第十四部
店内には軽快な音楽が流れている。そのリズムは、客の購買心を煽るためのものである。人々の心は解き放たれ、次から次へと商品を手に取ってしまう。大きな店舗の通路は、どこもかしこもそんな客の笑顔で溢れていた。
しかしその音楽も私の心には何ら響かなかった。足取りも重かった。それは疲れているからではない。仕事を抱えながらも、私のためにここまでやって来たミツコにどう応えればよいのか、それが分からないのだ。
このまま彼女を帰してしまう訳にはいかない。ぼんやりとそんなことを考えた。
いつの間にか、持ち場のエアコン売り場に戻ってきた。
しばらくして、私を追うようにミツコが現れた。
辺りを見回すようにして、
「お昼の時間でもお客さんは全然減りませんね」
と言った。
私は腕時計に目を落とした。もう何度目の確認になるだろうか。
「日曜日ですからね」
そう答えながらも、私は別のことを考えていた。二人に残された時間はあとわずかしかない。
「私、ここに居ても構いませんか?」
ミツコはハッピを着込んだ私にそう訊いた。
「ええ、どうぞ。君はお客様ですから」
「お邪魔じゃないですか?」
「とんでもない」
私は慌てて答えた。
ミツコが邪魔である筈がない。むしろいつまでも傍に居てほしいぐらいだ。
「よかった」
そう言って、彼女は私の隣に並んだ。
ミツコは決して仕事の邪魔をしなかった。お客がやって来ると、遠くで私を見守った。
そんな彼女の視線の中、私は普段通りに、的確に仕事をこなしていった。
通路を挟んで隣の売り場から、突然男の怒鳴り声が聞こえてきた。
周りにいた客、店員に緊張が走った。
私とミツコも顔を見合わせた。すぐに声の方へ駆け出した。
中年男性が、女性店員に向かって、わめき散らしていた。それはまるで子供を叱りつけるようなやり方だった。相手に反論する隙を与えないといった構えであった。
その勢いに圧倒されて、女性店員はまるで身動きができずにいた。
集まってきた他の店員たちもどうすることもできず、遠巻きに事態を見守るしかなかった。
「どうかなさいましたか?」
私は男に近づき、優しく声を掛けた。
今度は、攻撃の矛先が私に向けられる。女性店員を解放し、私に食ってかかってきた。
話を聞くと、どうやら価格交渉をしていたのだが、店員があまりにも素っ気なかったので、その態度に腹を立てているらしかった。
私は逆らうことなく、じっと彼の話を聞いていた。
そのうち男は、独り相撲だと気づいたらしく、捨て台詞を吐いて消えていった。
「助かりました」
すっかり人陰に隠れていた女性店員が頭を下げた。
「悪いのは向こうですから、気にしなくても良いと思います」
私はそう応じると、持ち場へ歩き出した。現場に居合わせた店員たちやヘルパーらの無言の視線を背中に感じる。
すぐ目の前にミツコの顔があった。
「大丈夫ですか?」
彼女が心配そうに訊いた。
「平気ですよ」
安心させるように、わざと明るく言った。
「遠くから見ていましたけど、何だかとっても怖かったです」
私は軽く笑った。
「こういうことはよくあるんですか?」
ミツコはまだ恐怖感が消えない様子である。
「たまにありますよ。でも相手の話をじっくり聞けば、大抵は納得してくれますから」
「そうなんですか」
ミツコはほっとした声で言った。
食事の時間を過ぎると、一段と客の流れが激しくなってきた。エアコン売り場にもどっと人が押し寄せてくる。
私は隣のミツコに話し掛けようとするのだが、なかななタイミングが掴めなかった。
「あの、すみません」
今度は幼い子を抱えた若い母親が現れた。
「この辺で、五歳の男の子を見掛けませんでしたか?」
彼女は居ても立ってもいられない様子だった。どうやら子供が迷子になったらしい。
「残念ながらお見掛けしていませんが」
自然とミツコの方へ目をやった。彼女も頷いた。
「そうですか」
落胆した母親は、それでも先を急ごうとした。
「私もご一緒に探しましょうか?」
そうミツコが申し出た。
その声は母親の心の奥に、一筋の光として届いたようだった。少しばかり顔が輝いた。
「すみませんが、お願いできますか?」
「はい」
ミツコは私に目配せをすると、母親と一緒に通路を先へと歩み始めた。しばらく行って、二人は左右に別れた。
一方、私は老夫婦に呼び掛けられて、商品の説明を求められた。
ミツコは大丈夫だろうか。応対をしながら、さりげなく時計を見た。
もうミツコの帰る時間が迫っていた。それでも五分、十分と、時間が経過していく。
しばらくしてミツコが小走りに戻ってきた。
「どうなりましたか?」
「二階のゲーム売り場にいました。お母さんが心配してるのに、本人はゲームに夢中で平気な顔しているのですから、何だか拍子抜けでした」
ミツコは息を切らしながらも、笑顔で言った。
「ご苦労さまでした」
「お仕事、大変なんですね」
ミツコはぼそっと言った。
それは表面的な意味なのか、それとももっと深い意味があるのか、私には分からなかった。
ひょっとすると、せっかく会いに来た自分を放ったらかしにしていることに不満に感じて、最大の嫌味を言ったのかもしれない。
確かに彼女にも一理ある。
せっかく出会えたのに、そしてこんなに傍に居るのに、私には彼女に構っている暇がない。
しかしそれも仕方のないことである。ここは私の職場である。遊びではない。それはミツコなら理解してくれる筈だ。
「それじゃあ、私そろそろ行かないと」
とうとうミツコが切り出した。
私の胸は締め付けられるようだった。