第三部
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あの晩を最後に、ミツコからの連絡は途絶えてしまった。
昼間の慌ただしい事務所の中で、私は一人で戦っていた。営業という仕事は、実に孤独なものである。手を差しのべてくれる同僚などいない。
仕事に一区切りつくと、決まって思い出すのはミツコの声であった。
机の卓上カレンダーを見つめる。
もうかれこれ二週間が経過していた。
毎週金曜日の夜になると、大した仕事もないのに、私は一人事務所に残って電話を待っていた。
しかし先週も、先々週もミツコからの連絡はなかった。
彼女は一体どうしてしまったのだろうか。
そんなことを考え始めると、息つく暇もなく、目の前の電話が鳴り出す。
昼間の事務所は、私を休ませてはくれない。
私は、誰よりも素早く受話器を取る。
(もしやミツコからではないか?)
しかしそんな筈がないのであった。顧客からの電話である。
私は軽い落胆を覚えながらも、的確に処理していく。
やはり彼女は深夜にしか現れない。誰にも見られないように、密かにここまでやって来る。こんな明るい時間に現れる筈がない、か。
それにしても、彼女は私との「ホウレン草」を守ってないではないか。そんな不満が頭をもたげて、つい笑ってしまった。
私たちはビジネスで繋がった間柄ではない。したがって報告、連絡、相談をする必要もない。
しかし、しかしである。
ミツコは確かに私のことをどこか頼りにしているようだった。私もそんな彼女の心をしっかりと受け止めていた。
彼女にとって、私はもう必要ではなくなったとでも言うのだろうか。
それは考えられないことではない。彼女の身の周りに、相談できる人物が現れたのかもしれない。例えば、頼りがいのある男性が身近にいるのなら、もはや私は用無しである。
彼女が最後に言った言葉が思い出された。
「明日は結婚式」か。
実は結婚するのは友達などではなく、ミツコ本人だったのではないか。今にして思えば、彼女はとっさに口からでまかせを言ったのではないだろうか。
それならもう彼女は私に電話してくることはないだろう。
私はそんなことを考えながら、ぼんやりと電話機を眺めた。
その日は、運悪く本社の視察と棚卸しが重なってしまった。そのため業務が終わったのは午前一時近くになった。
社員たちはみな、疲れた身体を引きずるようにして帰り支度を始めた。
もう何時間か後には、次の日の業務が始まっている。誰もが無口になるのも無理はない。最小限の挨拶を交わして、各自が事務所を後にした。
知らぬ間に、事務所に残されているのは、私と上司だけになった。
彼は私に何か話があるようだった。明らかに他の社員がいなくなるのを待っていた。
「君は最近、頑張っているようだね」
彼はわざわざ私の机までやって来て、そんなことを言い出した。
「どうも」
私はそんなふうに応えたが、違和感を抱かずにはいられなかった。
このように、上司が人を褒めることは決してない。これには何か裏があるに違いない。それは何なのか、私はあれこれ思いを巡らせた。
「それで、折り入って話があるんだが」
そこまで言った途端、二人の間に置かれた電話が鳴り出した。
上司は驚いて、一瞬のけ反るような格好をした。
まさか!?
私が受話器に手を伸ばそうとした次の瞬間、それは先に上司の手の中に収まっていた。
「もしもし?」
彼はそんな短い言葉の中に、相手に精一杯の不快感を表していた。
「こんな時間に、一体どなたかね?」
さらに彼は語気を強めた。相手を端から信じていない乱暴な言葉遣いだった。
私には、その電話の主が誰だか分かっていた。実にタイミングの悪い電話をしてくるものだ、と思った。
「君の名前って、ヒロシだったかい?」
上司は電話を保留にせず、私に問いかけた。
「それは私のあだ名です」
「そうか。相手はミツコと名乗っているが」
思った通りである。やっと来たか、と心の中は嬉しくなる。
しかしそれを上司に悟られないように、無表情のまま、
「彼女は高校の同級生です。今度同窓会をやるので、その打ち合わせの電話です」
と口から出まかせを言った。
「そうか」
彼は、受話器を私に突き出した。もう疑ってはいないようだった。と言うよりこの電話には興味がなくなった様子だった。
「もしもし?」
「こんばんは、ミツコですけど」
久しぶりに聞く声だった。心に安堵が広がる一方で、上司を先に出してしまったことが悔やまれた。
「ヒロシです、お久しぶり」
私は上司の顔を伺いながら、平静を装って言った。
「ごめんなさい、まだ事務所に他の人が残っていたんですね」
電話の向こうで、ミツコが恐縮しているのが分かる。
「いえいえ、別にいいんですよ」
