第十二部
所狭しと並べられたテレビの前で、私たち二人はお互いを見つめ合っていた。
全ての画面には、同じ映像が映っては消えていく。遠くから見ると、まるで色鮮やかな模様のようである。それは二人のために用意された舞台装置と言ってもよかった。
目の前には、ミツコが立っている。
しかし正直私は、まだこの現実を受け入れることができずにいた。
ミツコの顔には、安堵の表情が浮かんでいた。無事に私と会えたことで、さっきまでの緊張は一気に解けているようだった。
日本のどこか遠くの町から、こうしてミツコが会いに来てくれた。そう思うと彼女が愛おしく感じられた。
私は彼女の頭からつま先までを、じっくり眺めた。
目の前のミツコは、私が思い描いていたイメージとは、何一つ合っていないような気がした。
しかしそれはほんの一瞬だけのことであった。これまでのイメージは圧倒的なスピードで修正され、次の瞬間、今の彼女こそ、まさにミツコそのものだと思えた。
私はこの女性と深夜に語り合っていたのだ。そしていつの間にか好意を抱いたのだな、と改めて考えた。
それにしてもまだ信じられない。
どうしてミツコが今、私の手の届く所にいるのか。
彼女は電話の中から飛び出してきたのではないかと、本気で思えてくる。
これはまさに魔法である。
彼女に訊きたいことが山ほどあった。何から口にしてよいやら、頭の中を整理するのに精一杯だった。
「ヒロシさん、どうかしましたか?」
電話と同じ声がそう言った。まるで夢を見ているようだ。
彼女の瞳は、まるでいたずらっ子のように輝いていた。大人をどうやって困らせてやろうかと考えている子どものようだった。
彼女の声は明るく優しかった。確かに電話の中で聞いていたミツコの声に間違いなかった。
目の前のこの女性は、やはりミツコなのだった。
「ミツコさん、初めまして」
そんな言葉が精一杯だった。まだ心の動揺が収まらない。
「こちらこそ、初めまして」
ミツコはそう言った途端、笑い出した。
よく笑う女性である。この明るい性格は、電話の中でも十分感じとっていた。
「おかしいですよね。あれだけ電話で話しておきながら、今更お互い初めまして、なんですもの」
確かにミツコの言う通りだ。
彼女とは今日初めて会ったはずなのに、まるでそんな感覚がない。旧友が久しぶりにぶらりと訪ねてきたような気がしてならない。彼女のことを前から知っていたような、そんな気分になる。
さて、何から訊けばいいだろうか。
「よく、ここが分かりましたね」
それは質問というよりも、私の正直な感想だった。
ミツコは少し得意気な顔をして、
「ヒロシさんはびっくりしたと思いますけど、意外と簡単でしたよ」
と言った。
「だって電話番号からヒロシさんの会社の住所は分かっていましたし、いつもの大きな家電販売店にいらっしゃるという話だったから、駅からタクシーの運転手さんにお願いして、ここまで連れてきてもらったのです」
「そうでしたか」
私はミツコの行動力に舌を巻いた。そこまで彼女を駆り立てる原動力とは一体何なのだろうか。
私はミツコの顔をじっと見据えていた。
これまで彼女とは、ずっと電話でのやり取りだった。そんな関係に、今更ながら現実感を与えようとしているのかもしれない。
ミツコもそんな私の熱い視線に、少しも目を逸らさなかった。
彼女も今同じ気持ちでいるのだろうか。
まだ疑問はある。
例えこの店を探し当てたとしても、どうして私がヒロシだと分かったのか。この広い店内には、私と同年代の男性店員は多い。顔も知らない人間を特定するのは、至難の業である。
「私がヒロシだって、どうやって分かったの?」
「それは、一目見て分かりましたよ。仕事に一生懸命打ち込んでいる人だから」
本当だろうか。私には信じられなかった。
「って言いたいところですが、実を言うと、あなたの所に来るまでに、二度別の人に話し掛けてしまったのです。ヒロシさんですか、って真面目な顔して訊いたら、『はあ?』って言われて、逃げ出してきました」
私は思わず吹き出した。
「そんなに笑わないでください。こっちも必死だったんですから」
ミツコは頬を膨らませて言う。
「で、三度目の正直ですか?」
「いえ、もうこれは絶対に当たらないと思いまして、店長さんの所へ行って教えてもらいました」
「でも、ヒロシって名前だけでは分からないでしょう?」
「ええ、もちろん。だから、今日最後のお仕事をされている方だって、尋ねました」
「なるほど」
「あ、ごめんなさいね。変な言い方で」
ミツコは謝った。
「いや、別にいいんですよ。本当のことなんだから」
私は慌てて言った。
「それにしても、店長は君のことを不審に思わなかったですか。だって名前も知らない人を探しているんだから」
「それは大丈夫だと思います。仕事でお世話になった方で、まだお名前は伺っていないと伝えました。それに…」
「それに?」
「田舎から出てきたので、ぜひお会いしたいと言いました。それで田舎のお土産も渡しました」
