1
深夜のオフィスにベルが鳴った。
電話が鳴るという昼間は当たり前の光景も、さすがに今の時間、違和感を感じずにはいられなかった。
ちょうどその時、私は一人で仕事をしているところだった。
とは言っても、サッカー中継をワンセグテレビで見ながらの、遅々としてはかどらない仕事である。
すぐ目の前の電話が鳴っていた。辺りの静寂を切り裂くほどの音は、事務所内の電話機の存在を知らしめるのに十分であった。私は一瞬躊躇したものの、やはり昼間と変らぬやり方で受話器を持ち上げた。
「もしもし?」
昼間だったらこんな電話の応対はない。深夜という状況が、私に少々の無礼を許していた。
相手は無言だった。
受話器の向こうからは、激しい雨音がしきりに聞こえてくる。
いや、そうではないとすぐに気がついた。これは大勢の人々が生み出す騒音である。都会の駅か、あるいはコンサート会場か、とにかく人の集まる場所を連想した。
「もしもし?」
もう一度、声を掛けてみた。
しかし相手は黙ったままである。これはどうやら、いたずら電話確定である。電話の向こう側で、ほくそ笑んでいる輩が目に浮かぶ。
私はこんな電話に関わったことをひどく後悔した。
サッカーの経過が気になった。国際試合がまもなく終了しようという大事な場面である。こんな電話に付き合っている暇はない。
「切りますよ」
念のため、そんなことを言った。会社に掛かってきたからには、相手が顧客という可能性も否定できない。それは万が一のための防御策でもあった。
相手からの返答がないことを確認すると、私は受話器を元に戻そうとした。
しかし次の瞬間、雑音を押しのけるかのように、意志ある声が発せられたようだった。
私は慌てて手を止めた。もう一瞬遅かったら、電話を切っていたところである。
私は受話器を耳に押し当てた。
こんな深夜に、まともな電話とは到底思われなかった。しかし、もしもということもある。相手に積極的な意志があるのなら、誠意ある応対をすべきである。こんな時にもビジネスマン精神が顔を出した。
「もしもし?」
私は相手を探るように言った。
相変わらず電話の向こうは、騒音だけが充満している。
しかしおかしなことに、その音が二重に聞こえるのである。ほんのわずかな遅延があるものの、まったく同じ波長が耳に届いていた。
そうか、今やっと分かった。
この音声はサッカー中継そのものである。試合を見守る観客の声援がまるで洪水のように押し寄せていたのだ。
すなわち電話の相手も、同じテレビ放送を観ているらしい。
「もしもし?」
やっと相手の声が応じてくれた。
それは女性の声だった。
「あの、どちら様でしょうか?」
その声の主は、不安を隠せない様子である。しかしそちらから掛けておいて、どちら様もあったものではない。
だが、これをいたずら電話と片付けるには、どこか妙な案配である。何と言うか、相手に誠実さが感じられるのだ。
私は言葉を選んだ。
「この電話はあなたがお掛けになったものですが」
「えっ?」
女性はこの状況がまるで把握できていないようだった。
慌てて電話機を耳から引き剥がし、何かを確認している様子である。
「ああ、ごめんなさい。これ携帯電話なんですが、知らぬ間にボタンに触れて、偶然あなたに掛かってしまったみたいです。本当にごめんなさい」
女性の声はひどく恐縮していた。
「別にいいですよ」
いたずら電話ではなかった。私には自然と寛容な気持ちが生まれていた。
突然、テレビから割れんばかりの歓声が沸いた。
電話からも少し遅れて同じ音が聞こえてくる。奇妙な立体音響が私を包み込んだ。
「あっ、日本勝ちましたよ」
彼女の嬉しそうな声がかろうじて聞こえた。
「どうやらそのようですね」
「あなたもご覧になってたのですか?」
「はい。ずっと観てました。今日は苦しい展開でしたね」
実は仕事そっちのけで、試合の行方ばかりを気にしていたのである。特に後半は目の離せない状況が続いていた。この電話のせいで、最後の最後が見届けられなかったのだが。
「私、サッカーのことは詳しく分かりませんけど、何だかとっても嬉しいです。選手はよく頑張ったと思います」
私は不思議な気分に包まれた。
見知らぬ女性と、深夜にこうしてサッカー談義に花を咲かせている。これは一体どういう状況なのだろう。そもそもこれは間違い電話なのである。考えてみれば、そんな二人が意気投合するというのもおかしな話ではないか。