上司はしばらくそんな私たちのやり取りを聞いていたが、
「それじゃ、私は先に帰るよ。後は頼む」
と手を挙げて出て行った。
私は軽く会釈をしてから、椅子に腰掛けた。
上司の姿がなくなると、事務所は途端に静かになった。重圧から解放されたような気分になった。
「ヒロシさん、ごめんさない。また掛け直します」
ミツコが言う。
「いやいや、大丈夫です。もう私一人ですから」
「そうなんですか?」
「今のは、ウチの上司です。失礼な言葉遣いですみませんでした」
「それは構いませんが、ヒロシさん、怒られたりしませんでしたか?」
ミツコは心配そうに訊いた。
「大丈夫ですよ」
私はわざと笑ってみせた。
「それならいいのですが。でも、ちょっとビックリしちゃいました。まさかヒロシさん以外の人が出るとは思ってもみなかったので」
確かにミツコはこの会社の名前も、私の本名も知らないのだ。さっきはさぞ困ったことだろう。
そんなことよりも、私はミツコの声が聞けて嬉しかった。
彼女は以前と変わっていなかった。私の心を覆っていた暗雲はすっかり消えていた。
「それにしても、お久しぶりですね」
私はまた同じような台詞を口にした。嬉しさが隠せなかった。
ミツコは私のことを忘れてはいなかったのだ。
「ヒロシさん、今日は何かいい事でもあったのですか?」
彼女には、電話の向こうから私の表情が見えているようだった。
「いえ、別に」
「でも、何だかとっても嬉しそう」
ミツコの羨ましそうな声が、受話器から伝わる。
彼女は、私の気持ちとは裏腹に、どこか重苦しい雰囲気を引きずっているように思われた。
「遅くまで、お仕事ご苦労さん」
私はミツコにそんな言葉を掛けた。
不思議と自分の疲れが消えていくような感覚があった。朝からずっと働き詰めで、身体はぼろぼろの筈なのに、こうしてミツコと向き合っているとそれも癒される。
私は少し躊躇したが、やはりこれだけは言わずにはいられなかった。
「正直、淋しかったですよ、私のことをすっかり忘れてしまったのではないか、と思ってました」
ミツコは一瞬言葉に詰まったようだった。どう返事をすればよいか、迷っているようだった。
彼女の反応に私は焦った。何かマズいことを言ったのだろうか。自分の言葉を頭の中で繰り返した。ミツコは何か勘違いして、不快な気持ちになっていないか心配になった。
私に他意はなかった。自分の正直な気持ちを伝えたかっただけである。私はすぐに言葉を変えて、会話を立て直した。
「最近、お仕事の方は暇だったのですか?」
「えっ、どうしてですか?」
ミツコは今度はすぐに反応した。
「だって電話がなかったということは、残業もなかったということでしょう?」
「いえ、違うんです。週末は連続して、見積もりの研修会で出張してました」
「へえ、そうなんですか」
私は驚いた。
「しかも泊まりで」
そう言うと、ミツコは小さくため息を漏らした。どうやら嫌なことを思い出させてしまったらしい。
「でも事務所を離れて、いい気分転換になるんじゃないですか?」
私はカボチャ上司のことを思い出していた。出張の間は、彼の顔を見なくて済むではないか。
「それが全然なんです。出張先では、ユウウツな気分になりました」
「と言うと?」
「各営業所から積算課の女子社員が、研修センターに集められるんです。そこで朝から晩まで缶詰です」
「見積もりの練習ですか?」
「まあ、そんなところですね。新しい建材が次々に出てきますので、それに合わせて積算方法も変わるのです。そのための勉強会です」
「結構、大変なんですね」
私は心の底からそう言った。
私たちはもう学生ではない。実際に仕事に就いている社会人である。そんな人間が、日頃の業務を抱えながら、新しい勉強に時間を割くのは大変なことである。
やはり大企業は、それだけ社員教育に力を入れているということか。
「いえいえ、その勉強会はそんなに辛いものではないんです」
ミツコは、私が勝手に勘違いしていると思ったのか、そんなことを言った。
「私たちは、今回地方から集められたのですが、元々、都市部で働いている女子社員も居るんです」
「はい」
一体何の話が始まったのか、私はただ黙って聞くしかなかった。
「そんな彼女たちは、私と年齢がほとんど変わらない筈なのに、とても輝いて見えるんです。それがちょっと悔しくて」
私にはその意味がよく分からなかった。都会の女性は綺麗ということか。
ミツコはそんな私に構わず、話を続けている。
「都会の営業所では、地方とは違って部署がきちんと別れていて、積算に没頭できるのです。余計なことがない分だけ、スマートに仕事をこなせます。だから当然、仕事も速い。もちろん仕事のできる子を配置しているからでしょうけど」
なるほど、読めてきた。どうやらミツコは都会の女子社員の環境が羨ましい、と言いたいらしい。
