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第十三部

 私は思わず自分の胸元に目をやった。

 プレートがワイシャツに張り付いている。そこにはフルネームが大きく踊っていた。こいつはすっかり忘れていた。

 ミツコは私の前に立ち塞がった時、まず最初にこの本名を目にしたのだろう。

 いつだってそうだ。

 ミツコは私のことを何でも知っている。しかし私はミツコのことをほとんど知らない。彼女は私をおいてどんどん先へ進んでいく。どうやっても彼女に追いつけない。私にはそれが歯がゆくて仕方がない。

「お客様、配送はどうされますか?」 

 突然、レジの女性店員の声がした。

 ミツコは慌てて立ち上がった。

「あの、自分で持ち帰ります」

「市内は配送無料となっておりますが」

「いえ、結構です」

 女店員はミツコがどこからやって来たのか、まだ知らないのだ。後で伝票を見てから驚くに違いない。

「結構大きな箱だけど、どうするの?」

 私はミツコに訊いた。

「そうですね、宅配便で送ろうと思います」

「それじゃあ、僕がその手配をしておきますよ」

「ありがとうございます」


「なんだ、ここに居たのか」

 振り返ると、店長が立っていた。

 ミツコの姿を目にした途端、笑顔になった。

「お嬢さん、彼に会えてよかったですね」

「はい。おかげで助かりました」

 ミツコは深々と頭を下げた。

 店長は、私の方を向いた。

「そうそう、君を呼びに来たんだ。食事がまだなんだろう。店の方はいいから、食べてきなさい」

 それから、ミツコの方に向かって、

「あなたもまだでしょう。お弁当ですが、よかったら彼と一緒にどうです?」

「私のような部外者がお邪魔してもいいのですか?」

「構いませんよ」

「ありがとうございます」

 ミツコはそう言って頭を下げた。

「お二人さん、どうぞごゆっくり」

 店長はそんな言葉を残して、その場を立ち去った。


 私はミツコを詰所まで連れていった。

 昼時でも、客の流れは途切れることはない。二人は人を縫うように進んだ。

「店長さんって、優しい方ですね」

 横に並んだミツコが、私を見上げて言った。

「君のお土産が効いてるんだろう」

 彼女はクスクスと笑った。

「さっきお弁当って言葉を聞くまで、すっかり忘れてました。実は昨日の晩から何も食べてないんです」

 ミツコは手でお腹を押さえるような仕草をした。

「えっ、そうなの?」

 私は驚いた。

「はい、夜行バスに乗ったら、食べるタイミングを逃してしまって」

「それなら、お土産を食べちゃえばよかったのに」

「ああ、そうでしたね。さすがにその手は思いつきませんでした」

 ミツコは身体を揺らして笑った。

 彼女は列車、夜行バスを乗り継いで、慌ただしくここまでやって来た。そして着いた途端、今度は帰りの時間を気にしている。

 ミツコは一体何のためにここへ来たのだろうか。


 詰所のドアを開くと、彼女は私の背中に隠れるようにして中に入った。そして後ろ手にドアを閉めた。

 部屋の中は、昼というのにどこか暗い感じがした。店内の照明が眩しすぎるあまり、たった数本の蛍光灯では余計にそう見えるのかもしれない。

 スチール製のロッカーに囲まれて、別のヘルパーが三名、一つの机で弁当をつついていた。

 私は段ボール箱から仕出し弁当を二個取り出した。それを机の上に置いてから、お茶を淹れようと流し台の前に立った。

「私がやります。ヒロシさんは座っていて」

 ミツコはすぐさま私の前に身体を滑り込ませた。

「湯飲みはこれを使っていいんですか?」

「はい」

 私は椅子にどかっと腰を下ろした。

 昨日今日と、ずっと立ったままである。さすがに疲れもピークに達していた。

 ミツコはお盆にお茶を載せると、先に三人のヘルパーらに差し出した。

「よろしかったら、どうぞ」

 見ず知らずの女性から優しく声を掛けられて、彼らはみな驚いた表情を浮かべた。

「どうも」

 口を動かしながら、彼らはそれぞれに頭を下げた。

 ミツコは私の前にも湯飲みを置いた。

 そんなミツコの手はとても綺麗だった。私は彼女をとても誇らしく感じた。自分は本当にミツコのことが好きなんだな、と改めて思った。

 二人は向かい合って座った。

「おいしそうですね」

 ミツコは弁当の蓋を取るなり、そう言った。

 少々大げさかもしれないが、昨日から何も食べていないのなら、そんな感想もおかしくはない。

 それとも私たちヘルパーに気を遣って、場の雰囲気を盛り上げようとしているのか。

 いずれにせよ、私にとっては、いつもと変り映えのない弁当でしかない。

「いただきます」

 彼女は元気よく箸を付けた。

 私はそんな彼女の様子を、しばらく眺めた。

 ミツコは不思議な女性だな、と思う。

 はるばる遠くからやって来たと思ったら、今度は私の目の前で冷たい弁当を食べている。

 接すれば接するほど、彼女のことが分からなくなる。いつも新たな一面を彼女は用意している。

 いつまで経っても、彼女のことが理解しきれない。彼女はこんなに堂々としているのに、こちらは心の焦りだけを感じるのだ。


「ミツコさんには、もっと旨いものをご馳走したかったな」

 そんな言葉を掛けた。それは本心だった。

 ミツコは箸を休めて、私の顔をまじまじと見た。

