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第十部

     10


「もしもし、ヒロシさんですか?」

 電話の主はどこか控え目で、不安げな様子だった。しかしその声はミツコに間違いなかった。ずっとこの声を待ち望んでいたのだ。それは嬉しい筈なのに、まだ信じられない気分だった。

 窓の外は、もうすっかり夜が明けている。朝日こそまだ姿を現していないが、事務所内の机や椅子はしっかりと色や形を主張している。こんな時間にミツコから電話が来るとは思いもしなかった。すでに諦めの気分だった。自分の願いがようやく天に通じたのだと思った。

「はい、ヒロシです」

 待ちくたびれて、はっきりとした声にならなかった。一度咳払いをした。

「ああ、よかった。こんな時間だから、もう絶対にいらっしゃらないと思ってました」

 ミツコも私が電話に出たのが意外だったようだ。

 彼女の様子は、どこか違っていた。気分が高揚しているのか、いつもより声が大きく感じられた。

「今は自宅からですか?」

 私は訊いた。

「はい。実は今、帰ってきたばかりなんです」

 つまりは朝帰りと言う訳か。私は少々眉をひそめた。こんな時間まで、どこで何をやっていたのだろうか。ミツコに夜遊びは似合わない。

 とっさに別れた彼氏のことが思い浮かんだ。まさか寄りが戻ったとでも言うのだろうか。

 一方、私にはこれから最後の仕事が待っている。そんなこちらの立場も知らないで、遊び呆けていたミツコに少々苛立ちを覚えた。

 自然と無口になる。

 今の彼女に私の立場を説明して、果たして分かってもらえるのだろうか。やはり互いの気持ちは、はるか遠く離れているのだと感じずにはいられなかった。

 ミツコは構わず話を続けている。

「昨夜は会社の送別会がありまして」

「送別会?」

 私は反射的に聞き返した。

 まさか、ミツコが会社を辞めるのだろうか。彼氏と元通りになったのなら、そんなシナリオがあってもおかしくはない。

「ヒロシさんにいつか話したことありましたよね。うちの会社の事務員さんのこと」

「ああ」

 私はすっかり思い出した。

 確か日中、ミツコに仕事の指示を出している年上の女性だった。ミツコは積算課に居ながらにして、彼女の下で事務を兼任しているので、本来の仕事ができないという話だった。

「その方の送別会です」

「どうして辞めるの?」

 この点は、私には非常に興味があった。その女性も私と同じく、突如降って湧いた不幸なストーリーを背負っているのではないかと考えたのだ。

 突然解雇されるのは、何も自分だけではない。他人にもそんな事が起きて欲しかった。今はそんなことでしか、辛い気持ちを和らげることができない。

「実は、おめでたなんです」

 ミツコは私の意志に反して、そんなことを言った。

 やはりそうである。世の中の不幸は、全てこの私が一手に引き受けている。私ほど不幸な人間はいない、そんな気分になった。

 人の幸せが素直に受け止められない。自分はひどく卑しい、ちっぽけな人間だと気づかされた。

 こんなどん底の気分で、果たしてミツコに真実を伝えることができるだろうか。

 時計に目をやった。私にはこの後仕事が待っている。残り時間が気になった。まだ一時間ぐらいなら大丈夫である。しばらくはミツコの話に付き合ってみることにした。

 それにしても、ミツコは随分と遅く帰ってきたものである。事務員が一人辞めるぐらいで、朝まで送別会をするものだろうか。

「今日は私、いっぱいお酒飲んじゃいました。そしていっぱい泣きました」

 そうか、今日のミツコは酔っているのだ。それでいつもの彼女とは違っていたのだ。

「楽しかったですよ。慣れないカラオケで、その人と一緒に歌ったんです」

「その人と別れるのが辛かったんだね?」

 私は深い考えもなく、そんなことを口にした。

「いえ、そうじゃないのです。私、正直に言うと、その人のことが嫌いでした」

 私には意味が分からなかった。

「それが今夜、今まで誤解してたって分かったのです。だからその人の前で泣きましたよ。ごめんなさい、私がバカでしたって」

 私は黙って聞いていた。

「普段から雑用ばかり押しつけてくるから、てっきり私のことを嫌っているのだとばかり思っていたんです。それで私をいじめているんだと。でもそれは全然違ったんです」

 ミツコは喋るうちに、思い出して涙混じりになっていた。

「あの人は、自分が妊娠して、いつか辞めなきゃいけないからって、私にいろいろと教えていたんです。おそらく私の返事や態度から、自分のことを嫌っていると知りつつも、それでも私にいろいろと仕事を引き継いでいたんです」