同じ国に住む者同士が、自国の勝利を喜ぶ。そんな状況が、今の二人に特別の時間を共有させているのだ。
彼女はテレビを消したようだった。受話器の中は突然静まりかえった。
「どうもすみませんでした、お休みのところ」
「いえいえ、こちらは会社ですので、全然問題なしです」
「あら、こんな時間までお仕事されていたのですか?」
彼女は驚いたようだった。
「ええ、今日は事務所に泊まりです」
「へえ」
彼女は感心するような声を上げた。
そしてくすっと笑うと、
「実は私も今、仕事場にいるんですよ」
と言った。
「本当ですか?」
「はい」
彼女は嬉しそうに言う。
深夜に会社で仕事をしているという共通点が、一気に二人の垣根を取り払った。ちょうど良い話し相手と巡り会えた気分である。
どうやら彼女も同じ気持ちのようである。その証拠に、この間違い電話を切ろうとはしていない。
私はもうしばらく彼女との時間を楽しもうという気になった。
窓から差し込む月明かりが、遠くの机まで青白く染めていた。
こちらもテレビを切って、きちんと椅子に座り直した。がらんとした事務所に、スチール椅子のきしむ音だけが響いた。
「今、話し込んでも大丈夫ですか?」
私は念のために訊いた。
こちらはともかく、彼女が忙しいのなら、仕事の邪魔をしてはならない。私もビジネスマンの端くれである。その程度の気遣いは当然だった。
「仕事の方は大丈夫です。どうせ、集中力もすっかりなくなっていますから」
彼女の声は弾んでいた。
どうやら向こうも事務所に一人きりのようだった。こんな深夜にてきぱきと仕事が片付くはずもない。それはお互い様である。
私は彼女に興味が湧いていた。
「お仕事は何されているんですか?」
無遠慮にもそんなことを訊いた。ついさっき出会ったばかりの女性に、こんなに気軽に話せるのは何故だろうか。
互いの境遇があまりにも似ていて、一種の連帯感が生まれているのかも知れない。彼女は自分の知り合いのような気がしてくる。
「積算です」
「セキサン?」
聞き慣れない言葉に、思わずオウム返しになった。
「ビル建材の見積もりをしています」
「ほう」
私にはそんな言葉しか発せられなかった。
それはまるで知らない世界であった。何だか聞いただけでも難しそうな仕事である。それを夜遅くまで、一人取り組む彼女は、とても輝いているように思えた。
「見積もりというのは、こんな深夜までかかるものですか?」
素朴な疑問だった。
電話の向こうで、彼女の笑う声が聞こえる。
「私の要領が悪いだけなんですよ」
それはおそらく謙遜だろう。私は直感した。
「パソコンで打ち出す訳にはいかないのですか?」
「確かにそうやって、大まかには出せますが、細かい所はどうしても図面を見て拾わなくてはならないんです」
「へえ、そういうものですか?」
「はい。ビル物件は、特にお店関係だと、奇抜なデザインが多くて、全てを機械任せって訳にはいかないのです」
「なるほど」
これでは、職場見学にやって来た小学生である。あまりに無知な自分が恥ずかしくなる。異業種についてまるで知識がないことを実感した。
「上司はとっくに帰っちゃったんでしょ?」
「はい」
「あなたはそれだけ信頼されているということですね」
私はそんなふうに言ってみた。それはお世辞ではなく、素直に感じたことだった。
「全然そんなことないですよ。一応、所属は積算課ですが、田舎の営業所ですから事務と兼任なんです。だから雑用の合間に見積もりをするのですが、昼間忙しいと、こんなふうに深夜までかかってしまうのです」
このご時世、どこの会社でも社員は楽させてもらえないようだ。やはり私と彼女は同じ境遇なのだと再認識した。
「はい、次はあなたの番」
「えっ?」
「あなたの仕事のことも教えてくださいよ」
深夜だというのに、電話の中で彼女ははしゃいでいた。まるで休み時間に話の尽きない女子高生といった感じである。今夜知り合ったばかりの私に、どうしてそれほど積極的になれるのか、ちょっと不思議な気もする。
「あなたのお仕事は何ですか?」
彼女は重ねて訊いてきた。
深夜の事務所で取る電話は、相手の息遣いまで聞こえてくる。
昼間では想像もつかない、音のない空間。
