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第四部

     5


 あれから数週間が経っていた。

 朝、テレビをつけると、西日本の梅雨明けを知らせるニュースが映し出された。

 ミツコの住む街は、どうなのだろうか。

 今度電話で聞いてみることにしよう。案外そんな話題から、彼女の住所が判明するかもしれない。

 ミツコは二週に渡って、金曜日の深夜、電話を寄こしていた。

 彼女は話好きな女性である。毎回、実に多くのことを語ってくれる。

 それは生活の中のささやかな喜びであったり、また時には仕事の愚痴だったりもする。

 そんな時、私はいつも聞き役に徹するのだった。話の内容が、たとえ他愛のないものだとしても、彼女の声が私に元気を与えていることに違いはない。

 もうミツコのいない生活は考えられなくなっていた。


「今晩、空いているかい?」

 終業時刻になると同時に、いつの間にか上司が傍に来ていた。

 そんな彼の言葉に戸惑いを覚えながらも、

「はい、大丈夫です」

と私は答えた。

「ちょっと付き合ってほしいんだ」

 彼は指と指を合わせて、それを口に運ぶ仕草をする。どうやら一杯やろうというお誘いらしい。

 周りの社員は、そんな私たちの横をすり抜けて、挨拶だけ残して次々と事務所から去っていく。

 思えば、上司が私一人を誘うのは、これまで一度もないことだった。

 二人はタクシーで、夜の繁華街に繰り出した。

 私はあまり酒の強い方ではない。酒の席では、いつも時間を持て余してしまう。周りがどれだけ盛り上がっていても、酔えない自分はいつも冷静でいるのだ。そんな時、決まって早く帰ることだけを願っている。

 今夜もできるだけ早く解放してもらいたい、そんなことばかりを車内で考えていた。

 駅前の大きな居酒屋に入った。

 平日の夜だけに客の姿はまばらだった。店員の威勢の良い掛け声が、むなしく響き渡った。

 私たちはひっそりとした奥のテーブルを陣取った。

 まずはビールで乾杯する。

「お疲れさん」

 上司からそんな言葉が出た。彼の雰囲気はどこかいつもと違っていた。部下に対する優しさを感じるのだ。どういう風の吹き回しだろうか。

 彼が一気にグラスを空けたので、私はすかさず酌した。

「君は気が利くね」

 彼はそんなふうに私を褒めた。まるで私に負い目でもあるような調子だった。

 私は私生活について色々と尋ねられた。

 話し終わらないうちに、

「若い人も大変だね」

などと彼には不似合いな言葉を挟んだ。

 随分と時間が経っていた。しかしどれだけ話し込んでも、仕事のことは不思議と話題に上らなかった。

 上司は随分と酔ってきたようだった。その証拠に目の縁が赤く染まっている。

 私の方は、ゆっくりとしたペースで、しかも口を湿らせる程度なので、意識ははっきりとしていた。これなら店に入る前とほとんど変わっていないだろう。

 上司は急に黙り込んだ。

 テーブルの料理はほとんど平らげてしまって、二人は互いを見つめ合う格好となった。

「実はね、今日は君に言わなければならないことがあってね」

 彼はそんなふうに切り出した。

「はい」

 私はひどく悪い予感に襲われた。

 会社の中では、私が一番の若手である。もし社員に何か不都合を強いるとなれば、私が最先鋒となることは間違いなかった。

「実は、少し前から決まっていたんだが」

 彼は私と視線を合わせなかった。私の顔を真っ直ぐ見られないようだった。

「すまないが、会社を辞めてもらうことになったんだ」

 語尾がよく聞き取れなかった。彼の声は震えていた。

 私は凝り固まって、声も出せなかった。

「もっと早く君に言うつもりだったんだ。ほら、先月の棚卸しの日だよ。夜中に君に電話が掛かってきただろう?」

 すっかり思い出した。上司がいるところにミツコから電話があった。

 そう言えばあの時、彼は私に何かを言おうとしていたようだった。そこへミツコが割り込んできたのだ。

 なるほど、そうだったか。

 あの夜、私は落ち込んでいたミツコを励ましてやったのだが、呑気にそんなことをしている場合ではなかったのだ。あの時すでに私の人生は大きく方向を変えようとしていたのである。

