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第十一部

     11


 私は身支度を済ませると、事務所の裏口から外に出た。土曜の早朝はひっそりとしている。ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 昨夜は一睡もできなったが、眠気はまるで感じていなかった。それよりも、ミツコと別れてしまったという喪失感の方がはるかに大きかった。

 どうして素直に自分の気持ちを伝えなかったのだろう。どうして彼女の本名や連絡先を訊かなかったのだろう。

 車のハンドルを握りながら、後悔の念ばかりが泉のように溢れ出していた。

 今にして思えば、電話口ですっかり自分を見失っていたのだ。

 職を失い、ミツコと対等の関係が保てなくなってしまった。それでも何とか彼女から尊敬される男でなければならないという焦りだけが私を支配していた。

 しかし、それが一体何だというのだ。そんな些細なことで、私のミツコに対する気持ちが揺らぐとでもいうのか。

 私は彼女を愛している。それが全てだ。

 ミツコの前で背伸びをして、自分を飾る必要が果たしてあったのだろうか。私はそんな見かけ倒しの男ではない。それは彼女も分かってくれる筈だ。

 ミツコは、電話の中で私を罵倒したように思えた。が、実は私に自信を取り戻してもらいたいという気持ちがそうさせたのではないだろうか。

 きっとそうだ。ミツコなら私を理解してくれる。あの時包み隠さずありのままを伝えればよかった。

 しかし今となっては後の祭りなのである。

 私からミツコに連絡を取る方法はない。そして彼女の方からも私を呼び出すことはできなくなった。

 せめて一度だけでいい、彼女と話がしたい。しかしそれはもう叶わぬ夢なのだろうか。


 一日目の仕事は無事に終了した。

 私は疲れた身体を引きずるようにして自宅まで辿り着いた。さすがに今日は疲れた。

 一睡もしていないのだから、無理もない。

 接客中は、他事を考える余裕はなかった。が、それでも手が空いた途端、頭に浮かぶのはミツコのことだった。

 ミツコと過ごした楽しい時間はもう戻ってこないのだろうか。

 それはいつもと同じ電話の切り方だった。あの瞬間、ミツコを失ったとは到底思えないのだ。

 しかし今の私にはどうすることもできない。

 風呂に入り、軽く食事を取ってからベッドに横になった。

 天井を見上げて、ミツコのことだけを考えた。しばらくすると、私は深い眠りの縁に落ちていった。


 日曜日の朝を迎えていた。

 これまで、休日に仕事に出掛けることが嫌でたまらなかった。しかし今朝は不思議とそんな気分はなかった。

 むしろ仕事に身を捧げることが心地よく感じられる。仕事のことに思いを巡らせる自分が誇らしげに感じられる。

 いよいよ今日が最後である。大学卒業後、この仕事に就いて三年の月日が流れた。その間に、私は仕事を通して、実に様々なことを学んだ。責任、協調、工夫、これらは机の上では学べないことばかりだった。こんな私でも、学生時代から比べれば、随分と成長したものだと思う。

 次の職場はまだ未定だが、この経験がきっと生かせるような気がする。

 私は予定の時刻よりもかなり早く店舗に到着してしまった。

 裏のシャッターはすでに開いていて、中で店長が伝票を確認しているところだった。

「おや、随分と早いね」

 店長は挨拶もそこそこにそんなことを言った。

「今日で最後ですから」

 私は笑顔でそう返した。

「そうだったね。うちの店にも君のような即戦力が必要なんだが、雇うのは私じゃないからね。残念だよ」

「ありがとうございます。また機会があったら、ぜひ」

 店長の言葉はお世辞と分かっていても、やはり嬉しかった。

 人から感謝されている、どこかで必要とされている、それが自分を動かす原動力となる。

 今日の私は疲れをまるで感じていなかった。むしろ身体に力がみなぎっているのが分かった。


 私は赤いハッピに腕を通して、持ち場であるエアコン売り場に立った。

 店内放送が流れ始める。それは開店前には、異常なくらい明瞭に響き渡る。

 十時開店。と、同時に客がなだれ込んできた。

 いつもと同じ光景である。しかしこれが最後だと思うと、私には特別な意味があるように思われた。

 果たして今日はどんなお客との出会いが待っているのだろうか。

 私はいつもとは違う、身の引き締まる思いで仕事を開始した。

 昼を過ぎると、ヘルパーは交代で食事を取ることになっている。弁当は家電販売店の方で持ってくれる。

 食事を先に済ませた他社のヘルパーが、私の所まで交代を告げに来てくれた。

 私は羽織っていたハッピを脱いで、ワイシャツ姿に変身すると、詰所に向けて二、三歩歩み始めた。

 その時である。

 私の目の前に、ある女性が立ちはだかった。

 背はやや低く、小柄な女性だった。年の頃は若く、髪はショートにさっぱりとまとめられていた。

 そう言えば、確か少し前からその辺りで見かけたような姿だった。店員に声を掛けようかどうか、しばらく迷っていたのだろう。それで今、ようやく商品を購入する決心がついたといったところか。

