無情
藩主、諏訪光定は
討入り騒動から二月半後に
幕府には病気療養と称し国入りした
本来の目的は
騒動に関わった者達の処分取決めである
今回の騒動は跡目争いが発端であった
光定の後継は江戸で暮らす
嫡子、貴景であるが
国元では側室の於千の方が産んだ
庶子、是定を次期当主にしようと
於千の方の兄であり、是定の叔父にあたる
城代家老の三枝が於千の方と画策し
是定を当主にするべく同志を集め先導していた
その事を江戸藩邸のに居る光定が知り
真相を調べるために
帯刀を菱尾へ帰郷させ
それに感づいた三枝が
朝倉家への討ち入りを命じたのであった
光定の下した沙汰は厳しいものであった
於千の方は髪を下ろし
諏訪家の菩提寺に蟄居となり
城代家老の三枝と
討入りに頭巾を被り指揮を執った嫡男は
親子共々に切腹を許さず打ち首
幕府にお家騒動を隠すため表向きは病死とし
三枝家は取り潰しとなり
その他の加担した者達も
所払いの重い刑に処せられた
気の毒だったのは是定である
幼き頃より父から教えられていた通りに
兄の貴景が家督を継いだ暁には
一番の臣下となり
お支えしていくのだと誓っていた
それなのに己が知らぬ間に
実母と叔父に神輿に乗せられ
お家騒動の主犯とされたのだ
光定は是定が藩主になるなどの
邪心を抱かぬ事は分かっていた
だが何かしらの処罰を与えぬ訳にはいかず
身柄を諏訪家の分家預りとした
その後、謹厳実直な是定は気を病み
一年も経たぬ内に他界した
―――—— ―――—— ―――——
一月掛けて全ての処罰が終わり
これで一件落着と光定は胸を撫で下ろした
ところが評定の場に集った重臣等から
思いも寄らぬ進言がなされた
「江戸家老の牧本殿より
早く朝倉帯刀を江戸に出向させるようにと
催促が来ておりますが」
「ならぬ事情により先延ばしておりまして」
「朝倉家では帯刀の嫁を離縁するそうで」
藩主の光定は戸惑い
「帯刀が茜を離縁するとは信じ難い
その様な戯れ言を誰が申しておる」
と尋ねた
「朝倉の夫人が申しております
確かに私も耳に致しました」
「どうも討入り騒動の際に
帯刀の妻が藩士を斬るを見て
人では無く鬼であるとの事らしく」
「それは茜が家人を護る為にした事
帯刀が茜と離縁などするはずが無い
捨て置けば良かろう」
光定は次期藩主となる貴景が
藩を平穏に治める為には
帯刀の力は必要不可欠であると考えていたので
さらに続けて
「儂は間もなく藩主の座を
貴景に譲る手筈
その準備の為に帯刀は江戸藩邸に必要
直ぐに江戸に出向させねばならぬ」
光定の言葉に重臣等は
再び進言する
「代替わりを滞りなく行うには
帯刀の働きが必要である事は
重々承知しておりますので
帯刀が菱尾を出るに異議はございません」
「ですが帯刀の妻を調べたところ
菱尾の者に非ず
実家は幕臣でございます
江戸に戻れば騒動を口外するやも知れず」
「何としても、今回のお家騒動は
幕府に隠し通さねばなりませぬ」
「帯刀のを妻を信用するは危うき事
子が有れば信用できますが
子の無い女子は信用できかねます
江戸へ戻せばこの度の騒動は
幕府に知られるところとなりしょう」
「たとえ諏訪家が譜代大名と雖も
幕府がお家騒動を知れば
何かしらの処分が下されるは必然」
「ですので帯刀の妻は
菱尾から一歩も外には出せませぬ」
この言葉に光定は驚き
「もしや其方等、茜を殺すつもりか
何の罪も無い女子を殺すと申すか」
と声を荒げたが
城代家老の何森は凛と言う
「お言葉ではありますが
菱尾藩士の行く末、領民の行く末と
女子一人の命どちらが重いか
殿には御一考頂きたく存じます」
重臣等は揃って頭を下げる
諏訪家は家を守るためにならば
肉親であろうが幼子であろうが
容赦なく手にかけ戦国時代を生き延び
徳川幕府の太平の世まで
大名家として確固たる地位を確立して来た
例え親兄弟であろうが妻子であろうが