敢えて私は口を挟まず、聞き役に徹した。
「彼女たちとセンターで一緒に勉強するんですけれど、何と言うか、彼女たちは自信たっぷりに見えるんです。私なんか、田舎から慣れない場所にやって来て、それだけで気後れしているというのに。
彼女たちは、おしゃれに制服を着こなして、休み時間に、別の部署の男性社員と仲良く話しているんです。まるで私に見せつけているようでした。私、平静を装っていましたけど、自分がとてもちっぽけに思えてきて」
ミツコは一気に話すと、最後に付け足した。
「ヒロシさんには、この気持ち、分かりますか?」
今度は、私が言葉に詰まる番だった。
深夜の事務所は、実は無音ではないことに今気がついた。
廊下に設置されたジュースの自動販売機が、低いモーター音を立てている。
ミツコの方は私の返答を待っていた。それまでは言葉を発しないつもりらしい。
「ミツコさんは、ちっぽけな女性じゃないですよ」
私には気の利いた言葉は浮かばなかった。ただそうやって、思ったままを口にした。
「ヒロシさんは、優しい人ですね」
ミツコは短く言った。それは感情の一かけらも入っていない言い方だった。
「でも、気休めはおっしゃらないで下さい」
そう、ぴしゃりと言った。
今夜のミツコはいつもと違っていた。まるで私に挑戦してくるかのようだった。それなら私も本音でぶつかろうという気になる。
「別にそんなつもりで言ったわけじゃない」
「でも、ヒロシさんは、私がどんな女か知らない筈ですよ。私たちは顔も合わせたことがないのですから」
なるほど、それは確かに彼女の言う通りである。
私たちは、深夜に電話で話すだけの間柄である。顔も本名も知らなければ、ましてや性格など理解している筈もない。それは事実だ。
しかしなぜかミツコのことは昔からよく知っているような気がするのだ。
まるで家族のように、肩肘張らずに自然体でいられる。仕事で汚れた心が、彼女と話すうちに、浄化されていく。
「うまく言えないけれど、ミツコさんはもっと自信を持っていいと思う。正直、夜の見積もりに疲れたミツコさんしか知らないけれど、おそらく昼間は、みんなから頼りにされている存在なのだと思う」
ミツコは黙って聞いている。
「前に聞いた年上の事務の女性も、カボチャ上司も、君を信頼しているからこそ、仕事を頼んでいるんじゃないのかな。それをてきぱきこなしている君は、きっと輝いて見える筈だよ」
「そうでしょうか?」
「ボクはそう思うよ。それに…」
「それに?」
ミツコは思わずつられて、そんな声を出した。
「ボクも、君のことを頼りにしているんだ」
「えっ?」
「君と話していると、心が軽くなるんだ。どれだけ仕事に疲れていても、明日の活力が湧いてくる。また、君に負けないように頑張ろう、ってね」
ミツコは電話の向こうで、涙をすするような音を立てた。
「だから他人と比べてあれこれ悩むよりも、もっと自分を中心に考えて、自信を持てばいい、と思うんだ」
私から見ても君は輝いている、と付け足そうと思ったが、それは言わなかった。
「分かりました、ありがとうございます」
最後はミツコは素直だった。私の意見をしっかりと受け止めているようだった。
私は営業という仕事を通して、これまで多くの人と接してきた。だから話をするだけでも、相手がどんな人物か、ある程度の見当は付けられる。
ミツコに言ったことは、決して嘘ではない。私にとってミツコは素敵な女性である。それは今までの会話から十分に感じ取っていた。
「もっと早く、ヒロシさんに電話すればよかったかも」
「えっ?」
「実は私、研修センターの宿舎で、一人ベッドに横になって、最初に思い浮かんだのは、あなたのことだったの」
その言葉は、私の心を大きく揺さぶった。
いつしか背中に羽根が生えたようだった。身体が軽く感じる。今にも空に浮かび上がってしまいそうな感覚があった。
「そこで電話してくれればよかったのに」
私は残念そうに言った。
もしその晩、電話を取っていれば、彼女の心の迷いを、すっかり取り去ってやることができたかもしれない。
「でも、出張疲れで早々と寝ましたから、深夜ではなかったのです」
「別にいつだって構いません。話したい時はいつでもどうぞ」
「ありがとうございます。でも、こちらが残業していない分、何だか気が引けますね。ヒロシさんの方は、お仕事中なのだから」
そんな細かいことにミツコは拘っていた。いや、根が真面目なのだろう。
「いえいえ、全然平気ですよ。ボクは日頃、ミツコさんから勇気づけられているから、そのお返しに、いつでもお役に立てればいいと思ってます」
「分かりました。では今度何かあったら、真っ先に電話しますね」
ミツコは嬉しそうに言った。
私もそんな彼女の弾んだ声が、とても嬉しかった。