 客のほとんどいない、がらんとした居酒屋で、時間だけが静かに過ぎていった。

 不思議と怒りや悲しみは湧いてこなかった。

 頭の中は真っ白で、延々と続く上司の話は耳に入っていなかった。

 これが世間で騒がれているリストラなのか。今までマスコミが大げさに騒ぎ立てる作り話かと思っていた。いや、少なくともどこか遠い世界の話だと思っていた。それが自分の身に降りかかってくるとは、これっぽっちも考えていなかった。

 解雇の通達が、これほど日常の延長線で、しかも極めて自然に行われることに感心させられた。当事者にとっては人生を大きく左右する問題であっても、会社にとっては別段大したことではないらしい。

「すまない」

と言う上司の言葉がやっと耳に届いた。

「来月一杯なんだ」

 私の頭は何も受け付けようとはしなかった。その言葉の意味を一生懸命に考えた。

 突然、ミツコの声が浮かんだ。この瞬間、彼女に負けた気がした。いや、元々彼女に勝てないことは分かっていたのだ。

 いつだったか、ミツコは輝いてる、そう彼女に言った。今にして思えば、笑止千万である。自分は輝くどころか、彼女と同じ土俵にすら立っていない。

 私は会社を去ることになった。もうあの事務所でミツコを待つことはできない。深夜、彼女の話に付き合ってやることはできなくなった。

 彼女にどう説明すればよいだろうか。そんな想いが頭を渦巻いていた。


 居酒屋の前で上司と別れ、私は一人タクシーに乗っていた。タクシー代は彼から貰っていた。

 今夜はすっかり酔いたい気分だった。しかし悲しいことに、酔えるほど酒を飲むことができないのだ。

 私は大人しく、後部座席に身を沈めて、流れゆく夜の景色を眺めていた。

 外はネオンの洪水だった。それら店の数だけ働く者がいる。そして店に群がる者もまた、どこか別の場所で働く者たちである。

 これまで労働者としての自分に何の疑いも持たなかった。朝起きれば、自然と会社に足が向いていた。文句を言いながらも日々の仕事を片付けていた。

 働くということに、一体どんな意味があるのだろうか。

 タクシーの運転手が羨ましくなった。彼は悩む暇もなく、生き生きとハンドルをさばいているではないか。

 彼には決して、今の私の心境を理解できないだろう。

 始めからやり直しだ、そう思った。

 私はこれまで築き上げてきた、信頼や自信を一気に失った。

 ミツコと再び対等に話せるようになるには、果てしない時間が必要に思われた。彼女に対して、今は敗北感しか湧いてこなかった。


 タクシーを降りた。

 そこには明かりの消えた会社が、まるで壁のように立ちはだかっていた。

 不思議な気分だった。夕方ここを出た時と今とでは、まるで天と地ほどの隔たりがある。本当に自分は、数時間前と同一人物なのだろうか。

 鍵を開けて事務所に入った。

 明かりもつけず、自分の机まで歩いていった。

 真っ暗に思えた空間も、月明かりがほのかに差し込んでいるのが分かる。目が慣れると、歩くにはこれで十分である。

 腰を下ろす。スチールの椅子が乱暴な音を立てた。

 机の上では、電話機がその存在を主張していた。

 反射的に腕時計を見た。十一時を過ぎたばかりである。

 受話器を見つめていると、ミツコの声が聞こえてきそうだ。今晩、彼女は電話を掛けるつもりだろうか。

 これまでは、ミツコからの電話が待ち遠しくて仕方なかった。

 しかし今は違う。

 正直、ミツコとは話したくない。自分がここを去ることは、いずれ打ち明けなければならないだろう。しかしそれは今晩やるべきことではない。まずは自分の気持を整理することが先決だ。

 しかし電話機は、今すぐにでも鳴り出す予感がする。

 私は怖くなった。

 もし本当に鳴り出したらどうしようか。いや、無理に応答する必要はないのだ。そう心に言い聞かせて、絶対に出ないことに決めた。

 しかしいつかはミツコに真実を伝えなければならない。

 私が会社を辞めるなら、彼女はここへ電話を掛ける意味がない。

 それは即ちミツコとの別れを意味している。

 彼女が真実を知ったら、私を軽蔑するだろうか。それとも同情して、励ましの言葉でも掛けてくれるだろうか。

 いずれにせよ、ミツコとは今まで通りに話ができなくなった。それだけは間違いない。

 私はしばらく放心していた。

 電話が怖いなら、さっさと帰ればよいものを、敢えてそうしなかった。実は心のどこかで、ミツコの電話を待っているのではないか。

 こんな時だからこそ、彼女に傍にいてほしいのだ。情けない自分を笑い飛ばしてほしいのだ。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。