お家を守るためならば躊躇なく手にかける
それが菱尾藩士の気性である
光定は家臣等の
菱尾藩を護ろうとする忠義は有難く思うし
皆の言い分は尤もと理解をする
だが、己が子供の頃から可愛がってきた
茜の殺害を人として容易には許可し難い
そもそも茜を帯刀に嫁がせたのは
他ならぬ自分である
光定は茜の殺害を思いとどままらせようと
「帯刀が妻を藩命により
殺害されたと知れば黙ってはおるまい」
皆に語り掛けたが
城代家老の何森は気迫を込め
「それは心配には及びませぬ
万事抜かりなく手回ししておりますので」
重臣等は何森の言葉に頷き
その眼は茜の殺害を心深く決めている事を
無言で物語っている
光定は深く後悔した
もっと早くに菱尾に戻れていれば
避けられた事態であろう
どうすれば茜を助けられるのかと悩む
「この件は儂に任せろ
必ず良きように計らう
だから決して茜には手を出すな」
と重臣等を宥め言い渡した
その日の評定を終えると
光定は側近に命じ
帯刀と茜の離縁騒動について詳しく探らせた
側近の報告を受けた光定は
ある人物を出しに使い
茜の命を守る賭けに出る事を目論んだ
だが心配なのは帯刀の事である
もし事が上手く運び茜を助けられたとしても
帯刀の心は平常を保てるのであろうか
「いや、帯刀ならば臣下の忠義を全うする」
そう願うように独り言を口にした
―――——— ―――——— ―――——
二日後
光定は討入り騒動の労をねぎらう為に
朝倉家を見舞った
主君を屋敷に迎えるは一族の誉れである
正長、尊子夫妻
信利、小夜子夫妻と息子の長賢
そして、帯刀と茜が平伏して光定を迎えた
「この度は朝倉の家人達に災難を掛けた事
誠に心苦しく思う。
また見事に難局を乗り越えた事
実に天晴れであった、褒めて遣わす」
家長の正長は
「お褒めに預り、恐悦至極に存じます」
と応えた
「正長よ、そう堅苦しくするな。
聞くところによれば
孫の長賢は齢十二でありながら
父等と共に戦うと願い出たそうな、
実に頼もしき若武者ではないか
長賢がいてくれれば
菱尾の行く末も安泰じゃ」
十二歳の純朴な少年は
主君の言葉に感極まらせ耳を赤くしながら
「はっ、文武両道に励み
必ずや藩のお役に立てる家臣となります」
光定は大いに笑顔になり
「何とも勇ましき事よ。
今日は其方等に褒美を取らせたい
何が所望か申してみよ」
「殿に朝倉家へ足をお運び頂けた事が
何よりの褒美にございます」
「そう申すな正長
何でもよいから望みを言うてみよ」
正長は光定の言葉に困り下を向く
そこに
「お恐れながら」
と尊子が声を上げたので正長が
「これ、よさぬか」
と窘めたのだが光定は
「おう、何か望みが有るのじゃな
遠慮は要らぬぞ、申してみよ」
光定に促され
堰を切った様に尊子が話し出す
「お恐れながら、
息子、帯刀の離縁を
お許しいただきたく存じます
帯刀の妻は嫁いで四年となるのに
子ができません。
その上、躊躇いなく人が斬り殺せる鬼
そんな者を妻にしている息子が
私は不憫でなりません。
どうか子を思う母心をお察し頂き
離縁をお許し下さい」
尊子の言葉を聞き朝倉家の皆は驚き
それまで上機嫌であった光定の顔は
見る見る不機嫌になる
だが内心では目論見通りの尊子の発言で
茜を救う事ができると膝を叩いた
「帯刀と茜を夫婦にしたのは儂であるぞ
なのに不満を申すか
それに命懸けで家人を護った茜を
朝倉家では鬼と申すとは聞き捨てならぬ」
と語気を強めた
何時もならば温和で
家臣に対しても気を遣う光定が
語気を強めた事に
茜は驚き違和感を覚える
尊子は主君の不機嫌などお構いなしに口を動かす
「お言葉では御座いますが
殿はあの晩の恐ろしい光景を
ご覧になられていないから
この女の本性がお分かりにならないのです
これは朝倉家には相応しくない女
どうぞ離縁をお許し下さいませ」