まるで真空を思わせるこの場所では、彼女の声が間近に聞こえる。まるですぐ目の前から話し掛けているようだ。
私は一度受話器をしっかりと握り直した。
「家電メーカーの販売会社で営業をやっています」
自分を飾ることなく、正直にそう言った。営業という職業は、自分を優位にするためならば、平気で嘘をつく準備ができている。しかし彼女の前では正直でいようと最初から決めていた。
「そうなんですか」
彼女は興味深げに言った。
「聞こえはいいかもしれませんが、実際は大型量販店の小間使いみたいなものですよ」
「いつもこんな深夜まで、お仕事されているんですか?」
「いえ、いつもではないです。明日は早朝からヘルパーの仕事がありますので、このまま家に帰らず、事務所で寝泊まりなんです」
「大変なんですね」
彼女の言葉には心がこめられていた。
そして、やや間を置いてから、
「あの、ヘルパーって何ですか?」
と訊いた。
「ほら、家電量販店では、土日によくセールをやるじゃないですか。そんな時は人手が足りないので、僕らが借り出されるのです」
「なるほど。ではお給料はそのお店から貰うのですね?」
「いえ、違います。商品を納入してもらう代わりに、僕らの労働力を無償で提供してるんです」
「あら、そうなんですか」
彼女は驚きの声を上げた。
「でも、店に来たお客さんには、自社製品をどんどん売ればいいんでしょ?」
私は思わず笑ってしまった。
彼女はまるで業界のことを分かっていない。一般人の知識とはそんなものかもしれないが。
「いえいえ、そういう訳にはいきません。量販店の方からは、一店員として雇われているだけなので、勝手に自社製品を売り込むのはダメなのです」
「えっ、まさか」
彼女はさらに驚いたようだった。
「でも、それってストレス溜まりませんか? 他社製品を買っていくお客の相手をするだなんて」
「まあ、確かにそうかも知れません。僕も最初はそんな気がしてました。でも、もう慣れてしまって、今では割り切っていますよ」
「そうですか。明日もお仕事なんですか」
彼女の声は同情的だった。
「あなたは、明日は?」
「私は別に出社する必要はないですけど、この見積もりの納期が月曜の朝なんです。だからそれまでに仕上げておかないと」
「それも大変ですね、心が落ち着かないでしょ?」
「そうなんです。お風呂に入っていても、ご飯を食べていても、見積もりのことが頭から離れないんです。夜も眠れないことだってあるんですよ」
彼女は一気にまくし立てた。まるで仲の良い友人に愚痴るような勢いだった。よほど胸の内に溜めた想いがあるらしかった。
「そうだわ、あなたに訊きたいことがあるのですけれど、いいかしら?」
一息つくと、彼女はそう切り出した。
2
誰もいない深夜の事務所に、時間だけは確実に流れていた。
窓の外では、徐々に闇の色が薄まってきたのが分かる。サッカーの試合が終わってから、もうどれぐらい経ったのだろうか。
私は受話器を持つ手に少し疲れを感じて、耳と肩で受話器を挟み込むようにした。これは昼間、電話中でも両手を自由に動かせるスタイルである。
「どうぞ、私に答えられることでしたら何でも」
「私、アパートに一人暮らしで、今、部屋に置けるテレビを探しているんです。でもどうして小さいテレビって、割高なんでしょうか?」
彼女の声からは、日頃の不満が伝わってくる。
なるほど、その手の話か。
私は家電を扱う仕事をしているので、聞いた途端に答えの準備ができていた。
彼女の苦情は続く。
「それに小型のテレビって、あまりお店に置いてないから、選択の幅も少ないんです」
「確かにそうかも知れませんね」
そうは言ってみたものの、これではまるでお客からの電話相談だな、と思った。昼間やるべき仕事を、こんな真夜中にしている自分が可笑しかった。
もっと互いのことを話題にしたいものだが、彼女が訊きたいと言うのだから仕方がない。
自分はその筋のプロである。ちょっと真面目に答えてやろう、という気になった。
「メーカーというのはどうしても売れ筋商品に力を入れますから、自然と大型テレビばかりが充実するのです」
「そうなんですか」
彼女はまだ納得がいかない様子である。
「テレビの買い換えは、リビングに置く大型テレビが主流ですので、その流通量も圧倒的に多くなります。そこでは当然、価格競争が起きますから、小型テレビに比べて割安に感じられるという訳です」