 表の蛍光灯に群がる虫の羽音が聞こえていた。

 どうやら今夜はミツコからの電話はないようだ。

 心の中は、安堵の気持ちと寂しい気持ちとが同居していた。

 もし電話のベルが鳴ったなら、私はすぐに受話器を上げて、今の気持ちを包み隠さず話すだろう。

 ミツコはきっと分かってくれる、そんな気がした。


 その晩、アパートに帰ってきて、ベッドに横になったところで一睡もできなかった。

 考えるべきことがいくらでもあった。

 まずは両親には何と説明しようか。初老を迎えた二人を驚かせてはならない。それには慎重に言葉を選んで説明する必要がある。

 また友人にも対策が必要である。必要以上に気を遣われるのが最も辛い。余計な心配を掛けないように軽い話にしなければならない。

 それに興味本位であれこれと詮索されるのも困る。一々それに応じていては、その都度精神が削られるだろう。こちらの身がいくつあっても足りない。

 いずれにせよ、みんなが騒ぎ立てないようなストーリーは用意せねばなるまい。

 そこは営業マンとして、何とか言いくるめる自信はある。

 ではミツコにはどう言えばよいだろうか。彼女に対して嘘はつきたくない。あくまで本音でぶつかりたい。

 目を閉じると、ミツコの声が聞こえてくる。それはいつまでも耳から離れなかった。

 やはり今すぐにでも、ミツコと話をしなければならない、そんな気がする。

 しかし私自身、まだ気持ちの整理がついていないというのに何と言えばよいのか。

 私は自問自答する。

 ミツコには解雇されたことをしばらく伏せておこうと思う反面、やはり正直に打ち明けたいとも思う。安っぽいプライドなどさっさと捨てて、彼女に全てを聞いてもらえたら、どんなに気が楽だろう。

 私はこれまで、ミツコが私を必要としているのだと思い込んでいた。孤独で行き場のない彼女は、深夜になると私を頼ってくるのだ、そう決めつけていた。

 彼女の電話番号を知らなくても何も困ることはなかった。なぜなら電話を必要としているのは、いつも彼女の方なのだ。

 私は堂々と構えていればよかった。ミツコが私を訪ねてきたら、広い心で彼女を包み込めばよい。それが私の役目だった。

 それが今はどうだろう。

 私はいとも簡単にその立場を追われてしまった。

 もはや彼女を助ける側ではない。助けられる側である。次の電話で、彼女はひどく失望することだろう。しかし今の私にはどうすることもできない。

 彼女を支える力は、私にはもう残されていないのだ。

 そう、今回ばかりは彼女に支えてもらいたい。彼女の口から、叱咤激励が聞きたいのだ。


 次の朝、私は複雑な気分で会社に向かった。

 地に足が着かないとは、まさにこのことだった。昨日の晩の出来事を信じることができないのだ。それほどいつもと変らぬ朝なのだった。実は悪い夢でも見ているのではないか、と本気で考えた。

 解雇されるのは、私一人なのだろうか。

 私は自分の席について、事務所の中を見回してみた。

 いつもの忙しい朝である。誰もが何の迷いもなく、仕事を始めている。

 そんな中、私の心の異変に気づく者など誰もいない。まだ箝口令が敷かれているのだろう。

 私はどんな表情を浮かべてよいか分からずに、今日の仕事の予定を確認した。

 しかしこんな不安定な気持ちのまま、残りの一ヶ月をどう過ごせというのだろうか。

 会社を辞めるからといって、手を抜こうとは思わない。少しでもそんな素振りを見せようものなら、だから解雇されたのだと、みんなを納得させてしまうだろう。

 ここは一つ、この解雇が不条理なものだと思わせたい。そのためには、私に残された道はただ一つ。これまで以上の働きを見せて、私を手放すことが誤った判断だったと会社に思わせることだ。

 そう、この会社に後悔させてやる。

 机の電話が鳴った。

 私は誰よりも早く受話器を取り上げた。

 ミツコからの電話も、こんなふうに応じることができるのだろうか。

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