この言葉に更に光定の怒りが濃くなり
正長、信利、小夜子、帯刀は戦慄し
茜は光定の真意は何かと考える
「そうか、朝倉家には相応しくないと
どうしても離縁させたいと願うのだな」
光定が静かに言うと尊子は嬉しそうに
「はい」
と答えた
「茜は大切な者を護るために臆さず戦える
武家の婦女の鑑
菱尾から出すのは勿体無い女子
そこまで言うのであれば離縁させ
茜は我が側室とする」
尊子は唇を震わせた
離縁し落としい入れたかった茜が
側室になれば自分より地位が高くなる
それが悔しくて堪らない
茜は、自分を側室に迎えると言う
光定の言葉の裏に何があるのか
分からずに混乱する
帯刀は
「私は離縁など望んではおりませぬ
何卒ご容赦くださいませ」
と必死の形相で訴える
光定は激昂し
「儂が傍に置き安泰に過ごさせると言うに
其方は主君に盾突くか」
と怒鳴り
肘置きを帯刀目掛け投げた
例え槍であろうが刀であろうが
主君から投げられた物を避ける事は許されず
帯刀は微動だにできない
茜は冷静に考える
菱尾から出さない
傍に置き安泰に過ごさせる
この光定の言葉には意味があるに違いない
一体それは何なのか
そして一つの答えに辿り着く
あぁそうか、
今回の騒動が幕府に漏れる事を恐れる者等が
幕臣の出である私を殺そうとしている
狸爺さんは私を護るために側室にするのだ
茜は帯刀に向け投げられた肘置きを
手を伸ばし既の所で受け止め
そっと後ろへ置きながら考える
死ぬことは怖く無い
だが夫は自分の殺害が
藩命である事を必ず突き止め敵を打つ
そうなれば夫も殺される
自分が側室になれば
夫は憂色に包まれ悲嘆にくれるだろう
だが生き永らえてはくれる
どちらを選べば良いのか
「私の様な者が
菱尾藩主、諏訪光定公の側室になるとは
身に余る光栄」
夫は手を離すなと言った
自分は離しませんと誓った
離したくない
その手を離したくない
例え地獄に落ちようとも
愛おしい人のその手を離したくはない
茜の心は震えながら、そう叫ぶ
そして、愛ゆえの選択をする
「謹んでお受け致します」
茜の口から発せられた言葉に帯刀は色を失い
身体を硬直させる
光定は淡々と
「ふむ、では只今をもって
茜は我が側室とする。
明朝、迎えの籠が参るまで
朝倉家の者共はけして粗相無きよう
丁重に預り置け」
それだけ言うと
さっと立ち上がり城へ帰ってしまった
帯刀は
「これは夢だ、私は悪い夢を見ているのだ」
と繰り返す
―――——— ―――——— ―――——
朝倉家は無人のように静まり返り
夕刻から降り始めた雨の
屋根を叩く音だけが耳を包む
茜の傍には世話をする為に小夜子が侍る
城に上がるに際し
朝倉家からは何一つ持ち込むことは許されず
着物から肌着、装飾品が諏訪家より届けられた
だが、刀だけは唯一持参が許された
「帯刀様は如何しておいででしょうか」
弱々しく茜が尋ね
「夫が付いております」
と小夜子は答え
「そうですか」
茜は少し安堵したように言うと
一つ深呼吸をして
「クマを呼んでください」
と小夜子に頼んだ
クマは茜を前にして冷静を保とうと努める
「クマ、お前は私のただ一人の弟子
今日まで教えを守り修行に励んでくれ
師として嬉しく思っています
剣の修行は生涯に渡り続くもの
此れからも緩む事無く励みなさい
時折り十内先生を訪ねて教えを乞う事
良いですね」
「はい」
「私事で幾つか頼みがある」
「はい」
「江戸の屋敷に戻ったら
帯刀様に気付かれぬ様に
私の部屋に飾ってある風車を処分する事」
それを聞いたクマは
何時ぞや茜が
これは旦那様に初めて買って頂いた物
と青地に赤い鹿の子模様の風車を
大切そうに眺めていたことを思い出し
遣る瀬無い気持ちを押し殺しながら
「はい」
と返事をする
「私の物は全て山里家に引き渡すこと」
「はい」
茜は下を向き目を閉じてから
ゆっくりと前を向き話し出した