「なるほど、分かりました。さすが専門家ですね」
彼女はすっかり感心したようだった。
私は少し照れくさくなった。
「質問って、それだけ?」
「はい、でも今後は小型テレビも安くなりますよね?」
彼女はまだ価格のことを気にしているようだ。
「予測は難しいのですが、数年はこのままのような気がします」
「そうですか」
彼女の残念そうな声が漏れた。
「テレビ、壊れたんですか?」
私は訊いてみた。
「ええ、スイッチを入れても、ブーンって音がするだけで、画面に何も映らないんです」
「それはブラウン管の寿命かもしれません」
「やっぱりそうですか?」
「昔のは叩いたりして直したそうですが、今のはそんなふうには直りませんからね」
「恥ずかしくて会社の人にも訊けないから、一人で困っていたのです。やはり壊れていたのですね」
「どうやらそのようです」
そんな話をしている間にも、遠くの空が明るくなってきた。
彼女もそれに気づいたらしく、
「もう夜が明けてきたみたい」
と感慨深げに言った。
名前も顔も知らない女性。そんな女性とこうして他愛のない話をしている。
これは私にとって、一夜の不思議な体験と言う他なかった。果たして彼女の方はどう思っているのだろうか。
「あっ」
突然、彼女が小さな声を漏らした。
「ちょっと待ってくださいね」
それだけ言うと、黙り込んでしまった。
ただ携帯電話は手に持っているらしく、コツコツという彼女の靴音だけが聞こえてくる。
私は痛いほど、ぎゅっと受話器を耳に押し当てた。
ドアが開かれる音。
「おはようございます」
彼女は誰かに向けて優しい声で挨拶した。
そしてまた靴音。
「すみませんでした。今、新聞屋さんが来たので」
電話口に彼女の声が戻ってきた。
「えっ、もうそんな時間ですか?」
私は慌てて時計を見た。
まもなく五時を指そうとしている。随分と話し込んだものである。
「今、とても恥ずかしかったですよ」
「何が?」
「だって、ウチの事務所は硝子窓から中が丸見えなんです。こんな時間に一カ所だけ蛍光灯が点いていて、そこに制服姿の私が座っているんですよ。新聞配達の人は、おそらくびっくりしたんじゃないかしら」
私はそんな様子が目に浮かんで、思わず笑ってしまった。
「笑いごとじゃないですよ」
彼女は軽く抗議した。
「会社の制服を着て仕事していたんですか?」
「そうですよ。だって夕方からずっと見積もりに没頭していて、着替える暇もありませんでしたから」
「どうせなら、パジャマに着替えていればよかったのに」
「それじゃ、いい見世物ですよ。あそこにヘンな女がいるぞ、って」
二人は笑い合った。
「では、そろそろお別れにしましょうか?」
私はそう提案した。
「そうですね」
彼女もすんなり応じる。
私はもう一度考えてみた。彼女にとって、今夜の私は迷惑ではなかっただろうか。
彼女の様子からすると、その心配はないように思われた。
事務所で一人孤独に見積もりをしていた彼女。私のことを砂漠で偶然見つけたオアシスのように思ったかも知れない。
「お仕事の邪魔をして、すみませんでしたね」
私は一応そんな言葉を掛けてみた。
「全然、そんなことありません。むしろとっても楽しかったです。しかし目の前には、未完成の見積書がそのままになっているのが、ちょっと気になりますが」
彼女は面白い女性である。私は知らず彼女に好感を抱いていた。彼女の方は私にどんな印象を持っただろうか。
「また間違い電話しても構いませんか?」
彼女はそんなことを言った。
「どうぞ、どうぞ。うちの会社は間違い電話、大歓迎ですから」
「よかった。それでは、また深夜に掛けちゃいますよ」
「はい、こちらも残業していたら、すぐに電話に出ますので」
彼女は電話の向こうで笑った。
「あっ、そうだ」
私はあることを思いついた。
「一応、仮の名前を教えてくれませんか?」
「仮の?」
彼女は聞き返した。
「間違い電話なんですから、本名は要りません」
「ああ、そうですね」
彼女も私の提案に乗ってくる。
少し考えてから、
「では私は、見積もりのミツコということで」
私は思わず吹き出してしまった。
「じゃあ、僕は卸しの仕事をしてますから、オロシ」