 事務員の意地というやつか。その女性は自分が辞めた後の会社のことを考えていた。

 確かに事務の仕事なんて、いつも地味で日の目を見ることは永遠にないのかもしれない。会社だって大した評価をしてはくれない。それでも、その女性は責任を全うした。最後まで手を抜かなかった。

「それで私、自分の浅はかさに気づいて、本当にあの人に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。それなのに、あの人は今までごめんね、って謝ってくれるんですよ」

 ミツコはすっかり泣いていた。それでも話は続けていく。

「むしろ謝らなければならないのは、私の方なんです。自分ばかりが大変な仕事を任されていると勝手に勘違いして。心のどこかでは、あの人よりも優れているなんて思い込んで。だから事務の仕事なんてバカにしてました。一番、バカなのは私なのに。

 前にヒロシさんに話しましたよね。都会の営業所の女子社員が私をあざ笑っているって。私の地位を低く見ているって。でも結局、私も同じ事をしていたんですよ」

 そこまで言うと、ミツコは泣きじゃくるだけになってしまった。

 ミツコはいつも本音で語る女だと思う。だから私はそんな彼女が好きになったのだ、と妙に納得ができた。

「でも、今夜は二人が解り合えたんでしょ?」

 私は優しく言った。

「はい」

 ミツコは明るい声を上げた。

「二次会、三次会まで行って、最後は女二人だけでカラオケ大会です」

 私は思わず笑ってしまった。

 その年上の女子社員は、実はミツコのことが好きだったのだろう、そんな気がした。

「二人だけっていいよね。すぐに歌う順番が回ってきて」

「いえいえ、もうずっとデュエット状態でした」

 私は声を出して笑った。

 ミツコらしいな、そんなことを思った。


 いつの間にか窓の外はすっかり明るくなっていた。

 事務所前の通りには、人や車の往来が戻ってきた。それは明らかに一日の始まりを告げていた。

 私は焦り始めた。

 腕時計に目を落とした。もう残された時間は三十分もない。そろそろ身支度を整えて、ヘルパーの仕事に出かけなければならない。

 どうしようか。

 いや、もう躊躇している暇はない。このままでは時間切れである。それはミツコとの関係が自然消滅することを意味している。

 今や全てを話す時である。そしてこれからも友達関係を続けていきたいと宣言しなければならない。

「ミツコさん、まだ酔ってるの?」

 気持ちは急いている筈なのに、なかなか最後のカードが切れなかった。代わりにそんな悠長なことを訊いた。

 彼女は小さく笑い声を立てて、

「どうかしら。もう酔いは覚めていると思います。でも何というか、身体が宙に浮いているような、そんな心地です」

 そう答えた。

 ミツコは女子社員と過ごした夜の余韻を楽しんでいるふうだった。

 そんな中、これから私がする話は、きっと彼女の豊かな気持ちをぶち壊すに違いない。こんなことなら、もっと早く真実を伝えておけばよかった。そんな後悔の念がふつふつと湧いた。