 彼女はじっと私の顔を見つめていた。大きい瞳が、私に何かを訴えかけているようだった。

 私は軽く会釈をすると、

「いらっしゃいませ」

と朗らかに声を掛けた。

 彼女は私の言葉にじっと耳を澄ませているようだった。

 それから、ようやく口を開いた。

「すみません、テレビを買いに来たのですけれど」

 私にはやや拍子抜けだった。

 ここはどう見ても白物家電のコーナーである。

 私たち二人は清潔感あふれる冷蔵庫、洗濯機、エアコンに取り囲まれている。

 テレビを買うのなら、ここではない。

 私に声を掛けるのは少々妙である。それとも広い店内で、テレビ売り場が見つけられなかったのだろうか。

 とはいっても、私の大切なお客様であることに変わりはない。食事は別に後になっても構わない。今は彼女に付き合うことが優先される。

「ありがとうございます。では、テレビ売り場にご案内しましょう」

 私は丁寧な物腰で、彼女を誘導した。

「お願いします」

 私たちは肩を並べて歩いた。

 その女性は愛嬌のある顔立ちをしていた。身にまとっている白いワンピースは、彼女に清楚な雰囲気を与えている。

 彼女はどこから来たのだろうか。

 私はふとそんなことを考えた。

 近所に住む者が、ぶらりと店に訪れた感じではないのだ。彼女は歩きながら、心なしか緊張しているように見える。高価な商品を思い切って購入する客によく見られる雰囲気だった。

 いや、それともどこか違う感じがする。何というか緊張の理由が別にあるようなのだ。白い胸元が心臓の鼓動で大きく波打っているようだった。

「今日はお一人でご来店ですか?」

 私は彼女の緊張を少しでも和らげようと、横から声を掛けた。

 実はこれは販売員としては重要な質問である。商品を勧める際には、買い主をはっきり見定める必要がある。それによって商談が大きく変わってくるからだ。

「はい」

と彼女は短く答えてから、

「いえ、お友達もいるのですが」

と律儀に訂正した。

 どうやら嘘のつけない真面目な女性らしかった。

 しかしその友達とやらは、さっきから辺りには見当たらない。どこかではぐれてしまったのか。あるいは後から合流するのだろうか。

「液晶テレビはこちらになります」

 私は軽く手を出して、そう言った。

「たくさん置いてあるんですね」

 彼女は見渡すようにして、嬉しそうな声を上げた。

「画面のサイズはどのくらいをご希望ですか?」

 私は親身になって訊いた。

「一人暮らしなので、小型のテレビでいいのです」

「では、サイズとしてはあちらになりますね」

 私は彼女を奥のコーナーへと案内した。

「やっぱり、大型テレビに比べると、数は少ないですね」

 彼女は残念そうに言った。

「はい、おっしゃる通りです。どうしても売れ筋が大画面ですので、こちらは種類が少なくなってしまいます」

「それで値段も割高になっちゃうのでしたよね」

 私は弾かれたように女性の顔を見た。

 彼女は口元を手で押さえるようにして、一人で頷いている。

 しかしそれは、どうやら笑いをこらえているのであった。

 まさか!

 そんなことはあり得えない。信じられないことが起きようとしていた。

 私はもはや平静ではいられなくなった。そんな心の内を見透かされないように、わざと落ち着いた声を出した。

「もしかして、アパートのテレビが映らなくなってしまったのですか?」

「はい、そうなんです。電源を入れてもブーンというだけで画面が映らないんです」

「それでその代わりに、図書館で借りてきた本を読んでいるのではないですか?」

「そうなんですよ。こう見えても私、高校時代は文学少女で通してましたから」

 そうか、どうしてもっと早く気がつかなかったのだろうか。

 最初の声で気づくべきだった。間違いなかった。いつも電話で聞いていた声だった。

 女性は我慢できずに、突然吹き出した。

「まさか、あなたはミツコさん?!」

 私は彼女の顔を見つめて叫んでいた。

 近くにいた販売員と客とが、驚いた表情をこちらに向けた。

「やっと会うことができましたね、ヒロシさん」

 彼女は感慨深げにそう言った。

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