「私はこれで満足してます。あなたと一緒にお食事できたことに意味があると思いますから」

 真面目な顔をしてそう答えた。

 隣の三人組はさっきから彼女のことが気になって仕方がないという様子だった。

 一見、無関心を装ってはいるが、彼女の言動に注意を払っているのが、ひしひしと伝わってくる。

 一方ミツコの方は周りをまるで気にしていなかった。

 私だけをじっと見つめていた。

「確かにそうですね」

 私はそんな言葉を返した。

 それを聞くと、ミツコは笑みを浮かべた。それから少し照れたように、また黙々と食べることに専念した。

 私は、彼女の言葉を噛みしめた。

 今は一分一秒でも長く彼女といたい。他には何もいらない。


 食事を続けながらミツコが訊く。

「ヒロシさん、いつもお食事はどうしているんですか?」

「ほとんど外食です」

「それじゃあ、好きなものしか食べてないんでしょ?」

「まあ、言われてみれば、そうですね」

「お野菜なんか、ちゃんと採ってますか?」

「いえ、全然」

「栄養が偏よっちゃいますよ」

 ミツコはまるで母親のようなことを言う。

「ミツコさんこそ、どうなんですか?」

 私はささやかながら反撃に出た。

「私は家でお弁当作って、お昼はそれを食べてます」

「毎朝、面倒じゃないですか?」

「そんなことないですよ、慣れれば大丈夫」

 ミツコはそう言ってから、

「お弁当を瞬時に送れる電化製品が発明されるといいですよね」

と突拍子もないことを言い出した。

「そうすれば、毎朝私が作ったお弁当をヒロシさんに食べてもらえるでしょ」

 それを聞いた途端、部屋の中は爆笑の渦に包まれた。


 私はあっと言う間に食事を終えてしまった。

 いつもの癖である。営業という職業柄、昼食に時間をかけることがひどく無駄に思えてならない。

 一方、ミツコは食べるのが随分と遅かった。一つひとつをしっかり味わって食べている。本来食事には、こういった心のゆとりが必要なのだと思う。この仕事をするようになってからすっかり失っていた感覚である。

 今度違う職種に就いたら、そんな当たり前の感覚を取り戻すことができるだろうか。

 私はミツコが食事する姿をじっと眺めた。

 今日初めて顔を合わせた筈なのに、彼女のことは昔から知っていたような気がしてならない。どうしてミツコはこんなにも深く、私の心に入り込んでいるのだろう。

「お先に」

 そんな台詞を残して、三人のヘルパーたちはそれぞれの持ち場に戻っていった。

 今、この薄暗い部屋にいるのは、ミツコと私だけになった。

 腕時計を見た。

 時間だけが容赦なく経過していた。

 もうミツコに残された時間は一時間足らずである。

 同時にそれは、私に残された時間でもある。

「ごちそうさまでした」

 ミツコは両手を合わせてそう言うと、勢いよく立ち上がった。ワンピースの腕をまくって、どうやら使った湯飲みを洗うつもりらしかった。

 その時に、彼女の身体が机と接触して、カツンと乾いた音を立てた。

 それは不思議な音だった。

「大丈夫?」

「ああ、忘れてました」

 ミツコはそう言うと、左のポケットから何かを取り出した。

 それは小型の電卓だった。

「どうしたんですか、それは?」

 清楚な白いワンピースには不釣り合いな代物である。

「実は見積りを二件抱えてまして、明日の朝一番に提出なんです」

「まさか、ここに来る途中、見積りを?」

 私は驚いて訊いた。

「はい、電車の中でずっとやってました。さすがに夜行バスでは無理ですね。何とか一件はもう少しで完成するところです」

 彼女は事も無げに言った。

 私は心が締め付けられるようだった。

 揺れる電車の中、人目もはばからずに仕事をしていたミツコ。

 そんな仕事を背負ってまで、はるばる私に会いに来たミツコ。

 私は彼女を愛おしく思えた。彼女を抱きしめたいという衝動に駆られた。

「そんなにしてまで、どうして?」

 私は涙が出そうだった。こみ上げてくる複雑な感情をやっと押しのけて、ただそれだけを言った。

「今日は、テレビを買いに来たんですよ。ぜひとも、ヒロシさんから買いたかった」

 ミツコは私を見つめて言った。

 私の最後の仕事を、こうして見届けたかったというのか。

 ミツコという女性に知り合えて本当に良かった。

 これまでの深夜の電話のやり取りが、一つひとつ思い出されるようだった。

 遠く離れていても、ミツコはいつも私の傍に居た。

 そして今も彼女は傍に居る。これからもずっと一緒に居たい。

 まだはっきりと形になっていないが、自分の感情をありのまま言葉にしようと思った。気の利いた台詞なんか要らない。ただ自分の心を素直に表現すればいい。

 その時である。

 まるで雷を思わせるほどの大きな音が二人を襲った。

 誰かが乱暴なやり方で、ドアを開けたのだ。店の喧騒が一気に部屋の中へと流入した。

 見ると、休憩を取りに来た別のヘルパーらの姿がそこにあった。

「もう出ましょうか?」

 私はミツコに視線を戻して言った。

「ええ、でもお茶碗を洗っておきますので、ヒロシさんは先に行っててください」

 ミツコはそう言った。

「私もすぐに行きますから」

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