 でも仕方ない。

 意を決して、私は口を開いた。

「実はね、今夜うちの会社でも送別会が開かれたんだ」

「へえ、そうなんですか?」

 ミツコは明るい調子で言った。

 この先、事実を伝えた後も、果たして彼女は今のように平静でいられるのだろうか。

「どなたか、お辞めになるのですか?」

 ミツコは重ねてそんなふうに訊いた。

「僕が、ね」

 私はぽつりと言った。

 しばしの沈黙が訪れた。窓の外で、鳥のさえずりが意外なほど大きく聞こえた。

「ご冗談ですよね?」

「いや、本当なんだ。僕が会社を辞めるんだ」

 ミツコは一瞬言葉を失ったようだった。

「一体、どうして?」

 さっきまでの穏やかな雰囲気はどこかに消えていた。喉の奥から捻り出すような声で言った。

 今や私は裁きを受ける罪人の気分だった。

 くどくど説明したいとは思わなかった。クビになった経緯を事細かに説明したところで、何の役にも立たない。それになにしろ時間がない。

「まあ、いろいろありまして。会社を辞めることにしました」

 私はおどけた調子で切り返した。心にもない言葉だった。

「茶化さないでください」

 ミツコは突然、怒ったように言った。

「私には会社を辞めるなって言っておいて、自分は辞めちゃうわけですか?」

 彼女の声は荒々しかった。

 確かにそうである。ミツコの言う通りだった。

 しかし私にはどうすることもできなかった。自分の意志に反して解雇されてしまった。それが事実である。しかし、そんなことをここで愚痴ってみても、自分がむなしくなるだけではないか。

 私は貝のように口を閉ざした。

「何だか私は騙されたみたいですね」

 ミツコはそんな台詞を吐いた。

「騙されたってどういう意味だ?」

 思わずそう口にしていた。それは聞き捨てならない言葉だった。

 ミツコはまるで私の気持ちを理解していない。

 今まで迷える彼女を支えてきた、頼れるはずの男が、地位も名誉も失って、駄目な男に成り下がった。好きな女性の前でどれほどの絶望感を味わっているか、彼女には少しも分からないのだ。

「だってそうじゃないですか。今まであなたが励ましてくれたから、何とかやってこられたのに。私はあなただけを信じていたというのに。そんな簡単に仕事を辞められるなら、私はあなたの何を信じていたことになるのでしょうね?」

 ミツコは一気にまくし立てた。

「俺が仕事をどうしようと、君には関係ないことだろう」

 私は思わず強い調子で叫んでいた。そうでもしなければ、自分の存在が消えてしまうような気がしたのだ。

 ミツコは私の乱暴な口調に驚いたのか、黙りこんでしまった。

 ミツコが好きなのに、どうしてこんな態度を取ってしまうのか。

 結局は怖いのだ。ミツコが私に愛想を尽かして、そして私を捨てていくのではないか、そんなことばかりが心配でたまらないのだ。

 恋人という関係でなくてもいい。何でも気軽に話し合える友達でいたい。

 そのためには、せめて彼女と対等に渡り合える立場が必要である。職を失った自分は、そんな条件すら満たしていない。

 私に残された最後の手段は、男として自分を凶暴なものへ変化させるだけである。そうすれば、彼女は恐れをなして、私についてくるのではないか。

 私の態度は一見感情的でありながら、実は打算的なものなのだ。そんな自分の駆け引きに嫌気がさした。

「そんな言い方、しなくてもいいじゃないですか」

 その言葉で我に返った。ミツコは涙声になっていた。

「ごめん。言い過ぎた」

 私は素直に謝った。

 ミツコは軽く咳払いをして、

「私には関係ないのかもしれませんが、いつお辞めになるんですか?」

「実はもう辞めているんです」

「えっ、でも今、事務所にいらっしゃいますよね?」

 ミツコは混乱しているようだった。

「これから外の仕事に出掛けます」

 私はそう言った。

「ヘルパーですか?」

「そうです」

「今日だけ?」

「いえ、明日も出ます」

「いつものお店ですか?」

「はい」

「分かりました」

 それからミツコの方からは、言葉が発せられなかった。彼女はとうとう私に愛想を尽かしたのだ。

 さて、もう仕事に向かう時間である。今から出ても、時間ぎりぎりである。

 私は受話器を握りしめた。

「それじゃ、最後の仕事に行くので」

「お邪魔してすみませんでした。それでは、さようなら」

 ミツコはあっさりと別れの言葉を口にした。

「さようなら」

 私もつられてそう応えた。

 ミツコの方から通話が切れた。

 しばらく私は受話器を手にしたまま、断続的なトーン音だけを聞いていた。

 自然と涙が湧いた。

 本当にミツコと別れることになってしまった。

 たった数ヶ月の、しかも電話の中だけの付き合いだったが、私にとっては身近な恋人のような現実感があった。

 もう会うことのない女性、ミツコ。

 本名も顔も知らない女性だが、君と出会ったおかげで、毎日の仕事や生活が充実したものになった。本当に君には感謝している。

 さようなら、ミツコ。

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