「お土産を?」
それは随分と準備がいい。
「でもそのお土産、本当はヒロシさんのだったのですけど」
私とミツコは顔を見つめて、笑い合った。
ミツコのお土産は、店長に渡ってしまった。
ちょっと残念だが、ミツコが土産を片手に、はるばる私に会いに来てくれた事がはるかに嬉しかった。
そう言えば、以前彼女は随分と遠く離れた街に住んでいると言っていた。
「ミツコさん、お住まいはどちらなんですか?」
私はそう尋ねた。
ミツコは、とある地名を口にした。
それは日頃、私の頭の中に意識されることのない名前だった。生まれて一度も行ったことのない場所だった。親類や友人にその土地に縁のある者はいない。
この街中探しても、彼女ほど遠方からやって来た観光客はいないだろう。
「ここへ来るまで結構時間が掛かったでしょう?」
「はい、かなりの長旅でした。確かに地図で見ても遠いのですけど、実際来てみると本当に遠かったです」
ミツコの言葉には実感がこもっていた。
「電話を切った後、すぐに駅へ行って、始発列車に乗りました。飛行機の切符が取れませんでしたので、仕方なくずっと列車に揺られてました。夜に大都市に着いて、今度はそこから夜行バスです。それで今朝、ようやくこの街に辿り着きました」
彼女はすらすらと語った。どうやらこの質問が出ることは、予め予想していたのだろう。苦労話として私に聞かせたかったに違いない。
「それはさぞお疲れでしょう」
私は彼女の体調が心配になった。
「夜行バスというのは、長時間同じ姿勢になるので疲れますね。身体がカチカチに固まってしまいました。慣れないせいか、よく寝られませんでしたし」
言われてみれば、確かに彼女は笑顔の下に疲労が隠れていた。
かろうじて、私の前では笑顔を絶やさないようにしているようだった。
「帰りはどうするのですか?」
「さすがに帰りは飛行機に乗るつもりです。それでも自宅に着くのは夜遅くになりそうですが」
「こちらに泊まっていくことはできないの?」
「それも考えましたけど、仕事がありますから」
そうだった。私は今日で最後だが、彼女にはいつも通りの日々が待っている。
「何時の飛行機に乗るの?」
私は訊いた。
「三時半です。ここから空港までは一時間ほどかかるでしょうから、二時には出なければいけませんね」
私はちらりと腕時計に目をやった。
もう一時間半しかないではないか。
今日は仕事が終わってから、ミツコと食事でもしようと暢気に考えていた。しかし彼女には仕事がある。いつまでもここに留まる訳にはいかないのだ。
私は寂しい気持ちになった。
これでは、ミツコと共に過ごせる時間が短すぎる。その限られた時間で彼女に自分の気持ちを伝えることができるだろうか。
「そうそう、早くテレビを決めないと」
ミツコは突然言い出した。
どうやら本当にテレビを買っていくらしい。しかし購入した後、どうするのだろうか。まさか大きな梱包を抱えたまま旅する訳にもいかない。
私が唖然としていると、
「ヒロシさんのお勧めはどれですか?」
ミツコは私の腕を引っ張るようにして、弾んだ声で言った。
「売れ筋はこのタイプですが、あちらの方が機能的にもお勧めです」
私は展示品の中から、一台を指さした。
「それじゃ、これください」
彼女はあっさりと言った。
「え、それでいいのですか?」
私は驚いて訊き返した。
こんな瞬時に決めてしまうお客は初めてだった。一秒もかかっていない。駄菓子屋で子どもがお菓子を買うにしても、もう少し時間を掛けるだろう。
「ヒロシさんが言うのだから、間違いはないと思いますから」
「本当に買うのですか?」
私は再度確認した。
「はい」
ミツコの決心は固そうだった。
「それではこちらへどうぞ」
私はミツコを近くのレジまで連れて行った。そしてカウンターの椅子に腰掛けてもらった。
「では、保証書をお渡ししますので、こちらにお名前とご住所をお願い致します」
「はい」
彼女はボールペンで氏名、住所、電話番号を埋めていった。
私は彼女の手元をじっと見つめていた。
「これでいいかしら?」
彼女は書き終えた用紙を差し出した。
私は彼女の肉筆を感慨深く眺めた。
もちろん、彼女の本名はミツコではなかった。そこには初めて見る女性の名前があった。しかしそれは私にとって単なる符号に過ぎなかった。ミツコという名前の方が圧倒的に現実味を帯びている。これだけ長く付き合っていながら、今初めて彼女の本名を知ったことが不思議に思われた。
「お互いに本名を知った記念すべき日ですね、今日は」
ミツコは嬉しそうに私を見上げて言った。
いや、まだ私は彼女に本名を告げていない筈だが。
「ミツコさん、僕の名前知っているんですか?」
「はい」
「ヒロシじゃない方ですよ」
「ええ、もちろん」
彼女はすらすらと私の本名を口にした。
「一体どうして?」
私は不思議でならなかった。
「だって、胸に名札がついてるじゃないですか」