「えっ? いくら何でもオロシは変じゃないですか? せめてヒロシでお願いします」
彼女は笑いながら言った。
「分かりました、ヒロシでいいです」
「それじゃ、おやすみなさい、ヒロシさん」
「おやすみ、ミツコさん」
受話器を戻した時には、外はすっかり明るくなっていた。
私は席を立つと、吸い寄せられるように窓際へ向かった。それから窓枠に両手をついた。
陽はまだ昇っていない。窓から見る景色には、人の営みをまるで感じられなかった。
歩道には人影はなく、大通りも嘘のように車がない。信号機だけが意味もなく、黙々とその色を変え続けている。
私はそんな風景をぼんやりと眺めて、ミツコとの会話の余韻を楽しんでいた。
不思議な夜だった、と思う。
きっかけは、一本の間違い電話だった。
どこか知らない街から一人の女性がやってきた。そして突然、私の前に舞い降りた。
彼女は孤独に働く女性であった。話せば、私たちは境遇のよく似た者同士だった。
ビジネスの世界では、嘘や駆け引きの人間関係はさほど珍しいものではない。そこでは、自分の感情を抑え込み、物事が円滑に流れることだけを期待している。
現に私の目の前に置かれた電話機は、昼間はそんなやり取りの道具に成り下がっている。
しかし深夜のミツコとの電話はまるで違っていた。偶然結ばれた二人は、素直な気持ちで本音を語り合った。
私はミツコの前で嘘を言ったり、自分を飾ろうなどとは少しも考えなかった。お互いにありのままを認め合えれば、それでよかったのだ。
どこかから鳥のさえずりが聞こえている。
徹夜明けだというのに、私の身体はまるで疲れを感じていなかった。今日一日働くための活力が、たった今充電されたような気がした。
ミツコがどこか私の知らない場所で、一人仕事に精を出している。彼女の傍に助けてくれる人はいない。もちろん私の手だって届かない。
しかし私が精力的に働くことで、ミツコとはもっと深く関われるような気がする。間接的ではあるが、それが彼女を手助けできる唯一の方法であるように思われた。
私はそれから二時間程、応接室に置かれたソファで仮眠を取り、その後量販店に出向いた。
現地では顔見知りの店長から指示を受けて、他社のヘルパーらとともに倉庫の荷出しを手伝った。
そして店が開くと、ハッピを着こんで、受け持ちのエアコン売り場に立っていた。
ミツコとはあんな偶然の出会いを果たしたのだから、彼女がこの店にぶらりと現れてもおかしくない。そんな妄想が芽生えた。私にとって、それほどミツコは存在感があったのだ。
自分の持ち場から少し離れた場所に、大型テレビがずらりと並んでいる。開店と同時に早速客が集まってきた。やはり今の時期、テレビを買い換える客は多い。
若い女性がそこで足を止める度、ひょっとしてミツコがやって来たのではないか、と考えた。
「小型のテレビ、か」
私は知らずそんな言葉を口にしていた。
アパートで一人暮らしというのなら、確かに流行りの大型テレビは必要ない。
夜遅くまで働いて、疲れた身体を引きずって家に帰ってくる。テレビのスイッチを入れてみても、画面には何も映らない。テレビを買い換えようにも割高ときている。
何ともひどい仕打ちではないか。
ミツコがあれだけ不満を漏らすのも無理はない。私にはかすかな笑みがこぼれた。
夕方、無事に仕事を終えて、私は帰途についた。
今日は一日中、ずっとミツコを探していた。
もちろん彼女は店に現れなかった。それもその筈である。彼女が偶然にもこの街に住んでいるとは考えにくいし、それに徹夜したとなれば、家に帰って寝ていたに違いない。
彼女は深夜の電話にしか出てこない幻なのである。
しかし、どうしてミツコのことがそれほど気にかかるのだろうか。彼女は私の心の中で、家族や友人ほど大きな存在に膨れ上がっていた。
今日の一日の出来事を彼女に報告したくなる。そして彼女の話も、もっと聞いてみたいと思うのだ。
私は家に帰ってきて、風呂の準備をしてから、無意識にテレビの電源を入れた。
当たり前のように画面には映像が浮かび上がった。
「こちらは、今帰ってきたばかりだけど、そちらは見積もり終わったかい?」
「今日は店に出て、顔も知らない君の姿を探していたんだよ」
自然とそんな言葉が湧いてくる。無性にミツコと話したくなった。
彼女はそんな私のことを思い出してくれているだろうか。