだ」
「同じ女からか?」
「そうなんだ。今度もまた、間違えたって言うんだぜ」
「そりゃ、変だ。何かの嫌がらせじゃないのか?」
「いや、別に悪意は感じられないんだが、何だか怖くなってさ」
「電話はそれで終わりか?」
「俺はそこで仕事を切り上げて帰っちまったから、その後のことは知らない。だが、ちょっと気になってこれを仕掛けておいたんだ」
私は思わず声の方を振り返った。
彼の手には、銀色に輝くマッチ箱のような物が握られていた。
「何だい、それ?」
「ボイスレコーダーだよ。音が鳴ると、自動的に録音が開始される」
「へえ、それでまた電話は掛かってきたのか?」
「さっき確かめたら、入ってたよ。あの後、午前二時、三時、三時半、四時、五時半、六時と六回掛かってきた」
「まさか、嘘だろ」
「いや、本当だ。証拠ならここにある。もちろん電話を取る者は誰もいないから、ベルが数回鳴っては切れる、の繰り返しだけど」
「おそらく同じ女からだろうな」
相手は自信あり気にそう言った。
「もしかすると、この会社に恨みを持った変質者かもしれんぞ」
私は思わず立ち上がった。
「すみません、その電話は私の知り合いです」
突然割って入った私に、二人とも目が点になっていた。
「お前の知り合い?」
「はい、実は昨日電話を掛けてくる約束があったのですが、私がすっかり忘れてしまって。それは、同窓会の打ち合わせだったのです」
私はいつか上司に言ったのと同じことを言った。
ミツコが変人扱いされることが、どうにも我慢ならなかった。
彼女は立派な女性である。私を含めて、この会社の誰と比べても、決して引けを取らない。
先輩二人は、ぽかんと口を開けたままだった。
しばらくして、
「そうか、お前の知り合いか。それなら、いいんだけど」
私の下手な嘘に、どうやら納得してくれたようだった。
私は椅子に座り直して考えた。
ミツコがそれだけ連続で電話を掛けてきたことに違和感を覚える。
私が出なかったとは言え、少々異常ではないか。
まさか私が金曜日に、彼女の相手をしてやらなかった腹いせという訳でもあるまい。
そもそも昨日は平日なのである。
朝まで電話を掛け続けたということは、完全に徹夜をしたことになる。平日に徹夜などして、今日は大丈夫なのだろうか。
私は彼女のことが心配になってきた。
それとも昨夜は大がかりな見積もりでも任されていたというのだろうか。
しかし、それもまた変なのである。
大事な見積もりがあるのなら、そんなに頻繁に電話を掛けてくる余裕などない筈だ。
やはりこれは、仕事の延長などではない。
彼女に何か緊急事態が発生したのではないだろうか。
午前三時に誰も出なければ、四時や五時に掛けても結果は同じだろう。それが分からぬほど彼女は馬鹿ではない。
とするならば、彼女は余程理性を失っていたことになる。
ミツコは、とにかく私と話がしたかった。それが無理だと分かっていながら、何度も何度も私に呼びかけていたのである。
やはり彼女の身に何かが起こったのだ。
私は居ても立ってもいられなくなった。
今のところ、彼女が頼れる人間は私しかいない。それに私は応えてやることができなかった。
(ミツコに一体何があったんだ?)
それから私は仕事に一切手がつかなくなってしまった。