「私はその昔、己の未熟さの為に
唯一の友を死なせ
拭い切れない後悔を背負い生きてきた。
そして私は誓った
強くなると、強い剣士になると
強くならねば大切な人達が守れないと
十内先生にそう申し上げたら
未熟者と諭された
確かに、そんな考えで強くなりたいとは
剣客としては失格だ
それでも私は大切な人達を守りたかった」
そこまで話すと茜の声は途絶え
何かを堪えるように暫し遠くを見つめ
「クマ」
と再び話し出した
「私はもう帯刀様をお守りできない
どうか私に代わりに
帯刀様をお支えして欲しい」
手をつき頭を下げた
クマは膝の上の両手を震わせながら
「はい」
と応えた
「今日まで尽くしてくれた事
心から礼を言う
江戸のサワにも宜しく伝えておくれ
話はそれだけだ」
クマが部屋を出ると
小夜子が泣きながら言う
「義母上が殿のご不興を買わなければ
この様な事態にならなかったものを」
「それは違います
悪いのは菱尾藩に置ける私の存在そのもの
殿は私の命を救って下さったのです
帯刀様もいずれ心が落ち着けば解るでしょう
私は此れからも帯刀様が菱尾藩士として
お役目に励まれる事を祈るのみ」
―――—— ―――—— ―――——
クマは使用人部屋に戻ると頭から布団を被り
「何でだ、何でなんだ
何で仲睦まじい旦那様と奥様が。
こんな惨い事があっていいもんか
ちきしょう、ちきしょう」
と叫び
男衆は掛ける言葉もなく、皆が暗い顔で俯く
―――—— ―――—— ―――——
夜が明けた
屋敷の中は重苦しい空気だけが漂い
外では激しい雨が万物を容赦なく叩き
色を失せさせる
朝倉家の人々は茜を見送るため
傘を雨に打たせながら並んでいる
唯一城への持参が許された刀を抱え
茜は真っ直ぐと前を向き
脇目を振れて帯刀の姿が目に入らぬ様に
その先に有る籠だけを見つめ歩く
帯刀は去りゆく茜の姿を見まいと
傘の柄を握り締め
地面に弾む雨を見つめる
もう二度と逢う事が叶わぬ愛しい人の姿を
最後にもう一度だけ見たいとの
同じ想いを抱きながらも
視線は他を向く二人
茜は無言で門を潜り籠の中へ消え
無情を乗せた籠が
先の見えない雨の中を彷徨う様に遠ざかる
握っていた傘を高く放り
「茜」
と叫びながら帯刀が走り出す
信利は弟を後ろから羽交い締め叫ぶ
「堪えろ帯刀」
風に煽られた傘が舞いながら
ゆっくりと地面に吸い込まれる
兄と揉み合い帯刀は仰向けに転び
「好いた女子一人守れぬとは
なんと情けない男なのだ
こんな男が生きていて何の役に立つ」
そこには何時もの冷静さは微塵も無い
雨水が溢れる地面に寝転ぶ帯刀に
小夜子は傘を傾け
「茜様は、殿が命を救って下さった
悪いのは菱尾藩に置ける自分の存在
と仰せでした。
そして貴方の事を心配し
これからも
お役目に励んで欲しいと仰せでしたよ」
と泣きながら聞かせる
帯刀は小夜子の言葉に力無く
「ああ、そうかそう言う事か」
と合点したよに吐き捨て
「菱尾に連れて来なければ良かった
そうすれば茜を守れたのに。
いや、私と夫婦にならなければ
茜は自由に生きられたのに。
いや、私が恋心を抱かなければ
茜は翼を失わなかったのに。
菱尾に連れて来なければ良かった
連れて来なければ良かった」
そして喉が割れるほどに叫ぶ
「茜。茜。茜。」
帯刀の叫びに
色の無い雨の中で家人は皆が項垂れる
小夜子は帯刀に差し掛けていた傘をよけた
義弟の涙と雨が重なるようにと
正長が尊子の耳元に
「親が子を不幸にするとは
儂も其方も親失格じゃ」
「あんな女の事など直ぐに忘れますよ
帯刀は馬鹿では無いのですから」
と表情一つ変えずに屋敷の中へと入る尊子
―――—— ―――—— ―――——
籠に揺られる茜は
袖を捲り上げ血が滲むほど腕を嚙み締め
泣くな茜、胸を張って前を向けと
このまま消えてしまいたいと思う己を戒め
心は震わせども涙は零さず。